2022年4月17日 復活節第一主日 イースター礼拝
聖 書 マルコ16章12~18節
説 教 復 活
先週、わたしたちは受難週を共に過ごしました。教会によっては、新型コロナウイルス感染の前では、木曜日は洗足木曜日、聖書にあるように(ヨハネによる福音書13章)足を洗い、聖餐式を行います。金曜日、聖金曜日としてイエス様の受難の時を祈りのうちに過ごします。集まることができなくても、家庭で、個人の部屋で祈ることはできるのです。
そして、今日はイースター、復活日です。主の受難と十字架はまさしく、「主の苦しみがわたしたちの救い」、「主の辱めがわたしたちの力」、「主の絶望こそがわたしたちの希望」であるということです。そこにキリスト教の深い真理があります。
神がわたしたち人間を救うご計画は、まさしく人間の思い、知識を超えています。いかなる哲学や教えにもない、深い摂理を神は備えていてくださっているのです。
1.マルコによる福音書16章にみる復活のイエス様
本日はマルコ16章12~18節を通して復活日、イースター礼拝の聖書からの説教としました。
12節、13節を読みましょう。
その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
その後と言うのは、前の段落、つまり9節から11節のことですね。甦られたイエス様は、まずマグダラのマリアにご自身を現わされたのであります。9節ですね。
マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
イエス様の復活の最初の証人は、このマグダラのマリアです。マリアはイエス様に七つの悪霊を追い出していただいた婦人であるとあります。
こうしてイエス様は、マルコ16章12節からお読みしたように、二人の弟子に現れたのです。しかも、別の姿でご自身を現わされたとあります。そのため、ふたりは自分たちに現れた方がイエス様とは気付かなかったのです。なぜ気付かなかったのでしょうか。目に覆いがかかっていたのでしょうか。
そもそも、別の姿とはどういう姿でしょうか? 口語訳聖書では「異なる姿」と訳されています。異質な姿、いつも見ていた容貌とは違うということでしょうか。リヴィングバイブルという、意訳では、次のように訳されています。
その日の夕方、二人の弟子がエルサレムから田舎へ向かう道を歩いていました。そこへイエスが現れましたが、とっさには、だれだか見分けがつきませんでした。以前とは違った姿をしておられたからです。 やっとイエスだとわかると、二人はエルサレムに飛んで帰り、ほかの弟子たちにこの出来事を知らせました。しかし、だれも彼らの言うことを信じませんでした。
2.ルカによる福音書24章の復活のイエス様 エマオの途上
ルカによる福音書24章13節以下では、マルコ16章12,13節の短い部分がその20倍以上に亘って詳細に記されています。二人の弟子に現れたイエス様、マルコではわずか2節の記述ですが、ルカでは13節から35節に亘って記されているのです。エマオの途上と呼ばれる有名な箇所ですね。ここでは、復活された同じ日に、「エルサレムから60スタディオン離れたエマオと言う村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」とあります。
この出来事とは、イエス様がユダヤの裁判にかけられ、十字架につけたこと。墓に葬られたけれども、三日目にイエス様が甦られて墓は空っぽになっていたこと。マグダラのマリアたちに天使が現れ、イエス様が復活されたことを告げた。そのことですね。エルサレムからエマオまで、60スタディオンとは、約11キロです。仙台駅から名取駅くらいでしょうか。
ルカ24章16節では、二人の弟子は、一緒に歩いているイエス様が分からなかった理由が記されています。こういうことです。
「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」のです。
目が遮られていたとは、どういうことでしょうか。やはり、リヴィングバイブルでは、次のように訳されています。
しかし二人には、イエスだとはわかりません。神がそうなさったのです。
人間の目は、また、心においても、見ていても分からないことがあるものです。そこに、神がそうなさった。そういうことがあるものです。
彼らは信じなかったということです。それは、9節から11節のところで、マグダラのマリアにご自身を現された。そのことを知らせた。復活の証人として、イエス様が生きておられること、イエス様を見たことを聞いても信じなかったとあります。
イエス様が現れたことを見た人たちの言葉を信じなかった。マルコによる福音書は、そのことが言いたいのですね。
わたしたち、現代においても同じことが言えるのだと思います。神がおられる。語りかけておられるのに、分からない。聖書を読んでいても分からない。神がそうなさったのです。
そうとしか言えないことがある。ではどうしたら、分かるようになるのか。さらに、この復活によって、聖書はわたしたちに何を教えておられるのでしょうか。このことが大切ですね。イエス様の復活とわたしたちと、あるいは、このわたしと、何の関係があるのだろうか。
3.聖書に表された復活の記事
聖書には死者がよみがえった記事がいくつかあります。旧約聖書では、列王記ですね。預言者エリヤ、その弟子のエリシャを通して神は死んだ子どもを甦らされます。
列王記上17章17節以下 やもめの息子の死 預言者エリヤ
列王記下4章18節以下 シュネムの婦人の子 預言者エリシャ
新約聖書では、よみがえりの記事は福音書にもあります。
会堂司ヤイロの娘 12歳(ルカ8章40節以下、マタイによる福音書9章18節)
ナインのやもめの息子(ルカ7章11節以下)
ラザロのよみがえり(ヨハネ11章1節以下)
また、創世記においてはイサク。(ヘブライ人11章19節)
アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返し てもらったも同然です。
これらの事例があっても、分かることがあります。甦った人たち、生き返ってもまた死ぬということです。彼らは今も生きているわけではありません。復活しても死ぬのです。人間は永遠に生きるのではない。やはり死んでしまう。
しかし、イエス・キリストにある者は死んでも生きる。これがわたしたちの信仰です。
永遠のいのちを証しする。キリストにある者は、永遠のいのちにあずかる。
4.復活と永遠のいのち
パウロは、死者の復活と永遠のいのちについて、次のように語っています。
1コリント15章44節
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
霊のからだとして復活する。これが聖書の教えです。キリスト者の目標でもあります。
天に属し、イエス様と同じ似姿になる。(49節)
信仰の美しさ、聖潔(きよさ)、神の光にうちにあること。これがわたしたちの信仰であり、目的です。闇ではない。光のうちにある。その信仰です。神の守り、祝福がある。
イエス様の復活は、その証しであり、神の国、永遠のいのちの保証でもあります。
そして、教会が誕生して、今に至るまで数え切れない多くの人たちが福音を信じてきたのです。そして、復活の望みをもって、信じて、生き、そして亡くなったのです。天国の希望をもって生き、死んだのです。わたしたちもその信仰を強く持ち、信仰を全うしましょう。
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