2022年3月20日 受難節第3主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙8章18~25節
説 教 うめきと希望
本日の聖書の箇所、 8章18から25節は前の段落と異なり、理解するのが難しい箇所があります。前回の説教では、キリストの十字架によって贖われたと信じる者は、キリストの霊を持ち、神の子とされていること、神の相続人とされていること。そこに聖霊の法則による信仰を持つことの約束があるということでした。
今日の段落では、一足飛びですべて神の相続人とされるのではないこと。むしろ、それは将来の栄光として期待し、忍耐して待ち望むものであるというのです。そこには、「現在の苦しみ」が実際にあり、他の被造物と「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(22節)のです。また、23節「神の子とされること、つまり体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます」とあります。
ここでは、「うめき」という言葉が何度か出てきます。「被造物のうめき」(22節)、「霊の初穂をいただいているわたしたちも心の中でうめき」(23節)、「霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(26節)、
つまり、わたしたちは聖霊によって聖化(きよめ)されても、完全な人間ではないということです。主イエス・キリストの再臨によって、万物が更新され、贖いが完成する。そのことを言うのです。そのことを「栄化」と言います。
新生、聖化、栄化、栄化は「携挙」とも言われます。携え挙げられる。聖歌総合版669番の5節ですね。
携え挙げられ 主イエスに抱かる その日の喜び いかばかりぞ
備えは終われり いざ来たりたまえ はなむこなる主よ 救い主よ
主イエス様の再臨によって成し遂げられる救いの完成です。マタイによる福音書24章のイエス様のお言葉、またテサロニケの信徒への手紙一 4章16、17節の言葉ですね。
再臨の待ち望む信仰 再臨によって完成されるのです。それまで救われても、試練、誘惑はあり、苦難もあるのです。これがキリスト者の生活です。そのために祈り、聖書のみ言葉に立っていく。礼拝を共にする。イエス様の霊であられる聖霊はいつも共におられる。イムマヌエルの神なのです。
本日のローマの信徒への手紙8章18節以下においても、3つのポイントで説教いたします。
1.現在の苦しみ
信仰は苦しみが消え去り(消滅ですね)、幸福と繁栄が与えられるとは言っていません。痛みや悩みがなくなり、喜びに変えられる。そうも、言いません。もちろん、信じることによって、神のいやしと回復の恵みに与り、苦しみが消え、憂いも消え、喜び、感謝、幸いを受けることも当然あります。
わたしたちの人生は苦しみ、悲しみ、傷み、失望、苦労しても報われることが少ない。そういう経験を経てきたのではないかと思います。それでも、信じ続ける。
それは、神は慰めであり、希望を与え、苦しみや悩みの中にあっても生きる希望と力を与えてくださるからです。
聖書は、そのことを記しています。ローマ書8章18節からもう一度お読みします。
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
今は苦しみがある。しかし、将来与えられる栄光に比べると、その苦しみは取るにたりない。これが聖書であり、信仰の姿なのです。
恐縮ですが、わたしの姉のことを申します。姉は膠原病で10年間、寝たきりの状態になりました。名医がいると聞くと、全国の名医の病院に診てもらいに行きました。九州の福岡に住んでいましたが、名古屋や札幌、大阪、四国の高知県と通ったのです。しかし、よくなりません。結局は、両手を切断しました。数年後、両足も切断しました。車椅子の生活でした。自分では何もできませんでした。
夫は介抱の毎日で、実は体の調子が思わしくなかったのですが、妻の世話を優先し、自分の身体の痛みを構わなかったために、気がついたころには手のつけられないガンの進行であっという間に亡くなりました。妻が先に亡くなると思い、葬式の準備をしていたのですが、先に亡くなりました。その一年後に姉も召されました。66歳でした。
傍目には、悲惨に尽きる10年間でした。傷み、苦しみ、嘆き、こんなはずではない。病院を何度も変え、入退院を繰り返し、医師からは治らないと宣告され、両手両足を切断する。50キロあった体重が、最期には25キロに半減し、やせ衰えました。
救いは家族の愛です。夫の看病、介抱。娘と息子と孫ふたり、その家族の世話でした。
姉は病気によって、10年間苦しみましたが、信仰を最期まで持ち続けました。まさしく、
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」なのです。
姉は自分の死期を悟るようになり、亡くなったら、葬式の時、弟のわたしに告別説教をするように依頼していました。九州の福岡にいましたが、何度か見舞いに行きました。
