2020年9月13日 聖霊降臨節第16主日礼拝
聖 書 コヘレトの言葉3章9~13節
2020-0913-shuuhou説 教 永遠を思う心
本日は敬老の日の記念礼拝です。75歳以上の兄弟姉妹を覚えて敬老をお祝いいたします。
先ほどお読みいただいた聖書、旧約聖書です。あまり説教に取り上げられることがない聖書の箇所ですね。しかし、有名なところでもあります。
1.人にはその人の時がある
1節から8節までは時がある。その時について記しています。
1節をお読みします。
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時
と続くのですね。この「時」は、数えると28あります。それぞれ対になっていて、反対の言葉ですね。生まれる時、死ぬ時、植える時、抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時。肯定的、否定的なもの、積極的なもの、消極的なもの。それぞれ対になっています。8節は愛する時、憎むときとなっていますが。憎むとき、愛する時と理解します。
わたしたちは、いまどういう時を迎え、過ごしているのでしょうか。コロナ・ウィルス禍の時、あるいは熱中症の危機の時と言えるでしょうか。その時は、いつまで続くのでしょうか。しかし、その時はいつまでも続くのではないことが分かります。一過性、永遠に続くのではない。始まりがあれば、終わりがある。そういう時ですね。始まる時、終わる時がある。
1節から8節の中で、皆さんの時は何でしょうか。
これらの時は、だいたいわたしたちは経験している事柄でもあります。体験と申しますか。破壊は、人間関係における破壊も言えるかもしれません。好き嫌い、信頼、裏切りなどの人間関係において、破壊し、建てることもあるのです。
4節 泣く時、笑う時/嘆く時、(踊る時―喜びに満たされて躍るのでしょうね)
5節 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
6節 求める時、失う時/保つ時、放つ時 (執着を捨てる、断捨離という言葉がはやりましたね。終活、自分の人生の終わりを見つめて、必要でなくなったものを始末し、すっきりする。家庭の主婦は、押し入れのゴミを始末しないうちは、死ねないと言いますね)
7節 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
8節 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。 (愛する時、憎むとき、戦いの時、平和の時、人間はいつの時代も戦争を行ってきました。平和の尊さを想い、実現を願います。
こうしてみてみますと、わたしたちはたいていのことを経験しています。まだ経験していないことは、死ぬ時ですね。自分の死です。死については、家族、親の死、親類の人の死を若い時から経験しています。動物の死、犬や猫のペットですね。その死は見てきて知っている。しかし、わたしたち自身は、自分の死は経験していません。経験した時は、死んでいる時です。
2.神の時
1.は人の時があるということです。しかし、それで終わらない。神の時があります。神のご支配、神の配剤とも言えます。人の時に、神が介入される。神がかかわられるのです。
それを転機ということができるでしょう。それは変化の時です。人生における成熟、成長が見えるでしょう。歳を取ったことからくる成熟とは言えません。歳を取っても、成熟しない人もいます。そこに神の御介入を見ることができる。
また、神の時、それは、美しい時でもあります。そこに幸い、美しさがある。喜び、感謝。
10節 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
11節 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
口語訳 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
「美しい」「麗しい」「時宜にかなって」といろいろな訳があります。神の時があり、それは神の配剤、神がわたしたちの人生の時々に介入され、導かれている。そこに神の計画があるというのです。その時々に意味がある。その信仰で生きる。それが大切なことだと信じます。
永遠への誘い。もっと美しい世界への誘いがある。
永遠。神に創造された人間が死に定められた。しかし、主イエス・キリストの十字架の贖いにより救いを与えられ、命へと導かれた。
神の救いを見、そこから永遠を思うのです。
