2021年6月6日 聖霊降臨節第3主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙3章9~20節
説 教 信仰の喜びとは
本日の招詞は、第一テサロニケ5章16から18節でした。教会員の多くの方は、この聖句を愛誦聖句とされていると思います。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」です。
信仰生活で喜びがあることは、大切なことです。信仰生活に喜びがないことは、辛く、悲しいことです。実際に、現状と違う自分の心の状態で、落ち込んでしまうこともあるかもしれません。ときに、長い信仰生活を送っていると、そういうことはあろうかと思います。重い病気、重大な事故、やはり家族の病気、職場での人間関係の葛藤、学校での教師とクラスメイトとの関係で、ですね、いじめ、ハラスメントなどで苦痛を感じ、いやな思いをする時などですね。信仰には試練があり、それに伴う忍耐が必要なこともあります。それでも、この聖句が信仰の励ましとなり、慰めとなるのですね。
本日の聖書ローマ書3章9節からを読みましょう。
1.すべての人は罪に支配されている
9節
では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
聖書は、人が苦しみ、悩むのは罪の支配下にあるからと言っています。いのちの源である神を捨て、神から離れたからであるといいます。そこでは、生きる意味を失い、自分勝手な道をそれぞれ歩み、孤立し、互いを憎み、疎外し、ついに殺しあうようになる。神を見出し、立ち返るまでは、人は平安も生きる意味と喜びもない。聖書が示しているところです。
ヨハネ15章5節には次のことばがあります。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
神につながっていることで、いのちを受けていますが、離れると、切られてしまい、養分が行き渡らず、いのちを失い、枯れてしまいます。神から離れるとは、このことを意味しています。
大切なことは、つながっていること。聖書を読み、祈り、賛美すること。基本的に、わたしたちは一日3食、食事をします。食べたくないという時でも、健康のために食べます。少しでもいいので食べる。同じように、毎日、1章でもいいので、聖書を読む。一年に1度は通読するという目標をたてるのもいいです。一日、4章読めば、一年に1回は通読できます。
祈るときは、主の祈り、使徒信条でもいい。食事の時でもいい。朝、寝る前に祈る。そういう習慣を持つこと。それが信仰のちからとなります。つながっているということです。
2.罪の支配下にある人間の悲惨
10節以下を読みましょう。ここでは、罪の支配下にある人間の悲惨さが具体的に記されています。
次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
「正しい人はいない」という言葉ですが、ほかの聖書の訳では「義人はいない、ひとりもいない」とあります。詩編14編1節からの引用です。
ちなみに、10節から18節までは、旧約聖書からの引用文です。ここでは細かいところなので、省略しますが、説教原稿では旧約のどこからの引用かを示しています。
(10節から18節までは、旧約の預言者の言葉です。10~12節は詩編14:1~3から(七十人訳ギリシア語聖書一部変更されて引用されています。パウロが「善を行う者はいない」の章句を「正しい人(義人)」に変更したと見られます)。13節は詩編5:10から。14節は詩編10:7から。15~17節はイザヤ書59:7~8から。18節は詩編36:2から。それぞれ七十人訳ギリシア語聖書を少しづつ変更して引用しています)
とくに注目すべきところは、罪の身体、肢体と申しますか、からだの各部分である器官が具体的に記されているのですね。
13節「のど」「舌」「唇」 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
14節では、「口」 口は、呪いと苦味で満ち、
15節では、「足」 足は血を流すのに速く、
16節 「道」 その道には破壊と悲惨がある。
17節 彼らは平和の道を知らない。
18節 「目」 彼らの目には神への畏れがない。
罪の現実 のど、舌、唇、口、足、道、目というように、人間の五感 「見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる」ですね。そして五官 「目、耳、口、鼻、皮膚」のすべてで罪を犯しているという現状です。人間の退廃、腐敗、破壊です。「罪の支配下にある」人間の悲惨が、聖書の言葉によって描写されます。
毎日のニュースを見聞きしていると、まさにそのような悲惨さで目も当てられない状態です。
ローマ書3章は、律法について論じています。つまり、律法は真の解決にならないということなのですね。律法を守ることで、かえって律法の本質である愛が切り捨てられてしまう。
20節
なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
律法は正しい者を作るため、神の命令に忠実に従う者にいのちと祝福を与えるためのものです。しかし、何度も申しますように、律法を守ると、逆に神と人を愛するのではなく、人を裁き、自分が神の立場となってしまうのです。
そこには、謙遜や神の前で畏れおののき、魂が砕かれるのではなく、自分を誇り、他者を見下し、裁くようになるのですね。
律法は真の救いにはならないということなのです。仏教でいうと、他力と自力ということになろうかと思います。律法は、自分の力で救いを得ようというのです。
3.キリストの血潮が罪から解放し、自由にし、いのちを与える
まさしく、罪からわたしたちを解放し、自由にし、いのちを与えるのは、キリストの十字架によって流された血潮のみです。これが神の計画です。神が人となり、すべての人の罪の贖いとなって、十字架にかかられた。
人は自分の力で、自分自身を解放し、いのちを与えることはできないのです。
さて、ここで、身体のオーバーホールと心のオーバーホールをしましょう。オーバーホールは点検と快復、いやしです。信仰の点検は大切です。自動車の車検ですね。わたしたちの信仰も自己点検が必要です。聖会、修養会、アシュラムなど、特別の恵みが用意されている。そういう集会に出席することは大切ですね。
去年も今年もコロナ禍のために、教会は自粛していますが、その分、自分で聖書を読み、信仰を養う書物を読むことです。仙台青葉荘教会には、書棚があります。キリスト教書店や図書館にも負けない優れた霊的書物、教理を学ぶ書物もあります。積極的に活用していただければと思います。
先ほど、3章10節から18節、とくに14節からの五感と五官についてお話しました。罪に支配されている人間の悲惨です。聖書は、同じ五感、五官でも主にお献げしたクリスチャンの祝福の聖句があります。Ⅰコリント12章12節以下です。
罪に支配されていると分裂するだけですが、聖霊によって清められると統合するのです。
14節以下を読みましょう。
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたし
は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
キリストの体として神を賛美し、ほめたたえる。呪いではなく、祈り、賛美に変えられる。
13節「のど」「舌」「唇」
彼らののどは開いた墓のようであり、 賛美、祈り、味つけられた唇
彼らは舌で人を欺き、
その唇には蝮の毒がある。
14節では、「口」 口は、呪いと苦味で満ち、 賛美、信仰告白
15節では、「足」 足は血を流すのに速く、 福音伝達の足
16節 「道」 その道には破壊と悲惨 キリストの道、伝道、建設と喜び
17節 彼らは平和の道を知らない。 永遠のいのち
18節 「目」 彼らの目には神への畏れがない。 顔と顔を合わせて神を見る
信仰の喜びは、まことの生ける水であるイエス・キリストを信じ続ける。賛美と祈りのこころを絶やさない。礼拝を大切にする。個人だけでなく教会での礼拝にて霊とまことをもって神を礼拝する。これこそが主に喜ばれる礼拝であり、わたしたちの信仰の喜びが溢れるのです。
いまは、コロナ禍に中にありますが、収束する時には、そろって礼拝いたしましょう。
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