2021年5月9日 復活節第6主日礼拝
聖 書 ヨハネによる福音書21章15~25節
説 教 再献身
2016年10月2日からヨハネによる福音書を連続講解説教してまいりました。今日が最後の説教です。74回目となります。
主イエス・キリストは、十字架につけられ死に至られましたが、三日目に復活されました。復活のおからだをマグダラのマリアに、そして弟子たちに顕現されました。20章、21章と説教した通りです。
とくに、21章では、ガリラヤに居を移した弟子たちに主イエス様は現れました。弟子たちは、漁をしていました。そして、イエス様は漁でとれた魚を焼き、ご自身が備えられたパンとともに食事をとられました。先週は、食卓は主の晩餐を象徴していると申しました。また、5つのパンと二匹の魚を象徴していると。
1.主の食卓
食卓は、交わりです。愛さんですね。よろこびと感謝の交わりです。甦られたイエス様を中心に、そこではどのような会話がなされたでしょうか?
会話の内容は? ただの天気の話とかではないことは確かです。「天気がいいね」とか「たくさん魚がとれてよかったね」とか。
内容は、神の国について、霊的(スピリチュアル)なこと、永遠のいのちについて、愛とは、赦しとは、生きるとは・・・それが話の内容ではないかと思います。
イエス様が教えられたことを一つ一つ確認し、こころが燃える思いをしたことでしょう。弟子たちは語らずとも、イエス様のお姿と眼差しを見て、すべてを理解したに違いありません。
わたしたちがイエス様にお会いした時のことを考えてみましょう。あるいは、天に召された時のこと、神の国での祝宴に呼ばれた時のこと。どのような会話となるでしょうか?
復活された主のご顕現で、弟子たちは畏れで語るべき言葉を失っていたのではないかと察します。しかし、こころは満たされている。喜び、感謝、いのちと光の主イエス様を間近にしたのです。こうして食事を終えて、まずイエス様が声をかけられるのですね。
2.声かけ
食事が終わると、イエス様はほかの弟子たちがいる面前で、ペトロに声をかけられます。
15節「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」
ヨハネの子シモンとは、ペトロの名前です。ペトロとはイエス様がつけられたあだ名です。ケファとも言いますね。岩という意味です。教会を支える堅固な岩。土台ですね。
「愛しているか」 二度、三度、ペトロにそう問いかけられます。
17節
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」 ペトロは、イエスが三度目も「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。
そこには、裁判の際に、ペトロが三度イエス様を否認したことにありました。
それは、ヨハネによる福音書13章36節からですね。木曜日、弟子たちの足を洗われます。マタイ、マルコ、ルカでは最後の晩餐のところです。ここでは、4つの福音書が共通してペトロの離反を予告しています。ルカ22章31節からのところをお読みします。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
この後、イエス様一行はオリーブ山に行き、ゲツセマネの園で祈られます。そこにユダヤの群衆が来てイエス様を捕縛するのですね。その後、最高法院で裁判が行われるのですが、中庭にまぎれこんだペトロに「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言われます。ペトロは即座に否定します。「そんな人は知らない」 こうして3度、周りの人々から指摘されるのです。その度に、ペトロは打ち消し、呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓い始めたのです。
ペトロの失敗、挫折です。イエス様への否認、裏切りです。3度、知らないと否認した時、鶏が鳴き、イエス様が、鶏が鳴く前に3度、わたしを知らないと言うだろうとの言葉を思い出して、外に出て激しく泣いたとあります。絶望したことでしょう。あてもなく彷徨い、苦しんだことでしょう。自分はなんてみじめな人間なのだろうと、自分を責め、悔い、悲しんだことでしょう。
いま、復活されたイエス様はそのペトロに対して、「あなたはわたしを愛しているか」と3度尋ねられます。3度知らないと否認したことを想い起し、そのことでイエス様が3度愛しているかと尋ねられる。ペトロは悲しい思いをします。罰の悪さを感じたことでしょう。
イエス様は皮肉屋ではありません。弟子の失敗に対して叱責することはなく、追い詰めて「お前はダメな奴だ。失格だ!」とダメ出しをすることはなさらない。まことに復活のイエス様はジェントルマンでいらっしゃる。恥をかかせることはなく、寛容であられるのです。
人間の弱さ、欠けを熟知しておられるイエス様は、立ち直るチャンスをも与えてくださるのです。先ほどのルカ22章32節にあるように、
