2021年8月1日 聖霊降臨節第11主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙4章13~16節
説 教 神から受け継ぐもの
7月に入り、ローマの信徒への手紙4章1節から12節までを説教してきました。7月4日は「信仰の法則」、11日は「信仰の模範」と題して説教いたしました。そこには、行いによる義か信仰による義かが問われました。行いとは、一般に行為義認とも言われます。ここでは、律法や規則、決まりを忠実に守り、行うことを指しています。それに対して、信仰による義とは、文字通り信じることによって義とされるということです。
「義」とは法廷用語で、元来有罪とされるべきものが、無罪となる。これが神の義です。罪を犯してきた人間がその罪のゆえに有罪となるわけです。この世の法律です。しかし、神との関係において、神が定められた律法を破る。それは罪を犯すことです。そこに神との断絶があります。律法はいったん絶たれた神との回復を修復する手段も記されています。つまり、神との関係を回復し、神との交わりを再度持つことができるのです。罪を犯さない人間はいないからです。逃れの道が備えられているのです。こうして、神との正しい関係を修復し、神との交わりを回復するのです。それは、レビ記などに記されています。牛や羊などの動物のいけにえを神殿に持ってくるのです。そこで祭司が祭壇のまえで屠り、焼き尽くす捧げ物とするのです。
こういう手順によって、罪の赦しが得られる。これもまた律法に規定されているのです。
ローマ書は、これらの律法を守ることもまた行いであると記すのですね。信仰によって義とされる。律法に定められたいけにえを捧げられることはもうよいのだということです。
聖書は、このことを神の恵みと言います。これが信仰の法則であり、その信仰の模範として、アブラハムを例としているのです。しかし、行いの法則は、自分の努力であり、そこには神の一方的な恩寵、恵みに対する感謝、応答はありません。
さて、本日の聖書、4章13節から16節までですが、再度お読みしましょう。
神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。
ここでは三つのことばが注意を引きます。重要な言葉です。第一は「約束」という言葉です。
1.約束
神の恵みは、約束という言葉で表現されます。約束は実現されるべきものです。約束しても、ちっとも現実のものとならない。それは空約束ですね。嘘ということです。今日は、仙台市長選挙の投票日です。市長選に立候補した候補者は選挙のために、いろいろ公約を発表しました。公約ですから、市長に当選したなら、真っ先に実現するという重要な約束です。 ことし、秋には衆議院選挙が控えています。国会議員です。候補者は所属する政党の公約に基づいて約束の一員となるのです。今までの国会で、どれだけの公約が実現されたでしょうか?
聖書において、約束を結ぶのは、神と人です。人は神の約束を信じて、従う。信頼する。これがわたしたちの信仰です。アブラハムもまた、神の約束を信じました。それゆえに、信仰の父となったのです。
神様が約束されたことを信じる。恐れ多いことですね。あの天地万物を創造された全能の神様が、ちっぽけなわたしたち人間に約束をされる。アリのような小さなもの、イザヤ書には「虫けらのようなヤコブ」という言葉があります。まさしく、わたしたちは虫けらのような人間といっても過言ではないでしょう。そのわたしたちを神様は独り子イエス・キリストを信ずる信仰によって、義とされ、神の子とされるのです。
これはすごいことなのですね。天地がひっくり返るような、驚くべき恵み、奇跡の恩寵といってもよいでしょう。それほどまでに、神様はわたしたち人間のことを大切にしてくださる。愛してくださるのです。
ところで、ギリシャ語には、約束と言う言葉は二つあります。
一つは、ある条件のもとに交わされる約束で、ヒュポスケスィスという言葉です。「あなたがあれをするなら、わたしはこれをする」という条件付の約束です。契約関係ですね。
たとえば、保険があります。健康保険、生命保険、自動車保険、火災保険など。前もって、保険をかけ続ける必要があります。契約には担保が必要です。お金またはそれに相当する物ですね。不動産のようなものです。担保なしの契約はないのです。この担保によって、いざという時、保険の契約があるために、必要な保険金が払い出されます。これは保険という契約関係ですね。そういう約束です。
もう一つは、まったく無条件に心の善意からなされる約束で、ἐπαγγελία(エパンゲリア)です。
神の約束は、この無条件の約束であります。それは無条件の愛です。いわば、担保なしの契約と言ってもよいでしょう。実際は、担保はあるのですが・・・それは御子イエス・キリストの十字架です。でも、いま・ここでの問題点ではありません。次回に回しましょう。
パウロは、アブラハムを例に出して、それを証明します。イスラエルの人々から信仰の父として尊敬され、慕われているアブラハム。そのアブラハムが義とされたのは、行いによるのではなく、信仰によってではなかったかとパウロは論ずるのです。それは無条件の約束なのです。あるとしたら、それは信仰なのです。何かを行ったからではないのです。
