2020年12月20日 待降節第4主日 クリスマス礼拝

聖 書  ヨハネによる福音書1章14~18

説 教  言は肉となって

2020-1220Shyuuhou

クリスマスの大きな喜びを感謝いたします。コロナ禍の中でのクリスマス礼拝ですが、神様はこの中でも、わたしたちと共におられ、聖霊を与えてくださることです。心から感謝いたします。

今日の説教ですが、以下の三つのことで神様の偉大な恵みと祝福をお分かちしましょう。

1.わたしたちとともに住まわれるキリスト

2.言葉が肉となるとは

3.クリスマスの意味

1.わたしたちとともに住まわれるキリスト

  イムマヌエルの神ですね。

 本日の聖書ヨハネによる福音書1章14節に、「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。肉というのは、人間になられたということです。神様は目には見えないお方です。霊なるお方です。その目に見えない神様が人間となられた。この方こそがイエス・キリスト様なのです。神様が人間となられたのは、わたしたちの間に宿られるためです。まさに18節に記されているように、です。18節を読みましょう。はじめに新共同訳です。次に、口語訳を読みます。

 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

  神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。(口語訳)

まさに、天地創造の父なる神とともにおられた主イエス・キリストが肉となって降誕されたことを言います。父と子は同質であるということ。ここに三位一体の真理があります。これがわたしたちの信仰です。2000年間、代々にわたって教会に受け継がれてきた信仰です。

さて、「宿られた」(エスケーノーセン、基本動詞はスケーノオー)という言葉は、一緒に住むという意味です。ギリシャ語の辞書を繙くと、三つの大切な意味があることが分かります。

第一は、「テント生活をする」「テントに住む」と出てきます。皆さんはキャンプをしたことがあるでしょう。山でのキャンプ、海のそばでそのキャンプ。そのキャンプの時にテントを張ります。そのテントです。テントは天幕とも言います。タバナクル(tabernacle)です。アブラハム、イサク、ヤコブたちは、天幕を張って移動し羊を飼っていたのですね。

第二は、幕屋ですね。エルサレム神殿が築かれる前は、移動式の神の幕屋が礼拝所として、イスラエルの人々とともにあったのです。昼は雲の柱、夜は火の柱が幕屋の上を蔽っていたのです。写真1.写真2.

臨在の幕屋です。神がお住まいになる、その象徴です。幕屋には、聖所と至聖所があり、至聖所には契約の箱、神がご自身、彫って書かれた十戒の石の板が入っている、その契約の箱が安置されているのです。主エジプト32章15~16節、34章1~4、28節

第三の意味は、仮の宿ともいいます。逗留している。しばらく滞在していて、やがて別のところに行く。そういう意味ですね。Ⅱペトロ1章13,14節です。ヘブライ11章13節「仮住まいの者」

 聖書には、こういう表現は多くありますね。ほかにもヘブライ書11章8~10節など。

まとめますと、「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」。それは、「わたしたちの間にテントを張られた」ということです。イエス様がわたしたちと同じように、ごく普通の人々の中で、普通の生活の真中に来てくださったということを良く表わしているのです。イエス様は、王様がすむ宮殿でも、厳かな神殿にでもなく、家畜をつなぎとめておく洞穴、馬小屋にお生まれになりました。

テント、天幕、幕屋、仮の宿 大切なことは、中身。テントに住んでいる人間であるということです。幕屋もそうです。幕屋に安置されているのは、契約の箱です。それは、神がご自身の指で書かれた十戒の石版が箱に収められているのです。それは神のご臨在を現わします。象徴です。教会の建物、祭壇、十字架、聖餐式も、この構造において造られている。

このテントは、カトリックではイエス様の肉であるパンが収められている箱を指しています。聖餐式のための器です。(チボリウム)

2.ことばが肉になるとは

 もう一度14節を見たいと思います。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」

言とは、1章1節から4節に記されている言です。すなわち、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

