2026年3月22日 仙台青葉荘教会礼拝

コヘレト3章1節~12節

「神の恵みとは」

「コヘレト」という意味は、「集会を司る人」そういう意味です。今でいう伝道師や、牧師と言って良いと思います。

福音派は、コヘレトは、ダンビデの子ソロモンであると、考えています。その一方で、近代ドイツ神学は、コヘレトは、ソロモンの名前を使った誰かのことである。そう考えています。

そういった違いから、この書簡は、バビロン捕囚前に書かれたものか、あるいは、バビロン捕囚後に書かれたものか、見解が分かれています。

何あともあれ、コヘレトという書簡は、コヘレトの著者が、探求して見出したこと。そのことが書き記されています。

今日は、3章1節~12節を皆さんと共に学びます。

この書簡の著者は、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」そう1節で語っています。つまり彼は、「神によって定められた時がある。」そういっているのです。

そういったことをいった後、彼は時の歌をうたっています。それが、2節~8節です。この歌は、神がお定めになった28の時があります。そして、その28の時は、14の対になる組み合わせになっています。

例えば、2節なんかを見ますと、「生まれる時、死ぬ時」そう記されています。これは反対の意味の組み合わせです。好ましい時と、好ましくない時の組み合わせです。

この書簡の著者は、好ましい時と、好ましくない時の、14の対になっている歌を通して、「何事も、神によって定められた時がある」そう主張しているのです。

だから9節で、「人が労してみたところで何になろう」そう言っているのです。そのように彼がいう理由は、人間にはどうすることも出来ない、神が定められた時があるからです。

1節の、「生まれる時、死ぬ時」なんかは、人間がその時を選ぶことは出来ません。また4節の「泣く時、笑う時」も、自分にコントロールが無いケースが殆どです。8節の「闘う時、平和の時」も、人間個人の選択の範疇を超えています。

もし日本が、外国から戦争を仕掛けられたら、皆さんはどうするでしょうか。いやおうなしに、闘うのではないでしょうか。また、私たちがいかに平和を望んでいても、他の国の人たちが、日本との平和を望まず、戦争を仕掛けてきたとしたら、日本は平和では無くなります。平和も、人間個人の選択の範疇を超えているのです。

じゃあ、この書簡の著者は、「何事も、神によって定められた時がある。だから人が労することはナンセンスである。労することを諦めなさい。」そういったことが言いたいのでしょうか。

そうではありません。この書簡の著者が、1節~9節までのことを言ったのは、10節~11節のことを言いたかったからです。では、10節~11節を通して、この書簡の著者は、一体どういうことを言っているのでしょうか。10節を見ますとこう記されています。「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。」

この10節の意味は、「1節~9節のことの故に、わたしは神が、私たちに与えて下さっている人生を、毎日精一杯生きていく務め。それを、神から与えられているということ。そのことを見極めることが出来た。」そういう意味です。

実はコヘレトの言葉の本文は、1章2節の「なんという空しさ/ なんという空しさ/すべては虚しい。」そういう言葉から始まっていて、12章8節の「すべては空しい」そういう言葉で終わっています。

「空しい」から始まっているコヘレトの本文は、「空しい」という言葉で終わっているのです。つまり、サンドイッチのように、「空しい」という言葉で、本文を挟み込んでいるのです。

空しいという言葉は、ヘブル語で、「ヘベル」と言います。その言葉が、コヘレトの言葉の本文の中で、38回も使われているのです。それだけ何回も出てくるということは、コヘレトが言いたいことが、「ヘベル」という言葉に込められているということです。

コヘレトが言う「ヘベル」という言葉は、「空しい」、「儚い」、「無意味」そう訳すことが出来ます。でも、それだけではありません。「ヘベル」という言葉は、「束の間」、「一瞬」そう訳すことも出来るのです。東京神学大学の小友聡(おともさとし)先生は、コヘレトの言葉の中の「ヘベル」という言葉は、「ほんの束の間」そう理解した方が良い。そう言っています。彼は、「『すべてはほんの束の間のことである』そうこの著者は言っている。」そういうのです。

もし、そう理解するのであれば、コヘレトを書いた著者は、人間の人生を冷静に「すべては、ほんの束の間のことでしかない。」そういうふうに見つめていたことになります。

ということは、コヘレトを書いた著者は、生きることに絶望していないのです。彼は、生きることに絶望するどころか、人間の死を冷静に見つめて、命の短さを嘆いているのです。

