2021年12月5日 待降節第2主日礼拝
創立112周年・復興76周年記念
2021.1205.Syuuhou聖 書 ルカによる福音書1章68~80節
説 教 荒れ野で叫ぶ
先週はルカによる福音書1章5~25節から説教しました。説教題は「聖所で幻を見た」です。ザカリアという祭司に天使ガブリエルが現れて、高齢の妻エリサベトに子どもが生まれると神からのメッセージを語るところです。ザカリアは素直に天使ガブリエルの言葉を受け入れることをしなかったために、赤子が生まれるまで口が利けなくなりました。
本日のところ、1章57節からは、エリサベトは月が満ちて、男の子を産みます。八日目に、割礼を施すことになります。モーセの律法では、八日目に割礼を受けるように記されているのです。それよりも450年前にアブラハムとイシュマエルは割礼を受け、神との契約の徴としました。この割礼の定めは現代も守られているのですね。ユダヤ教徒、イスラム教徒は生まれた男の子は割礼を受けます。イエス様も八日目に割礼を受けているのです。
エリサベツが産んだ男の子はヨハネと命名されました。その時、口が利けなかったザカリアは、板を出させて「この子の名はヨハネ」と書きました。すると口が利けるようになったのです。64節を読みましょう。
すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
今の時代でいえば、この知らせはテレビやインターネット、SNSであっという間に広がったのですね。こうして、ザカリアは67節以降にあるように、聖霊に満たされて預言をするのです。68節から79節までがザカリアの預言です。
この預言の言葉は、ベネディクトゥス(ラテン語訳の聖書ですが、日本語訳は「ほめたたえよ」です)と呼びならわされています。68節の「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」とありますように、この最初の言葉「ほめたたえよ」がベネディクトゥスなのですね。
ちなみに、47節から55節は「マリアの賛歌」これは、やはりラテン語訳聖書ではマニフィカトです。47節の「あがめる」がマニフィカトです。音楽の世界では、讃美歌、聖歌やクラシック音楽では、よく歌われます。
さて、この預言の内容には二つあります。ひとつは救いに関する預言です。全能の神様が
旧約聖書において約束されていた救いと解放が実現するというメッセージですね。二つ目が、救いと解放の到来は旧約聖書において記されているように、まずエリヤが現れて救い主の到来を知らせる先駆けとなる。その先駆けの役割がヨハネであるということです。
そのことを見て行きましょう。
1.神の救いの計画の成就
①到来
この預言には、神様の主体的なみわざが第一に表されています。それは救いにおける神の主権です。68節「主はその民を訪れて解放し」とあります。訪れとは、いらっしゃること、到来です。ほかの訳を見てみますと、「主はその民を顧みて、贖いをなし」(新改訳)、「神はその民を顧みてこれをあがない」です。訪れるとは、「心をかける、世話をする」です。自分とかかわった者のところに訪れて、どこまでも心をかけて世話をし、面倒を見るというイメージです。ここには人間に対する計り知れない神の愛があります。
イスラエルの神である主は、過去において「その民を訪れ、贖い、解放されたのです」
神は決してご自身の民を見捨てることなく、彼らを顧み、エジプトから、あるいはバビロンから救い出されました。
②救い
救いという言葉が69節「救いの角」、71節「すべてわれらを憎む者の手から救い」、74節「敵の手から救われ」、77節「主の民に罪の赦しによる救い」と繰り返されています。イスラエルの歴史において、神の救いのご計画の終わりの時代、最終段階を迎え、新たな恵みが注がれようとしていました。ザカリアは聖霊に満たされて、「救いの角を、我らのために、僕ダビデの家から起こされた」と宣言するのです。「救いの角」は救いをもたらす強い力、救い主を象徴。18編3節「主はわたしの岩、砦、逃れ場。わたしの神、大岩、避けどころ。わたしの盾、救いの角、砦の塔」
ダビデの家系からイエス様の誕生を知らせるのです。そのイエス様によって77節「罪の赦しのよる救い」が成就されるのです。
③憐れみ
憐れみは聖書には何度も記されています。お腹を痛める。神様がお腹を痛めるほどにわたしたち人間のことを心配し、顧みてくださる。心にかけ、お世話をしてくださるのです。
その具体的な現われが、神が人となられ、十字架に架かられたことなのです。そこに、神の救いがあります。贖われたのです。
神の御子が十字架に架かられ、そのいのちによって、捕らわれていたところから解放された。神は全能ですから、十字架の死で終わらない。復活された。死からよみがえり、最終的な敵である罪と死に打ち勝たれたのです。