イエス様は言われました。
わたしが道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14章7節)
そのいのちなる神、イエス・キリストを信じ、自分のいのちをイエス様に委ねること。そこに、永遠への道が与えられ、備えられているのです。
わたしたちが永遠を思うこころを与えられていること、そして、現実に永遠を思うことに、永遠なる神との合一、ひとつとなり、永遠のいのちにつながっていることを信じます。これがキリスト教の信仰です。
自分が死んでも、残された人たちがいる。その人たちは、いつまで生きているか、分からないけれども、また死んでします。人は生きていても、いつか死ぬことになっている。
永遠に生きるわけではない。永遠なのは、神様。永遠を思うというのは、永遠の神様のことを考え、信じること。神様の恵みといのちにあずかること。これが人の生きること。
4.敬老の日
75歳以上の方、仙台青葉荘教会の教会員では、47名いらっしゃいます。8月29日に菊地信子姉が90歳で召されました。菊池信子姉を入れると、48名ですね。子どもの時から、また青年時代から、それなりに歳をとってきてから、教会につながり、イエス・キリストを救い主をして信じ、洗礼を受け、信仰生活を送ってこられた。救われた喜び、感謝の信仰生活。しかし、いろいろ試練や誘惑の時も経験されてきたのではないか。そう推察します。しかし、今、ここにある。そこに、神の大きな恵みと祝福が注がれてきました。そうですね。
わたしのことを申し上げて恐縮ですが、わたしは20歳前後から死を意識してきてきました。と言っても、自死ですね。自殺を考えたわけではありません。ただ、死とは何か。そのことを深く考えてきたのです。皆さんもそういう時を持たれたことがあろうかと思います。長い人生で、死とは何か。考えてきたことがある。
死を考えるということは、生を考えることでもあります。死とは何か。それは同時に生きるとは何か。そのことを考えることでもあるのです。よりよく死ぬために、よりよく生きる。これが一番大切なことです。よりよく生きるとは何か? 何か哲学めいたことですが、いのちを大切にするということです。
生きる意味と生きる価値を確かめる。そのことですね。
1節、生まれる時、死ぬ時。誰でも生まれれば死ぬのです。
その時は、生まれてから成長し、大人になり、社会的働きをする。家庭を築き、子どもを産み、またその子供が生まれ、成長し、大人になり、社会的な働きをする。そういう循環を何世代も繰り返してきたのですね。その個人ひとりひとりの人生はかけがえのないもので、大切です。ひとりのいのちです。重い。
今日は、敬老の日の記念礼拝です。Hさんのことを紹介します。岩手におりましたころ、80歳になる老夫婦が教会に来られるようになりました。孫、ひ孫もおり、一緒に生活されています。公務員を退職され、悠々自適の老後、余生を送られていました。息子さんの家族と一緒に生活されているのですが、好々爺として家族の皆から愛されているのです。
悩みも苦労ありません。どこと言って病気もありません。
子供のころ、教会学校に行っていたというのです。幼いころに知ったイエス・キリストの教えをこの歳になって思い出されて、今一度詳しく知りたい。そのように仰って、教会に来られたのです。そして熱心に礼拝に出席され、クリスマスに老夫婦が一緒に洗礼を受けました。
受洗準備の学びかいで聖書の話、教理的なこと、教会の歴史を学ぶのですが、奥さんは一緒に来られ、わたしはさっぱり分かりません。そう言われていましたが、品のいいおばあちゃんで、ご主人に従われていつも一緒でした。ご夫妻は洗礼を受けられた時、喜びで満たされ、「これで安心した。魂が救われた。もう、いつ死んでもいい」
そう言って、にっこり笑って喜ばれました。
余生を、神を知ることに生きる。永遠を考える。大切なことです。その人生はいろいろあったことでしょう。戦争を体験し、人には言えない辛酸を舐めてこられたことでしょう。しかし、神がすべてをご存知であり、この方に老後の人生すべてお任せする。そのような信仰ですね。
神は永遠を思う心を人に与えられたのです。(コヘレトの言葉3章11節)
ですから、永遠の神に立ち返るまで、人は平安を見出すことはできません。神を信じてはじめて、人はその人生に平安と感謝を見出すのです。そして肯定、しかり、わたしの人生はすべてよし、そのように人生を感謝できるのです。
わたしたちは決して諦めることはない。人生で大切なことは、初志を貫徹すること。はじめの情熱、信仰、こころを持ち続け、希望を持ち、前向きに歩くことです。
神は答えてくださる。それを信じて今週も進みましょう。