私たち人間の命は、長くて120歳までです。たとえ長く生きたとしても、若くして死んだとしても、神の視点から見れば、ほんの束の間に過ぎなません。だからコヘレトを書いた著者は、神から与えられている、ほんの束の間の時間を、一体どのように生きるのか。そのことを私たちに問いかけているのです。

創世記4章を見ますと、人類最初の双子の兄弟であるカインとアベルが登場しています。カインはアベルをねたんで殺しました。人類史上最初の殺人です。殺されたアベルの人生は、短命でした。そのアベルのことを、ヘブライ語で「ヘベル」そういます。

この書簡の著者は、神から与えられている短命な人生を、人間は一体どう生きれば良いのか。そのことを真剣に見つめているのです。

そんな彼が分かったこと。それが10節のことだったのです。そこを見ますと、「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。」そう記されています。この意味は、「わたしは、神が、人それぞれに与えておられる人生を、人が毎日背一杯生きる務めを、神から与えられているということを、見極めることが出来た。」そういう意味です。

そういうことを、この書簡の著者が言っているということは、彼は、「何事も、神によって定められた時があるから、人が労することはナンセンス。労することを諦めなさい。」そういったことを言っているのではないということです。

そうではなくて、「人間の力では、コントロールをすることが不可能な神の領域がある。そのことをちゃんと認めて、神に神の領域のことを任せなさい。そうすれば、明日のことを思い煩うことはなくなって、今この時を、精一杯生きることが出来るようになる。今この時を精一杯生きること。それが、人間が神から与えられた務めだ。そのことを私は見極めた。」そう言っているのです。

つまり、この書簡の著者は、人間の力ではどうすることもできない、空しさや、儚さや、自分の絶望を、必死に見ないようにするのではなくて、それらのことをちゃんと見つめることで、神を喜び、神の子として歩んでいる自分の人生を、肯定しているのです。

キルケゴールの世界観も、モンテニューの世界観も、正にそういう世界観なのです。自分が空しい思いを持つこと。自分が儚い思いを持つこと。自分の力に絶望すること。それこそが、彼らにとって、神と自分を出会わせる宝なのです。

私たち人間は、空しい思いを持つ現実、儚い思いを持つ現実、自分に絶望する現実、そういったことから逃避する癖があります。

それはいつも、自分の力に頼って生きているからです。だから、空しい思いを持っている自分、儚い思いを持っている自分、自分の力に絶望している自分から、目を背けようとするのです。忘れようと頑張るのです。そうしなければ、自分で自分を支えることが出来なくなるからです。でも、忘れようと思えば思う程、忘れることが出来なくなるのです。臭いものに蓋をしても、臭いは漏れてくるのです。だから、もんもんとして、だんだん心が病んでいくなんてことも起こるのです。

でも、空しい思いを持ってしまう現実、儚い思いを持ってしまう現実、自分に絶望してしまう現実、そういったことから逃避するのではなくて、その現実を真正面から受け止めて、神に頼るようになれば、それらのことに思い煩わされることが無くなるのです。その結果、今日という一日を、精一杯生きることが出来るようになるのです。

人間の力では、コントロールをすることが不可能な、神の領域があることをちゃんと認めて、神の領域のことは神に任せて歩んでこそ、人間は、明日のことを思い煩うことなく、今日という一日を、精一杯歩めるようになるのです。

この書簡の著者は、今日の11節で、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」そう語っています。此処の部分は、新改訳聖書の方が分かりやすいと思います。新改訳聖書では、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」そうなっています。確かに原文では、「美しい」を意味している「ヤーフェ」という言葉。それが使われています。

この書簡の著者は、11節を通して、人間ではコントロールすることが出来ない領域を、神がおさめて下さっていることを褒めたたえているのです。それこそが、11節の「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」その言葉です。

そして、この書簡の著者は、その11節の言葉に続く、11節後半で、「永遠を思う心を人に与えられる。」そう言っています。此処の部分を原文から直訳しますと、「神は、永遠を人の心に与えられたのです。」そう訳すことになります。

11節がいう永遠は、ヘブル語で、「オーラーム」そう言います。オーラームという言葉は、時間の無限性だけを、言い表している言葉ではありません。オーラームという言葉は、人間の理解を超えた概念があること。そのことをも言い表しています。

