2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日礼拝

2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日礼拝

聖 書  ローマの信徒への手紙1章1~7節

説 教  選びと召し

2020-0920-shuuhou

 

本日は、「選びと召し」という説教題です。月に一度、創世記を講解説教しています。その時にも、何度か申し上げていますが、旧約聖書と新約聖書に一貫して流れているテーマがあります。いくつかのテーマ、言葉があります。そのひとつは選びですね。神はアブラハムを選び、アブラハムをすべての民の信仰の父とされました。聖書に流れるテーマは神の愛。そして、一番本質的なテーマは、主イエス・キリストの十字架の贖いと永遠のいのちです。

 さて、選びには目的があります。それは祝福です。それは、アブラハムを通して信じるすべての人に祝福が与えられるためです。選び、そして祝福ですね。神の愛と祝福を与えられるのです。通りよき管とされる。祝福が注がれるのです。そこに伝道があります。証し人として立てられるのです。教会のわざとしての伝道です。

 わたちたちは、聖日ごとに礼拝をささげます。礼拝の中心は、神の言葉、賛美と祈りです。そのときに感謝の応答としての信仰告白があります。主の祈りですね。そして、信仰告白、使徒信条。何度も確認するのです。血となり、肉となっています。

同じように、いつも確認し、感謝する。それが「わたしたちは選ばれている」という信仰と感謝です。主なる神様の大きな恵みに心から感謝するのです。

 今日の聖書、「選びと召し」です。

 1章1節をお読みします。

  キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、

前回9月6日の礼拝説教は、同じローマの信徒への手紙1章1節から7節までで説教しました。「キリストのしもべ」と題して説教しました。本日も、同じ聖書の箇所です。

本日は、この「選び出され、召された」というところですね。選びと召しについて説教します。召しは召命であり、献身ですね。

 今日も、三つのポイントで心を留めましょう。

 

1.選ばれる条件

神に選ばれるには何かの条件があるのか、ということです。

日本国政府は、先に安倍首相が病気を理由に任期を残して辞任しました。官房長官であった菅義偉氏が自民党の総裁に選ばれ、また、国会において国会議員の投票選挙で多数を得て総理大臣に選ばれました。選んだのは、国会議員ですね。国会議員を選んだのは、日本の国民です。

選ばれる条件があります。いろいろありますが、政治のことはさておき、信仰の世界では、選ばれる原理が違います。選ぶのは、神様であるということです。神の選び。これが聖書に一貫して流れる選びです。

 アブラハムは、75歳にして神に選ばれ、召命を受けました。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」

アブラムは、主の言葉に従って旅立った。七十五歳であった。」

ダビデの召命 「わたしは・・・人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(新共同訳 サムエル記上16章7節)

       「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」

イザヤ、エレミヤの召命の記事は、神様の主権ですね。人間の思いを超えておられる。

聖書における信仰者は、神の選びとそれに呼応した信仰者の列伝です。

信仰の世界において、とくに聖書において、選ばれるとは、どういうことを意味しているのでしょう。神に選ばれる条件とは何でしょうか。能力、家柄でも、どこの大学を出たかとか、財産でも、社会的な地位でもありません。

権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。

(ゼカリヤ書4章6節 口語訳)

選びだされた。召命ですね。神様の御用のために選び出されたのです。パウロは、キリスト教会を迫害していた人物です。危険人物ですね。恐れられていました。そのパウロを神は選び出されたのです。その目的は、「召されて使徒とされた」とあります。召されたのです。

変わったのです。人は神との出会いによって、変わります。劇的に変わることもあれば、ゆっくりと変わることがあります。変身です。それは、人格の変化です。高くなる。柔らかくなる。キリストにあって変えられるのです。

 選ばれて、神のしもべとなったのです。そこに神の主権があります。これが聖書の神様のご意思であるということです。どんなに小さな者でも、神の召命を感じる時、そこに神の選びがあります。

 

2.選びの目的-使徒として召されたパウロ

神の選びの目的は、福音を宣べ伝えるためです。伝道です。「選び出され、召されて使徒とされた」のです。選びと召しはひとつです。使徒というのは、福音を宣べ伝える役目を与えられた人のことを言います。伝道者です。イエス様の弟子は、使徒といいます。パウロは、イエス様の直接の弟子ではありません。むしろパウロは、キリスト教会を憎悪し、反感を持ち、迫害をしていた人物です。使徒言行録8章1節、9章1節以下

