2021年8月15日 聖霊降臨節第13主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙5章1~3節
説 教 キリストによる神との平和
8月は「平和の月」と呼ばれています。例年、8月に入ると必ずといってもよいほどテレビや新聞等のメディアで戦争に関する特集が組まれ、広く報道されています。そこには先の第二次世界大戦の悲惨さが語られるのです。数えきれない人命が戦争によって失われ
ました。一人一人に哀しみの記憶があります。
わたしたちキリスト者は、教会の暦であるクリスマス、イエス様の受難であられる十字架、そして復活、ペンテコステを毎年、かならず礼拝で守ります。
それに準じて、わたしたち日本国民として8月は語られるものでもあります。そこには、神の国を待ち望むキリスト者の責任として、戦争を起こさないために祈り、活動していく必要があるからです。
教会は神にあって平和の道具とされている。これがわたしたちの信仰です。戦争や戦争における殺人は神のみむねに背くものです。今の戦争は近代的兵器による大量殺戮です。「敵を愛しなさい」とイエス様は語られました。十字架の死においても、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と赦しの言葉を語られました。
さて本日の聖書の箇所5章1節から2節までを説教いたします。お読みいたします。
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
本日の聖書は、8月15日の聖日に語るに相応しい聖書の箇所であります。ここには、「主キリストによって神との間に平和を得ており」とあります。
平和の尊さを否定する人はいないと思います。しかし、どれだけの人が神との間に平和を得ているか、しかもその平和はイエス様によって与えられる神との平和ということであります。
聖書が意味する平和にはいろいろな意味があります。ギリシャ語はエイレーネ―という言葉が使われています。このエイレーネ―は、平安とも訳されています。手紙やメールの最後に「平安」と結びの挨拶で使うことがあります。皆さんもそのようにされている方もおられることでしょう。「主イエスからの平安がありますように」そのような意味合いですね。そこには、どちらかというと個人的な心の状態を意味するものです。
これに対して、「平和」というと、争いとかいさかいがない社会的状況を指す場合が多いようです。ここにあります「神との間の平和」は、神との間に対立や敵対関係がないだけでなく、神との間に豊かな交わりが実現していることを意味しています。
もともと神と人間との関係は、敵対関係とまでいかなくても、どちらかというと隷属関係、支配と服従という関係にあったのではないかと思います。そこには罪の問題があり、神の言葉に対する反抗、不従順により審きとして神の怒りがあらわされたのであります。
律法を守る、神の定められた掟、戒めを守ることによってしか、義とされなかったのです。しかし、「すべての人間は罪の下にある」(ローマ3:9)のです。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:23)と記されているとおりです。
しかし、神の憐れみにより、イエス様を信じる人に、神は義とされた。これが神との間に平和を得る唯一の手段であり、めぐみなのですね。そこに、神からの祝福が満ちあふれている状態でもあります。神と人、社会の中で人間と人間という人格的交わりの調和、そして一致があり、そこに神がわたしたちにあたえられる神との平和であるのです。
こうして、イエス・キリストの十字架による贖いによって、神とわたしたちの関係が「アッバ父と呼ぶ、父と子の関係」となり、愛の関係、喜びの関係、祝福の関係と導かれたのです。そして、キリストにあって永遠のいのちを与えられたのです。
このような大いなる恵み、祝福はありません。ハレルヤ!