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
そうして、ペトロは失敗と挫折、絶望から立ち直ったのです。そして、「牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」(33節)とその言葉が真実になるのですね。
3.召命-再献身
「わたしを愛するか」の問いかけに、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるたびに、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われます。そして、「わたしに従いなさい」と召命の言葉を語られるのです。
「小羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」(16節) 羊は教会を指します。イエス様はまことの羊飼いです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。(ヨハネ10章11節)
そのようにイエス様はわたしたち罪びとのために命を捨ててくださいました。十字架の贖いです。そして、いま、復活されたイエス様は自分を裏切り、否認し、離反したペトロに対して、わたしの羊を飼いなさい(17節)と言われるのです。ペトロは、そのような資格があるのでしょうか。人間的には「ノー」ですね。しかし、イエス様は「イエス」なのです。
パウロ流にいえば、「誰がこの任に堪えられようか」です。イエス様の支え、聖霊のちからがそこにあります。
ペトロは、どんなに喜びに満たされたことでしょう。主イエス様の愛が心の底まで伝わったのではないでしょうか。愛と赦しです。
「あなたはわたしを愛しているか」という問いは、本当は、イエス様こそが「ペトロよ、わたしはあなたを愛しているよ」と言われたことなのです。キリストの愛なしに、召命はありません。献身もありません。羊を飼うこともできません。イエス様の愛と赦しがあるからこそ、ペトロは立ち直り、この方のためなら命を捨てることができると確信したのです。逆転の人生です。
ちなみにここでいう愛は、ギリシャ語ではアガパオ―です。アガペー(愛)の動詞です。
フィレオー(身近な人への情愛を指します)イエス様は三度愛するかと繰り返されますが、
初めの二回は動詞《アガパオー》が用いられ、三回目は《フィレオー》が用いられています。
ペトロは、三回ともフィレオーです。
こうして、ペトロは命をかけて、羊の世話をするのですね。教会の指導者、岩として立てられるのです。
マタイ、マルコ、ルカでは福音書の初めにペトロの召命がありますが、ここにきて再度の召命があります。イエス様の復活後の召命です。ここにきて、ペトロは再献身の誓いをするのです。「あなたのためなら命を捨てます」(13章37節) 「死に至るまでも仕えまつらん」。
19節には、ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われた、のです。
こののち、聖霊降臨によって教会が誕生し、ペトロたち12使徒、のちにパウロも加わって、福音の宣教が驚くように広がっていきます。「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたように、福音が語られて多くの信仰者が生まれました。教会組織が造られ、発展していったのです。しかし、迫害も起こりました。ローマ帝国とユダヤ教は教会を迫害したのです。そして、多くの殉教者がでました。ペトロは、迫害にあって牢に入れられ、そして殉教するのです。
伝承では、十字架につけられるとき、「わたしは主であるイエス様を知らないと否認したものです。弟子としてふさわしくないものです。しかし、そういうわたしに対して主イエス様は、愛と赦しをもってわたしに従ってきなさいと言われた。もったいないことです。イエス様と同じ十字架ではなく、さかさにしてください」そのように言って、さかさ十字になって死んだと言われます。
「あなたのためなら命を捨てます」(13章37節) 「死に至るまでも仕えまつらん」。
召命と献身の基は愛、赦し、贖いです。
4.愛する弟子のこと
最後に20節以降について申します。ここには、「イエスとその愛する弟子」という小見出しがあります。この愛する弟子とは誰なのか。いろいろ説があります。名前がないのです。このヨハネによる福音書を書いたのは、この弟子であると24節に著者本人が記しています。ヨハネによる福音書の特異性 他の三つの福音書とは異なるスタンスがあるのですね。
このテーマを語れば、本日の説教の趣旨と異なってきますので、これ以上は申し上げること控えます。聖書研究という形で、いつか機会があればお話しできればと思います。
ここでは教会の組織、指導者、教理、神学的な問題があります。
お祈りいたします。
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