そのパウロに、復活されたイエス様はご自身を現わされたのです。パウロは回心します。迫害していたパウロが今度は、福音を宣べ伝える側へと変わるのです。そのために、牢獄に入れられること、鞭で撃たれること、石を投げつけられたこと、難船したこと、一昼夜海上に漂ったこと、盗賊の難、ありとあらゆる苦労を経験します。

「こんなことになるのだったら、信じないほうがよかった」 

普通なら、そういう呟きをしそうですが、むしろ、それを喜ぶのですね。キリストのために受けた苦しみは、わが喜びだというのです。パウロは、神に選び出され、召されて使徒とされたのです。その使徒としてパウロは世界中を旅し、福音を宣べ伝えたのです。

3.キリストのしもべは、神の福音のために召されて、使徒とされる

1節を再度、お読みします。

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、

 「召されて」という言葉は、クレートスというギリシャ語です。英語ですとCallコールですね。召命です。このギリシャ語のクレートスは、動詞クレオーの変化形です。完了体・受動詞(受け身形)では、クレーシアとなります。

教会のことを、ギリシャ語ではエクレーシアと申します。エクレーシアは、召された人たちの集まりということができます。教会は、イエス様に召された人たちの集まりなのです。わたしたち一人一人は、イエス様に選び出され、福音を伝えるために召されたのです。わたちたちもパウロと同じように、キリスト・イエスのしもべということができます。パウロのような大伝道者ではありません。しかし、自分の身でもって、キリストを証しする。これがイエス様に召された意味なのです。キリストの証人ですね。

使徒としてパウロは、キリスト・イエスのしもべであり続けました。

キリストのしもべとして、福音の使徒としての生涯を全うしたのです。わたしたちも、キリストの証人として、福音に生き、信仰生涯を全うしましょう。

 最後に、キリストのしもべとして選ばれたとは何なのかを改めて考えたいと思います。

 

主人の命令に従う

しもべは主人の命令には絶対服従です。軍隊の兵士が上官の命令には絶対服従と同じです。軍隊の兵士は、国のために戦うこと。そして、敵国の兵士を殺すことです。その数が多ければ多いほど、英雄となります。

キリストのしもべは、主人の命令に従います。主人の命令とは何か? 二つあります。福音を宣べ伝えること。人を生かす教えです。殺すのではなく、生かすのです。永遠のいのち、魂の救い、平安といやし、喜びの生涯を送るための福音を宣べ伝えるのです。

マタイ28章19節

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 

 もう一つは、ヨハネ15章17節

「互いに愛し合いなさいです。これがわたしの命令である」

  福音を宣べ伝えることと愛し合うことは矛盾しません。両立するのです。むしろ、同じことかもしれません。神の愛は、わたしたちのためにキリストを送られたことです。キリストに生きることは、神の愛に生きることなのです。

 この世の兵士は、敵国を憎まなければなりません。敵を愛するのは、イエス様の言葉です。軍隊は敵国の兵士を憎み、殺すのです。

  今、教会はパウロの使徒職を受け継いで、福音を宣べ伝える役目を神様に与えられています。教会がそして、教会のみなさんが選び出され、召されて福音の使徒、証し人とされているのです。

従って、教会は愛し合いつつ、伝道するのです。愛のないところで、いくら伝道しても人は集まりません。魅力のない教会に誰も来ないでしょう。人は愛を求めるのです。

②しもべは、主人の意志をよく知っている。

 主人の意志、それは主人のこころです。愛のこころです。それは神の言葉です。

 しもべは、主人の人格に触れている。それは十字架につけられても、なお、「父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか分からないのです」と祈られました。自分を十字架につけた人をも赦され、執り成しをされる愛です。わたしたちは、主イエス・キリストの愛とまことに触れています。

③しもべは、主人の愛を体験している。

  経験しているのです。味わっている。キリストを味わいなさい。聖霊によって、祈りの中で主と語り合っている。

詩編34:8 「主の恵みふかきことを味わい知れ」とあります。聖餐式の時に読まれる聖句ですね。

  わたしたちは、しもべとして主に仕えていくとき、主イエス様の方から近寄ってこられます。そして、このようにお褒めの言葉をいただきます。

ヨハネ15:14~15 

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

  友として遇してくださる。これこそ最大の名誉、祝福ですね。アブラハムも神は友と呼ばれました。そのように、神のみこころを知り、行いましょう。