亡くなり、わたしたちは家族で九州に行きました。説教の準備のためにほぼ徹夜でした。当日朝は、よい天気でしたが、葬儀が始まるころには雨が降り出したのです。土砂降りになりました。賛美の声は雨の音でかき消されるほどでした。それでも説教をしました。雷がなり、稲妻の光が小さな教会の礼拝堂を照らし出されました。外は昼間にもかかわらず闇のようでした。
説教が終わり、賛美歌、献花をしている間に、あんなに激しかった雨がやんだのです。雷もなくなりました。葬儀を終え、火葬場に行く頃には太陽が出ていたのです。
神は姉の死と葬儀を悲しみ、激しい雨と雷、昼間にもかかわらず闇のような暗さが蔽ったのです。しかし、葬儀のあと火葬場へと車は向かいました。火葬場に向かう途中、すっかり晴れ渡り、太陽のひかりが輝いていました。その光を見ながら、こころに感じました。
姉は天国に行った。そう確信したことです。神は姉を迎えに来られたのだと。
そのようなことがあるのです。これは真実です。
19節
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
22節
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
人間のみでなく、生きとし生けるものすべてが、うめいている。生みの苦しみを味わっている。現代社会の様相ですね。地球温暖化の中で、絶滅の危機にある動物、植物があります。人間社会の環境が大きく変化しています。人間の罪、飽くことがない欲望を満足させようと地球環境を破壊している。しかし、そのうめきの中で、なお希望を持ち続ける。
ウクライナ ロシアに侵攻され、爆撃、ロケット弾によって多くの市民が犠牲となっています。頼みの欧米諸国は、ロシアへの経済制裁のみ。武力での支援はなし。
誰がウクライナの人々を助けてくれるのでしょうか。自由、民主主義、言論の自由、集会の自由、表現の自由が保障されるところは幸いです。
ローマ書8章24,25節をお読みします。
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
この待ち望むという言葉は、首を伸ばして待つという意味です。鶴首と言いますね。鶴の首は細長い。そのように首を伸ばすように待つのです。一日千秋の思いで待つ。しかも、外に出て迎えるようにして待つ。
毎朝、わたしは5時前には起きて聖書と祈りのデボーション、密室の時を持っています。
教会のみなさんのために祈ります。ひざまずいて祈ります。
冬の間は、5時は真っ暗です。しかし、春になり、4月となれば明るくなりかけています。
東の空には、うす紅くなり、太陽が昇りかけています。地平線上に現れる曙光、いままさに昇ろうとする太陽を眺めていると一日の希望、喜び、意欲がでてきます。暗闇を忍耐して、光を待ち望む。人生において、光を待ち望む。その希望が力となるのです。
わたしたちの信仰は希望によって支えられています。絶望しかないところでも、望みを捨てない。これが信仰です。信仰は力となるのです。信仰は、眼に見えないものを待ち望むところで起こるものです。見ているもの、実現したところで終わるものではないのです。
現代社会において、神を信じるとは何か。そう、いつも考えます。眼に見えない神、その神を見るようにして信ずるとは、どういうことなのか?
出てきた結論は、こうです。聖書を通して与えられた神の答えです。
それは新しくされるという希望です。神がすべてを新しくされるという確信ですね。
聖書、旧約から新約にいたるすべての章で、神が約束されているのは、この希望です。
万物の更新です。いのちの再創造です。
まさしく、最初に申し上げたように、主の再臨を待ち望む信仰なのです。また、姉の死と葬儀を通して垣間見た神の国の恵み、神の憐れみと永遠のいのちへの招きです。
黙示録 21:5
すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
イザヤ 43:19
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
Ⅱコリント 5:17
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
わたしたちも、主イエス・キリストを信じたときに、新しくされたものなのです。
古いものを脱ぎ捨てて、新しいキリストを着なさい。そのみ言葉です。
イエス様の十字架と復活はその希望が確信へと導かれる事実であります。目に見えない神が目に見える人となり、十字架の贖いですべての被造物のうめきを喜びと感謝に変えてくださった。ここに神の恵みがあるのです。そして、いまや聖霊が共におられることで、確信を保証してくださる。
神によって新しい次元が切り開かれたのです。わたしたちはこの恵みの次元に入ることを許されたものなのです。感謝して進みましょう。
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