その意味で、イエス様が「平和を実現する人々は幸いである。その人は神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と言われました。実現するとは、造り出すという意味です。それは、平和のために自身を献げることでもあります。
平和のために献げるとは、和解の使者としての務めを与えられていることを指しています。「和解の使者」と言うと、2コリント5章を連想いたしますね。5章11節から21節です。このローマ書5章10節からでも、和解の務めを託されたことが予見されます。
5章10節「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」
本日は、8月15日 終戦記念日です。はじめに申しました。8月は広島、長崎、敗戦の日です。そして、もう一つの季節を代表するものがあります。甲子園の高校野球です。帯状前線のため、各地で長雨が続いており、甲子園の高校野球が順延しています。東北学院高校の活躍は楽しみです。
その甲子園の高校野球ですが、2003年7月、栃木大会で代表となった小山高校は藤岡高校との試合で54対0というラグビースコアを記録しました。大人と子供のような力の差がある、圧倒的な力を持ったティームの攻撃力を見せ付けました。
ラグビーの国際試合で、国と国のティームの試合をテストマッチと言いますが、ラグビーがブームを巻き起こしました。ワールドカップが2019年に日本で開催されましたね。
わたしは50年以上前からのラグビーファンです。国を代表して戦う試合に日本はかつて1995年のワールドカップでニュージーランド145対17で大敗を喫しました。オールブラックスです。まさしく「赤児の首をひねる」という言葉通りに完敗しました。国辱的な負けです。でも、こうした試合(ゲーム)は、どんなに力の差があっても、手心を加えないというのが、紳士的であるとのことです。相手を辱めない。大人扱いをするということでしょう。対等であるからこそ、一生懸命力の限りを尽くして戦う。これがスポーツの美学であると思います。
しかし、本当の戦争、命と命のやりとりとなるとどうでしょうか? 第二次大戦アジアでの太平洋戦争で、アメリカ軍は圧倒的な軍事力を見せ付けました。日本軍の力の差は歴然としていました。映像の記録で、アメリカ軍の火炎放射器によって日本人は丸焼きにされています。艦砲射撃に雨霰の砲弾により、沖縄は3分の1の人が犠牲となりました。これでもかこれでもかと、容赦しない殺戮を繰り返しました。本土空襲では、多くの人命が失われました。老人も子どもも、女性たちも。数十万の日本人が焼夷弾により焼け野原となったのです。
その最後の仕上げが、広島・長崎の原爆です。一瞬で何十万人の命が奪われました。
戦争は悲惨です。
わたしは、この説教を黙想(meditate)しながら、こういうことを考えました。もし、アメリカ軍が手心を加えていたらどうなるだろうか? アメリカはもっと多くのアメリカ人の若者が日本人によって殺されるだろう。だから、原爆を投下するのはやむをえなかった。そういう声が大きくなるでしょうか?
でも、それはまやかしです。単なる言い訳に過ぎません。原爆を使用するとは、普通の感覚ではできないことです。戦争を早期に終わらせるためであっても、許されないことです。
十字架を黙想すると、神の愛と恵みがどんなに人間の想像を超えているのか、よく分かります。神は偉大な方です。天地創造の神、全能の神です。不可能なことは何一つない神です。その神が、御子イエスを十字架につけるということがどういうことなのかを想像(imaginate)すると、神の愛と赦しの恵みの大きさを理解できるように思います。
神は天の全軍を率いて戦うことが、おできになる方です。その圧倒的な力、支配力は何ものも及ばないのです。神の絶大な力とエネルギーは人の想像もできないものでしょう。しかし、その神が、神の方から平和のために手を差し伸べられたのです。十字架は和解の象徴(symbol)です。
「神はキリストによって世をご自身と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(コリント二 5:19~21)
「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(ローマ5:6~11)
1945年7月アメリカ、ソ連、イギリスの3国首脳はポツダムで会議し、日本に対してポツダム宣言を提示しました。無条件降伏を勧告したのです。
日本は拒否しました。その結果として、広島・長崎の原爆投下です。
圧倒的な勢力、軍事力を誇り、日本の敗戦は時間の問題でした。そして、敗戦国日本、ドイツ、イタリアなどの指導者は裁かれます。
神は、全能であり圧倒的な力を持っておられます。その支配は全地全宇宙に及びます。その神が、神の方から平和のために無条件で、いやむしろ独り子イエス・キリストを十字架につけるというはなれわざを行われて、和解の提示をされたのです。勝利者が敗者となったということです。
もはや、あなたがたを裁かないという宣言です。こうして、神はご自身の平和を提示されたのです。わたしたちに真の平和をもたらされたのです。
だからこそ、聖書は人知を超えた<神との平和>と宣言するのです。
それは主イエスの十字架に裏打ちされた平和であり、神の愛です。
神の与えられる平和によって、わたしたちは自己のうちに平和を保つことができます。感謝して神を讃美し、礼拝しましょう。
祈ります。
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