2020年8月23日 聖霊降臨節第13主日礼拝
2020年8月23日 聖霊降臨節第13主日礼拝
聖 書 創世記47章1~12節 (創世記連続講解第54回)
2020-0823-shuuhou説 教 祝福を祈る
本日は創世記47章から「祝福を祈る」と題して説教いたします。
47章は、三つの段落に分かれています。
1.1~12節は、ヤコブとエジプトの王ファラオとの会見について
2.13~26節は、エジプトの大臣になっているヨセフが、7年間の世界的な飢饉の中で、いかにエジプトのために貢献したかが記されています。中央集権の政策であり、同時に飢饉のために食糧がない民に対しての福祉政策もここに記されています。
今日、わたしたちは世界的に流行しているコロナ・ウィルスという危機の中にいます。コロナ・ワクチンが開発されようとしていますが、このヨセフの政策は、あたかもコロナ・ワクチンを巡るアメリカ、ヨーロッパ、中国という大国間の綱引きを見るように思います。今から3500年以上の時代です。現代でも、飢饉や食料不足のために飢えで死んでいく多くの民族がいます。アフリカ、北朝鮮などです。為政者がその体制の存続のためだけで、国民が犠牲となっています。
3.27~31節は、ヤコブが自分の死期(死ぬ日が近づいたこと)を悟り、ヨセフに遺言を語るところです。28節にありますように、ヤコブはエジプトに17年滞在するのですが、亡くなったら、エジプトに葬ることなく、アブラハム、イサクが眠っている墓に葬るように依頼するのです。
本日は、1~12節のヤコブがエジプトの王ファラオとの会見について説教します。
1.祝福の系譜
ヤコブのエジプト下りの目的は、二つあります。ひとつはヨセフとの再会ですね。もう一つは祝福をするためです。イスラエル民族の歴史を通して、ヤコブがエジプトに下り、エジプトの王だけでなく、48章、49章と続く子どもたちへの祝福の祈りです。12人の子どもたちは、のちに12部族となり、イスラエル国家を形成していく民族となります。このためにヤコブは100歳を超える高齢にもかかわらず、エジプトに下るのです。
さて祝福ですが、祝福とは、神が人および被造物に行われる恵みのわざです。そもそも創世記は祝福をもって始まります。そこには物質的な繁栄、子孫が増えること以上の、いのちの営みそのものへの神の恵みがあります。創造の神のいのちの継承です。
創世記1章22節 天地創造において
神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
また、神はご自分にかたどって人を創造されて、祝福されます。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(28節)
9章 1節 ノアと息子たちの祝福―洪水ののち
神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」
18章 18節
アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。
22章 17節
あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
祝福はアブラハムのみならず、イサク、ヤコブへと引き継がれます。
27章18節以下
ヤコブは祝福を求めて、兄エサウを出し抜きます。父イサクに嘘を吐き、祝福をだまし取るのです。
28章10節以下
ヤコブは兄エサウに憎まれ、殺されそうになり、夜逃げをします。そこでも、天の門として天使の上り下りするのを夢で見、神の祝福をいただくのです。ベテルの神
これも神のご計画ということになります。
32章ペニエル 神と格闘した。「祝福してくださるまで離しません」(27節)。
「顔と顔を合わせて神を見た」(31節)。
創世記のテーマの一つは祝福です。アブラハム、イサク、ヤコブと神の祝福が受け継がれています。ちなみに、次の章の48章には、ヨセフの二人の息子に対する祝福がヤコブによってなされます。マナセとエフライムへの祝福です。
49章には、ヤコブの祝福の祈りが続きます。イスラエル12部族への祈りです。
2. ヤコブがパロを祝福する
イスラエルの家族が最高の地であるゴシェンの地に住むことになってから、ヨセフは父ヤコブをパロのもとに連れてきて謁見させました。
7節以下をお読みします。
それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。 ファラオが、「あなたは何歳におなりですか」とヤコブに語りかけると、 ヤコブはファラオに答えた。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」