言葉が言と訳されています。原語のギリシャ語ではロゴスです。言葉ですね。この言葉は、わたしたちが日常使う言葉とは質的に異なっています。聖書がいう「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とは、言はイエス・キリストを指しているのです。

創世記1章1節以下には次のようにあります。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。

神が言われた通りに、創造されたのです。その言ですね。この言葉こそがイエス様であると聖書は言うのです。こうして神は、6日間にわたって、言をもって天地万物、そして人間を創造されました。

わたしたちが信じるイエス様は、どういうお方であるのか。福音書は、十字架につけられたイエス様、他の福音書でマリアから生まれたイエス様こそが、天地万物を創造された神であること、その創造の以前からおられた神であると語るのですね。

天地万物を創造された神が人間となられた。肉体をもった人間です。そこには有限性があります。食べること、飲むこと、排せつすることもあるでしょう。あかごとして生まれ、成長する。人間の営み、生活を経験されたのです。そういう形で、イエス様はわたしたちとともにおられるのです。それは弱さを知ることによって、わたしたち人間の無知や迷いに対して思いやることがおできになるのです。憐れみ深い神です。(ヘブライ4章14~16節)

3.クリスマスの意味

本日はクリスマスです。救い主イエス・キリストの降誕です。ヨハネによる福音書は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記しています。

霊なる神様は、なぜ人間となられたのでしょうか。天地万物を創造された神が、人間になる必要性があったのでしょうか。罪ある人間の間に宿る必要性があったのでしょうか。十字架につけられるために、しかし、三日目に甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられます。「かしこより来たりて(再臨され)、生けるものと死ねる者とを裁きたまわん」です。最後の審判、神の国の到来です。

目的は、神が創造された人間を愛されたためです。3章16節です。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ご自身が創造された人間をほっておかれない。滅ぶべきわたしたち人間を救い、永遠のいのちを与えるために、神はご自身の計画を実行されたのです。御子を信じる者が永遠のいのちを得るためです。

この3章16節の前の13節からの箇所を読むと次のように記されています。

「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」とあります。

ここでいう「上げられる」とは、十字架を指しています。十字架を予告されているのです。その前を読むと、このところは、ニコデモとの対話のところなのですね。3章3節から5節を読みましょう。

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」

 皆様、よくご存じの箇所ですよね。とくに5節「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」

今日は、「言葉は肉となって」と題して説教する、その準備の中で、示されたところです。

クリスマスです。クリスマスとは何か、誰でも知っています。イエス様の降誕の時です。何のために神が人となられたのですか? 人間の救いのためです。そして、萬物の贖いのためです。イエス様を信じる者が救われる。裁きから救われ、永遠のいのちを与えられる。

その通りです。イエス様の何を信じるのですか? わたしの罪のためにイエス様が十字架にかかられたこと。本来裁かれるべきわたしがイエス様のいのちによって裁きではなく、救われ、永遠のいのちを与えられる。

これが、神が受肉した意味ですね。目的です。

しかし、それだけではない。そう確信します。もっと別の意味があると。

「水と霊とによって生まれ変わり、神の国に入る」

これが、イエス様が肉をまとって来られ、十字架の死と復活をもって、神のちからを証明され、信じるものを起こし、神の国へといざなわれる意味と目的なのです。

信じる者が、水と霊とによって生まれ変わること。神の国の住民に相応しいように整えられるためです。

どのように? という疑問が次に起こります。また、新しく生まれるとは? 

キリストと同じ形になること。聖化、栄化ですね。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(Ⅱコリント3:18)

それは

Ⅰコリント6章 19節

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

Ⅱコリント6章16節

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

(レビ26:11、12、エレ31:33)

キリストの霊がわたしたちに住んでくださる。内住のキリストです。

ここまで導いてくださるために、神が人となられ、成長を促してくださるのです。十字架と復活、聖霊降臨によって、神がご計画されておられる。神様が創造された人間を神の国の祝福に導かれるために。

わたしたちは選ばれているのです。

クリスマスは、その神のご計画のはじめの一歩だったのです。ハレルヤ! アーメン 主を賛美します。




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