真にコヘレトは、11節を通して、神は、人間が自分ではどうすることも出来ない、空しい思い、儚い思い、絶望する思い。それらの思いを通して、「人間が、自分ではどうすることも出来ないと思っている思いを超えて、人間には理解が及ばないような形で、万事を益にすることが可能な神に、心を向けたくなる気持ち。それを人に与えられた。」そういっているのです。それが、「神は、永遠を人の心に与えられたのです。」という意味なのです。

でもこの書簡の著者は、11節の終わりで、「それでもなお、神のなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されない」そう語っています。つまり彼は、「人間が、自分にはどうすることも出来ないと思っている思いを超えて、人間には理解が及ばないような形で、万事を益とすることが可能な神に、心を向けるようになったとしても、神のなさる業を、最初から最後まで見極めることが出来ない。」そう言っているのです。

そのことを踏まえて、この書簡の著者は、12節で「わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ」そう語っているのです。

つまりこの書簡の著者は、「人間が、自分でコントロールすることが出来ない、空しい思い、儚い思い、絶望する思い。それらの思いに出会ったなら、それと自分が格闘して、自分の力で追い出そうとするのではなくて、それは神に任せて、それに煩わされることなく、神から与えられている今この時を、精一杯生きなさい。」そう言っているのです。

この書簡の著者が扱っている「時」というのは、人間(個人)の意思では、どうすることも出来ないタイミングのことです。人間が、どうすることも出来ないタイミング。それこそが、神の領域です。

でも、タイミングのみが、神の領域の「時」ではありません。アウグスティヌスは、「時間すらも、神が創造したものである。」そういっています。確かに時間という「時」も、神の領域であると言えます。

よく言われることですが、歴史を英語でヒストリーと言います。ヒストリーとはヒズ・ストーリー、彼の物語です。彼とは神のことです。この世の歴史は神の物語です。神の物語の中に、私たちそれぞれの、人生の物語があるのです。

神の物語の中に、私たちの一人一人の物語があることを覚えて、自分が空しい思いになったり、儚い思いになったり、自分に絶望した時に、一人ではないことを覚えて頂きたいと思います。私たち一人一人の物語は、神の物語の中にあるのです。

神は、人間が御自分に頼って生きるようになるため、更にいえば、私たちが、神と共に生きるようになるために、私たちの空しい思い、儚い思い、絶望する思いを用いられるのです。

私たちが、空しい思いに浸ったり、儚い思いに浸ったり、自分に絶望に浸ったりするのは、自分が愛する人を失って、孤独に感じたり、自分が望むものが得られなくて、寂しい思いになったり、自分の承認欲求が満たされなくて、打ちひしがれたりする時です。

それらはみんな、自分が独りぼっちになった感覚によって、生じていると言って良いと思います。

実は、その一人ぼっちという感覚。それが、聖書のいう罪です。誤解を恐れずにいえば、何か間違いを犯す道徳的罪なんかは、枝葉の部分の罪であって、大した罪ではありません。聖書が問題にしている一番大きな罪は、自分で自分の人生を歩んでいるつもりになっている罪です。一人ぼっちの感覚に陥ってしまう罪です。神不在で生きる罪です。それが、私たちの原罪です。その原罪のために、主イエスは、十字架に架かって死んで下さり、神とちゃんと向き合って、神と共に歩める道を備えて下さったのです。私たちの罪のことをギリシャ語で、「ハマルティア」そう言います。「ハマルティア」とは、的を外して生きることです。的を外すとは、神との関係に生きないことです。

神の物語の中に、人間それぞれの物語があること。そのことを信じて、私たちの物語を遥かに超えている物語り。それを造られている神に、私たちが頼って生きることが出来るようになるために、主イエスは、十字架にお架かりになられたのです。

でも、私たちが神に頼って生きるようになったとしても、私たちが思い描く、自分勝手な幸せは、手に入らない可能性は十分にあります。

でも神は、私たちが幸せだと思う概念を超えた幸せ、世界中の人がどうであろうと、神に愛されている幸せ。それを私たちに増し加えて下さいます。その結果、私たちは益々神を愛するようになって、神が望んでおられる通り、神や隣人を愛するようになります。そうなったなら、その副産物として、私たちは、隣人から愛される幸せも、与えられるようになるのです。それが、神の恵みです。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」このマタイによる福音書6章33節の言葉は、私たちが、私たちの幸せという概念を超えた、神の恵みを得るための聖書の正しい道筋です。

そのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと思います。

最後に一言お祈りさせて頂きます。

牧師 野々川 康弘