2021年7月4日 聖霊降臨節第7主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙3章27~31節
説 教 信仰の法則
一般社会で人を評価する言葉に、「あの人は理論家だとか活動家だ」とか言うことがあります。理論家というのは、筋道立てて理屈を述べることが得意な人のことでしょう。また、理屈や理論よりも、行動が最初に行ってしまう人を活動家も言ったりします。
聖書で活動的な人物といえば、ペトロでしょうね。直情径行の持ち主と言われます。理論や理屈よりも、まず行動する。思ったことをすぐに喋ったり、行動に移し、あとから後悔することがあります。飾り気のない、気さくな人物として愛されています。
ペトロの失敗談や唐突な言葉は枚挙に暇ありません。マタイ16章の信仰告白、その直後にイエス様から叱られます。「サタンよ、引き下がれ。神のことより、人間のことを優先している」と。また、イエス様が捕らえられ、裁判にかけられた時、イエスを知らないと否認します。17章では、高い山にイエス様と登っていくと、イエス様の体が変えられる。栄光の姿をまとわれる。そのとき、感動して思わず話し出します。
これに対して、パウロは理論家であります。何しろ、ローマ書からはじめて、新約聖書の手紙の多くがパウロによって書かれたものですし、その手紙がキリスト教の発展に大きな影響を与えたのはまぎれもない事実です。イエス・キリストの十字架と復活の意味を理論化し、体系化したと言ってもよいでしょう。
ペトロは、ペトロの手紙だけが残っています。しかし、神学的には本当にペトロが書いたものか疑問であるとされています。ガリラヤ出身のペトロは、当時の公用語であるアラム語を話し、聖書の言葉であるギリシャ語は話せなかったと考えられています。
パウロとペトロ、どちらが好きと申しますか、人間的な意味でファンがあるようです。ただ、正典としての聖書を書いたのですから、神の言葉として受け入れ、信じることは必要でありますが・・・
本日の聖書には、理論家パウロの真骨頂のような言葉が出てきます。「法則」という言葉です。
「法則」というと、自然科学や経済関係でよく用いられます。「何とかの法則」という名前です。苦手な方もおられると思います。「法則」という言葉を聞くだけで、学校時代のことを思い出して拒否反応を起こす方もいらっしゃるかもしれません。
法則とは、辞書を引きますと、1 守らなければならない決まり。 規則。おきて。「法則を守る」という事例をひいています。2 一定の条件下で、事物の間に成立する普遍的、 必然的関係。また、それを言い表したもの。「遺伝の法則」「因果の法則」があります。
パウロは、この法則という言葉が好きでよく使用しています。ローマ書なら「罪と死の法則」(8章2節)は、罪を犯した結果、死と滅びの罰と裁きを受けるという意味ですし、同じ8章2節に「霊の法則」(御霊の法則)があり、キリストを信じる者は、死と滅びより救われ、イエス・キリストによって永遠のいのちを約束されるという信仰の法則を言います。
ほかにも7章23節には「心の法則」という言葉と「罪の法則」という言葉を対立的に用いています。
本日の聖書3章27節以下には、やはり二つのあい対立する法則が出てまいります。
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
1.行いの法則
パウロは、「行いの法則」という言葉を使っています。この「行いの法則」とは何か?