では、神様はわたしたちにどういう約束をされたのか? それが先ほどお読みしました13節からの言葉ですね。神様はその約束を必ず実現される。これが聖書の信仰です。2千年、3千年にわたって信じ続けられた神様の言葉、約束、契約です。
何を約束されたのか? それが二つ目の言葉です。それは「受け継ぐ」という言葉ですね。
2.受け継ぐ
受け継ぐという言葉は、この短い13節から16節までに3度出てきます。13節、14節、16節ですね。この受け継ぐという言葉、κληρονόμος(クレーロノモス)という言葉が使われています。これは、相続という意味です。ほかの翻訳聖書を読み比べますと、口語訳聖書、新改訳聖書では、相続と訳されています。神様は信仰者、ここではアブラハムですね、そのアブラハムを相続人をとして法的に定められているということです。
相続については、ローマ書においては重要な言葉で、これから何度も使われています。神様はアブラハムを相続人として、ここからアブラハムの信仰を模範とするすべての信仰者に対して、相続すべき財産を与えようとされるのです。
では、神様は何を相続させようとされるのでしょうか。受け継ぐようにされるのでしょうか。それが三つ目です。世界ですね。
3.世界
何を受け継ぐのか? 何を相続するのか。これが大切です。受け継ぐとは、具体的なあるものです。13節をもう一度お読みしましょう。
神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束された」と書いてありますね。世界です。そう、世界なのです。すごいですね。どんな世界なのでしょうか?
旧約聖書で「受け継ぐ」というのは、土地を相続することです。アブラハムにはその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」の広大な土地が約束されました(創世記15:18)。
しかし、これは世界の一部の土地であって、世界そのものではありません。ところが、新約聖書の時代となると、神が世界を裁かれる終末時に、それまで世界を支配していた悪人が滅ぼされ、アブラハムの子孫である選ばれた義人が世界を支配するようになると信じられるようになっていました。これを終末論と言います。新約聖書においても、この終末思想が受け継がれました。それはイエス様の再臨によって世の終わりが来るという信仰です。
ここでは、パウロはアブラハムへの約束を「世界を相続する者となる約束」と記すのですね(マタイ5:5、25:34)。再臨は、世の終わりですが、神の支配と統治による救いです。
アブラハムにこの約束が与えられたのは、モーセによって律法が与えられる前のことですから、この約束は律法を順守する者に与えられたものではありません。その約束は「律法による」あるいは「律法に基づく」ものでもないのです。創世記15章では、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(6節)ので、神はアブラハムと契約を結び、土地を与える約束を与えられたのです。このように、「世界を相続する者となるという約束」は、信仰による義に基づいていることになります。
創世記を連続講解説教してまいりました。とくにアブラハムからイサク、ヤコブ、そしてヤコブの12人の子どもたちとの共通の相続があります。それは祝福ですね。とくに、イサクの二人の息子、エサウとヤコブは祝福をめぐって争うのです。
世界と祝福、このふたつは新約聖書にも引き継がれている大きなテーマです。世界は、再臨による世の終わりとして実現される神の国です。神の国における永遠のいのちです。
わたしたちイエス様の十字架による贖いを信じる者にとって、神様から与えられる、相続人として与えられるものは、神の祝福です。そして、永遠のいのち、神の国の安息と平安ですね。この大きな恵みを代々のクリスチャンは2000年の間、約束されているのです。主の再臨の時に、与えられる究極の恵み、祝福です。その約束を信じて、今日も神様から与えられる使命を全うしましょう。信仰の応答は、礼拝と献身であります。
天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
(マタイによる福音書25章34節)
主の祈りにおいても、御国を来たらせたまえと祈ります。
御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。(ルカ12章 32節)
天地創造の時から、わたしたちは選ばれているのです。これがわたしたちの信仰です。神はキリストを信じる者に、惜しみなく義とされ、神の国のいのちを与えてくださるのです。
神がともにおられるということ。ご臨在の主です。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、生きている者の神です。その方がわたしたちの神、わたしの神となられる。これこそが、神様の大きな祝福です。御国の主がわたしの神となられるのです。キリストにおいて、御国を来たらせたまえと祈った、その御国が来ているのです。与えられているのです。これがわたしたちの信仰なのです。
祈ります
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