ヤコブは、別れの挨拶をして、ファラオの前から退出した。
7節にヤコブがファラオに「祝福の言葉を述べた」とあります。また、10節の「別れの挨拶をして」とありますが、同じことば「祝福」が使われています。
祝福は元来、目上の者が、下の者に対して行う宗教的な恵みのわざです。神が行う祝福です。神の代理人たる、神によって選ばれ、聖別された者が行う言葉とわざによる特別な祝福なのです。祝祷、祝福の祈りですね。
ちなみに、下の者が目上の人を祝福する時は、賛美する、称える、崇めるということになります。同じ原語(バーラフ)が使われます。
他の日本語訳による聖書を見ますと、新改訳では、父ヤコブはパロに「あいさつをした」(47:7)と訳しています。また、パロの前を去るときにも同じく「あいさつ」して、とあるのです(47:10)。
新共同訳では会う時には「祝福のことばを述べた」と訳し、立ち去る時には「別れのあいさつをした」と微妙に訳し変えています。しかしほかの訳を読むと、(関根訳、中沢訳、岩波訳、バルナバ訳)「祝福した」と訳しています。原文は「祝福した」「バーラフ」となっているのです。
この祝福のことで注目するのは、祝福の方向性があるということですね。ベクトルです。
つまり、この世の権力者、権威ある者に対して、宗教的に、また信仰的に、どう向き合うかということです。この世の権威やちからある者を意識しすぎて引け目を感じてしまうか、それとも神の権威をもって、つまりこの世での相手の地位に影響されることなく、恐れることなく、対峙して、祝福することができるかどうかということです。
イエス様は、捕縛され、十字架刑につけられるとき、ローマの総督ピラトに対しても毅然とされました。生殺与奪の権を持っているピラトに対しても、神の子としての権威を示されたのです。
テモテへの手紙一6章 13節
万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。
3.人生を振り返るヤコブ
ファラオに対して、毅然と祝福をしたヤコブですがファラオとの会話で、気が弱い一面を表します。
ファラオの質問に対して、ヤコブは答えます。8節
ファラオが、「あなたは何歳におなりですか」とヤコブに語りかけると、 ヤコブはファラオに答えた。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」
確かにノアの前の系図では900歳以上の歳月を生きた先祖がいますし、アブラハムは亡くなった時は、175歳でした(25章7節)。父イサクは180歳(35章28節)。アブラハムもイサクも、「長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」とあります。満ち足りて死んだ。いいですね。ヤコブはどうでしょうか。「生涯の年月は短く、苦しみ多く」です。
ヤコブの生涯は、祝福を求め続けました。そして、神と顔と顔をあわせる、大いなる祝福を与えられた人生です。大いなる祝福を経験した。祝福を追い求めたヤコブの生涯です。
祝福の人生。波乱万丈の人生です。苦しみ、痛み、悔いる人生であろうはずがない。
エジプトの王、ファラオの前で謙遜だったのでしょうか。
「神が共におられて、祝福された人生です」 そのようなヤコブの言葉を聞きたいものです。
4.新約聖書における祝福
最後に、新約聖書における祝福を見てみましょう。
新約聖書にも祝福はあります。時間の関係で一つだけ挙げます。それはイエス様が最後の晩餐の時に、パンを祝福して裂き、弟子たちに渡されたところです。口語訳では、祝福してパンを裂いて弟子に渡されるのですが、共同訳では、賛美の祈りを唱えて訳されています。元の原語は、同じです。命のパンとして与えられる祝福ですね。そして、ぶどうの杯を感謝の祈りをして十字架の血潮による新しい契約です。(ルカ22:20)
それは、神の国の門が開かれ、永遠のいのちにいたる豊かな祝福の到来の宣言です。救いの力です。
まとめますと、イムマヌエルの神のご臨在、平安と救済、永遠のいのちの約束とその現実が祝福であり、神の国の恵み―イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに与えられる神の愛と恵みの継承といえます。
この朝の礼拝において、天地創造の時以来、創造主なる神が約束された祝福をわたしたちはイエス・キリストを信じる信仰ゆえに与えられています。その感謝であり、信仰の告白と賛美が霊とまことの礼拝とされるのです。
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