文字通り、行いです。行為義認。行いによって、正しいとされる。ここでは、律法を守ることで、神様にほめてもらう。「よくやったね。ご褒美をあげよう」ということです。
信仰的には救われる。永遠のいのちに預かるということですね。それが行為義認ですね。行いによって義とされる。救われるのです。律法を守る。十戒。安息日を守る。割礼。
さらに言えば、行いの法則とは、自分の行為を誇ることです。これだけやりましたよ。こんなにやってきましたよ。そのように、自分の業績を数え上げます。社会的な地位や身分を誇ります。数を誇り、こだわります。そして、人と比較して、自己を優れたものとし、他者を見下す。仕事をしない人を容赦なくこきおろし、非難・攻撃する。
ユダヤ人の律法主義がそうでした。律法を守ることでは、優等生だったのです。しかし、守れない人を罪人と悪者として非難攻撃し、自己を義としたのです。徴税人や娼婦、当時の社会の底辺にいた人たちを徹底的に見下し、排除しようとしました。
しかし、イエス様は罪人の友として徴税人や娼婦、いわゆる弱者と共に生きられたのです。そうではない。律法を守れない人も神様は憐れんでおられる。そのことをわきまえ知りなさい。これがイエス様の福音です。
2.信仰の法則
信仰の法則とは、行いの法則と対立するものです。「できなくても大丈夫だよ、神様はあなたを天国に導くのですよ。イエス・キリストを信じることで神様はあなたを義としてくださるのですよ」。そう言ってくださるのです。
大変ありがたいですね。律法主義というのは、「何々しなければ、駄目です。守りなさい。行いなさい」。これが共同体に受け入れられる条件でした。しかし、イエス・キリストの福音は、信じることが大切です。行いが優先されるものではないということです。もちろん、行いを軽んじているのではありません。行い、働きをしなくてもいいというのでないのです。では、行為や業績は必要ではないのかという問題が起こります。一生懸命やってきた人が評価されないでは、不公平ではないか。馬鹿を見るではないかという問題が次に生じます。ただ、それを誇り、他者と比べて、優越感を持つことがいけないというのです。
誇ることなく、むしろ弱者を憐れみ、寄り添っていく。そういう態度ですね。神に向かう敬虔さでもって、他者、弱者に向かう。そこには自己を誇ることはありません。
イエス様のご生涯がそれを現している。
ルカ福音書18章9節からのたとえでこのようにあります。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
心の法則とは、信じることであるがままに受け入れられる。信じることによって、高ぶるのではなく、謙遜であることを言います。
釣りばか日誌という映画をご存知でしょうか。
西田敏行演じる「浜ちゃん」と三国錬太郎演じる「鈴木建設社長」の懸け合わせが面白い映画です。落ちこぼれなのですが、どこか憎めない。愛されている。釣りの名人であるという一芸に秀でている。仕事の面だけで言うと、やることなすこと失敗ばかり。公私混同も甚だしく、会社にとってはマイナス人間なのです。こんな社員、早く首にすればいいと思うのですが、実は浜ちゃんがいることで、会社の事務所が生き生きしている。失敗しても、本人はけろっとして悪びれることがありません。むしろ、失敗によって皆さんが安心感を持つのです。失敗してはならないという緊張感があると事務所は硬くなり、潤いがなくなります。浜ちゃんがいることで空気が和らぎ、活気付くのです。浜ちゃんは皆に愛されているのです。何よりも浜ちゃんによって社長が癒されている。会社全体が活性化され生き生きしてくるのですね。
神を信じる者は、すべて落ちこぼれであると言います。神の前ではすべて罪人であるからです。
ローマ書3章20節
なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
3.唯一の神
29節からお読みします。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
律法を確立するということ。
パウロは、律法を否定してはいないのですね。キリスト信仰が律法を確立するというのです。それは神の言葉です。申命記 マルコ12章30節 申命6章4節、レビ記19章18節
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛すること。隣人を自分のように愛しなさい。これが律法の中心であります。
それを体現されたのが、イエス・キリスト様です。キリストの福音、十字架による贖いです。
イエス様も言われていますね。
マタイ5章 17、18節
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」
神は唯一のお方です。ユダヤ人の神、日本人の神、アメリカ人の神、世界のすべての人の神。この方こそがイエス・キリストの父なる神様です。キリストを通して、すべての国民の神となられた。
アブラハム、イサク、ヤコブの神は、わたしの神である。その信仰ですね。
わたしの神として神と共に歩む、生きる。その信仰によって、キリストわが内にあって生きる。そこに律法主義を超えていく信仰があるのです。神はわたしの神。イエス様が言われたように、アッバ父。
聖霊によってアッバ父と呼ばわる恵みを与えられたのです。感謝しましょう。
行いと信仰をあわせるものが必要です。それはキリストへの愛です。愛がすべてを結ぶ帯なのですね。 ここにすべてを解決する道があるのです。
説教メモ
「法則」はギリシャ語原典ではノモス、律法、原理、原則
フランシスコ会訳→ 原理 岩波→ 法則 新改訳→ 原理
文語訳→ 律法 前田訳 → 律法
3:27
RSV.
On what principle? On the principle of works? No, but on the principle of faith.
K.J.
By what law? of works? Nay: but by the law of faith.
ギリシャ語
διὰ ποίου νόμου; τῶν ἔργων; οὐχί, ἀλλὰ διὰ νόμου πίστεως.
Comments are Closed