聖 書 出エジプト記4章18~31節
説 教 神が備えられたもの
前回、出エジプト記を説教したのは、3月27日でした。出エジプト記4章1~17節から「なだめすかされて」と題して説教しました。覚えておられるでしょうか。
神がエジプトで奴隷状態になっていたイスラエルの民を解放し、乳と蜜の流れるカナンの地に導こうとされます。神はモーセを選び、指導者として立てられるのです。3章では、召命の記事があります。しかし、モーセは自分のようなものはダメです。他の人を選び、その人を通してイスラエルを解放へと導いてくださいと訴えるのですね。
神は、手を変え、品を変えてモーセをなだめすかして、その気にさせられるのです。モーセは、まったく煮え切らない性格です。決断力に欠け、優柔不断です。「もういいかげん、モーセではなく、ほかの人でやったらどうですか」と、恐れ多くも神様に物言いたくなるほどです。いやいやで、渋ったモーセを叱咤して派遣しようとされる神です。
神様の選びは変わらなかったのです。モーセは仕方なく、神の仰せに従います。本日は4章18節からです。神がモーセの背を強く押して出発するのです。
本日は4つのポイントで説教します。その中でも、疑問点がいくつかあります。難しいところです。
- 1. エテロ、レウエル
18節は短い段落です。モーセはエジプトから逃亡し、40年間、エテロのもとに身を宿します。今で言う、亡命生活ですね。そこで、エテロの娘ツィポラと結婚し、二人の息子をもうけます。モーセは、エジプトに戻るに際して、エテロに別れの挨拶をします。婿としての礼儀ですね。
ここでエテロは2章18節では、レウエルと呼ばれていました。3章1節には、しゅうとであり、ミディアンの祭司であるエテロと名前が変わっていることに気づきます。この後、エテロとして名前が記されています。18章にも繰り返しエテロとして登場します。
わたしたちの主イエス様が、イエス・キリストと言うように、イエス様はお名前、キリス
トは称号です。油注がれた者、メシヤ。救い主です。ここでエテロは名前、レウエルは称号
だとの説があります。族長であり祭司でもあります。
- 2. 神の言葉
19節以下では、神の言葉が記されています。それは、エジプトでのモーセの働きと役割を指示されます。ファラオに対して。この21節から23節までの記事は、出エジプト記の前半の大切な個所です。要約されているのです。
とくに、神がファラオをかたくなにされた。そのことでモーセが神の代理人として語り、奇蹟を行ったとしてもファラオは聞き入れないというのです。
かたくなにされる。頑固で人の意見に従わない。
ロシアのプーチン大統領。ウクライナに侵攻。破壊、殺戮を繰り返しています。第二次大戦時のナチス・ドイツに等しい暴虐を指示しています。ヒットラーのようです。世界がそれを目撃しており、非難しているにもかかわらず、なお戦闘をやめようとはしない。日本も当時の満州を侵略、中国と戦争状態でした。朝鮮・韓国、台湾、東南アジアに侵攻しました。
沖縄、日本各地の本土空襲、広島、長崎の原爆。負けると客観的に分かっているのに、なお、戦争をやめず、抗戦している。一億総玉砕を叫び、徹底抗戦です。
かたくなにされる。こういうことです。国民のこと、いのちのことが判らないのです。
これから、モーセは神の代理人として奇跡を行いますが、ファラオは従いません。抵抗し、自己保身を貫くのです。罪の姿です。破滅寸前に至るまで、悔い改めることをしない。白旗を掲げ、負けを認め、神に服従することをしない。しかし、神の最終的なご計画は、長子の死による解決となります。出エジプト記12章ですね。それを予告されるのです。予表ともいいますね。
- 3. 神が備えられたもの
本日の説教題は「神が備えられたもの」です。何を備えられたのか。
①20節 「手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った」
②24節以下は、「血の花婿」について。
③27節以下は、「アロン」
エジプトに戻り、イスラエルの民を解放するための備えられたもの。これが神の杖であり、血の花婿の出来事(これは象徴でもあり、決定的な神のご計画の予表でもあるのです)とアロンです。
神の杖、杖は司牧の象徴です。牧者です。ローマ教皇の杖があります。祭司は杖を持っていました。杖はこれから随所に出てまいります。注意しましょう。