④平和の道
神の救いの最終的な目標は、平和です。78,79節「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」
2.先駆けとしてのヨハネ
預言の内容の二つ目
旧約マラキ書に記されている終わりの日の時に、エリヤが遣わされるという預言があります。3章23節「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」
マラキは、旧約の預言書の最後です。そして、イエス様までの間、イスラエルの民は、メシアの到来を待ち望みました。そして、なによりもメシア到来前のエリヤを待ち望んでいたのです。ルカによる福音書は、このヨハネこそがエリヤなのであるという預言なのです。
3.その後のヨハネ
80節
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。
ヨハネのその後については、マタイでは、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを行い、そこにイエス様が来られて、イエス様に洗礼を施しています。ヨハネによる福音書では、ヨハネはイエス様を見て、「神の小羊」として弟子に示します。その弟子はイエス様のところに行き、イエス様の弟子になるのです。
ヨハネは、荒れ野で叫ぶ声となります。ヨハネによる福音書3章27~30節では、
「自分はあの方の前に遣わされた者だ」と自覚し、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と証しするのです。
ヨハネはヘロデ王により殺害されます。殉教者でもあるのです。
今日は、仙台青葉荘教会では創立112周年と復興76年を兼ねた記念礼拝です。どこの教会も創立した年から記念礼拝あるいは集会をいたします。復興というのは、どういう意味でしょうか。これは、青葉荘教会独自の記念集会です。
戦時中、キリスト教は敵国宗教として厳しい取り締まりの対象でした。どこの教会も特高といって、警察の刑事が出席しており、熱心にメモを取っていたのです。牧師は熱心な求道者だなと期待したものですが、それは牧師の説教を厳しく記録したのですね。おかしなこと言わないかとか・・・とくに、再臨のことをいうと天皇と再臨したイエス様とどちらがえらいか、神の国の統治者がイエス様です。天皇が下だというと、これはもう致命的な迫害の対象となるのです。
1942年6月26日、ホーリネス教会の弾圧があり、牧師が検挙、逮捕されました。約150名の牧師です。2年から終戦まで監獄、留置場に捕縛されたままです。そのうち6名の牧師が拷問に遭い死んでしまいます。殉教です。
当時の仙台青葉荘教会牧師であられた中島代作先生も検挙、逮捕された一人です。2年間の仙台刑務所で拘置されました。教会は解散させられ、牧師としての職務を剥奪されました。戦争が終わって解放されます。そして戦後、自由になり、最初の礼拝をささげたのがこの12月第一聖日であります。
わたしの出身教会である京都復興教会は、牧師は竹入先生と申しますが、やはり治安維持法で逮捕され、投獄されます。3年間獄にありました。戦後、解放されましたが、間もなく亡くなられました。殉教者の一人でもあります。
牧師は、主のために生き、主のために死ぬという召命感を持っていますが、時代によってはヨハネのように、ペトロやパウロのように、捕らえられて殉教していくことも覚悟しているものです。今の時代は、むしろ信教の自由が保障されている憲法下で、むしろ教会も伝道者、牧師も緊迫感がなく、生温さがあるのではないかと思わせられます。
黙示録3章15節に「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。冷たいか熱いか、どちらかであってあってほしい。熱くもなく冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そう」とあります。
戦後76年たち、弾圧が風化しているかと感じます。1941年12月8日真珠湾攻撃の日、アメリカ合衆国と戦争となりました。大東亜戦争がはじまりました。沖縄、本土空襲、広島、長崎と日本国民は塗炭の苦しみを経験しました。
それでも、福音を宣べ伝える。これが教会でもあります。その先頭に立っているのが牧師、伝道者でもあります。しかし、時代によって牧師像も変わります。
N牧師のことを証しして終わります。
荒れ野で叫ぶ声 この時代。福音を語っても、誰一人、見向きもしないような世の中。
まさに荒れ野で叫ぶのです。
ヨハネ的な伝道者のひとりです。
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