アロンは、モーセの兄弟でありパートナーです。モーセは、わたしは弁が立つほうではなく、口が重く、舌の重い者です、と辞退しています。しかし4章16節以下には、「彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい」とあります。
神の杖は、しるしを行う杖でもあります。神→モーセ→アロン。こういう図式です。
アロンは、祭司となる人物です。レビ人、祭司の始めとなります。アロンは、イスラエルの歴史の中で祭司の血統となるのです。アロンの子孫が代々、祭司となるのです。
こうして、これから神がモーセを通してなそうとされること、イスラエルの解放というご計画が整えられるのです。
- 4. 血の花婿
出エジプト記4章を通して、神が主権をもってご自身の計画を達成しようとされる。これが4章全体に表されています。その中で、「血の花婿」を考えましょう。
24節以下を読みますと、驚くべきことが記されています。不思議と言うか、謎と言う
か、不可解な聖書の箇所です。
「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた」
随分、物騒な記事です。もともと神がモーセを選び、炎の中から現れ、モーセに語りか
けて、エジプトにいるイスラエルを救い、解放する使命を与えられたのは神様です。いやい
やだったモーセに、これでもかと、なだめすかされてモーセをその気にさせ、ようやくエジ
プトに戻ろうとされたのです。その直後に、今度は、神はモーセを殺そうとされた。まこと
に不可解です。矛盾ですね。
なぜ、神はモーセを殺そうとされたのか。どんな瑕疵、過ちがあったのでしょうか?
25節以下にその答えが出ています。25節を読みましょう。
ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付
け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女
は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。
モーセとツィポラは夫婦です。ツィポラはモーセが割礼を受けていないことを知っているのです。夫婦関係にあるとそのことが理解されるのです。モーセは赤子の時にナイル川に捨てられました。エジプトの王女に拾われて育ったのです。エジプトは割礼をしない民です。王女の子として育ったモーセは当然割礼を受けていなかったことが理解されます。
しかし神はレビ族のモーセを選び、イスラエルを解放する使命を与えられた。しかし、足りないことが一つあった。それは割礼です。モーセが割礼を受けていないゆえに、子どもたちも割礼を施さなかったのです。それゆえに、ツィポラは息子の包皮の皮を切り取り、モーセの両足につけて、「血の花婿」と叫んだのです。両足とは、男子の股間を意味します。これはツィポラの機転であり、象徴行為と言われるものです。息子の割礼によって流された血をモーセの股間につけることによって、モーセが割礼を受けたこととされるのです。
神はアブラハムとの契約から、創世記17章ですね。すべてのアブラハムの子孫に対して、割礼を受ける。これが永遠の契約とされました。
(ヨシュア記5章 割礼の記事参照)
こうして、神が万全の備えをもって、モーセをエジプトへと送り出されることになったのです。備えあれば憂いなし。後顧の憂いを断ち、モーセは神の使者として、エジプトに赴くのです。
今年度の教会の標語として、「愛によって働く信仰」としました。ガラテヤの信徒への手紙5章6節です。5月1日に説教しましたが、この時の聖句は、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰です」でした。
イスラエルは、割礼をいのちとしていました。神はアブラハム、モーセを通して与えられた割礼を受けることが神とイスラエルとの永遠の契約とされました。これが旧約です。しかし、キリストの十字架の贖いによる血潮によって神の恵みを受ける新しい契約へと変わったのです。わたしたちにとって、またキリストの教会にとって、イエス様は十字架の血潮によって「血の花婿」とされたのです。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。(ローマ11章33節)
祈りましょう。
メモ
割礼のしるし
ツィポラ ミディアンの祭司の娘 ミディアンは割礼を受けている部族
23節の予表 神が決められたこと 長子のいのち
イエス