2026年3月8日 仙台青葉荘教会礼拝

使徒言行録14章1節-18節

「十字架を見上げよう」

牧師 野々川康弘

今、私たちは、パウロの宣教旅行1を学んでいます。彼らは先ずキプロス島に渡りました。次に小アジア地方のベルゲ、現在のトルコに渡りました。そこから、小アジア地方の内陸部にある、ピシディア州のアンティオキアに行って、宣教活動をしていました。そのことが13章後半に記されていました。

彼らは何処にいっても、最初にユダヤ人たちの会堂で、宣教をしました。でも、主イエスの福音を、喜んで受け入れたのは、ユダヤ人たちではなく、異邦人たちでした。

ユダヤ人たちは、福音を受け入れるどころか、パウロたちの宣教活動を妨害しました。特に、アンティオキアのユダヤ人たちは、彼らを町から追い出しました。だから彼らは、アンティオキアの町を去る際に、足の塵を払い落としたのです。そのことが13章51節に記されていました。

足の塵を払う行為は、「もう自分たちには責任が無い。」そのことを示しています。彼らが足の塵を払ったのには、理由があります。それは、主イエスが、12弟子を福音宣教に派遣した時に、「あなたたちを受け入れない町があったら、そこを出ていく時、足の塵を払いなさい。」そう命じられていたからです。そのことは、ルカによる福音書、9章5節に記されています。だから彼らは、それを実行して、次の町、イコニオンへ行ったのです。

そのイコニオンでの福音宣教のことが、今日の1~7節に記されています。そこでも彼らは、最初に、ユダヤ人たちの会堂で福音宣教をしました。その結果、1節に記されている通り、「大勢のユダヤ人やギリシャ人が信仰に入った」のです。

でも、アンティオキアと同じように、ユダヤ人たちの中で、福音宣教を妨害する人が出てきたのです。その人たちが、イコニオンの異邦人たちを唆して、「兄弟たちに対して悪意を抱かせた」のです。そのことが記されているのが2節です。そこを見ますと、「信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。」そう記されています。

神の民であるはずのユダヤ人たちが、教会の悪口を言って、神の評判を落とそうとしたのです。でも、3節に、「二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。」そう記されている通り、パウロたちは、ユダヤ人たちの妨害に屈することなく、勇敢に福音を語り続けたのです。その時、主イエスの昇天によって送られた聖霊が、彼らに豊かに働いて、彼らを通して、不思議なしるしと、不思議な業がなされて、福音が豊かに証されたのです。その結果、どんなに福音宣教が妨害されても、福音宣教が前進していって、町の人たちに分裂が起こったのです。ある人たちはユダヤ人側に、ある人たちは使徒側についたのです。そのことが、4節に記されていることです。

福音宣教が力強くなされていくならば、福音を信じて受け入れる人たちと、反対する人たちに、真っ二つに分かれるのです。そこに中立は存在しないのです。神の御言葉は、福音を受け入れるか、拒否するか。そのどちらかを、私たちに迫るのです。

福音を拒否した異邦人たちとユダヤ人たちは、町の指導者たちを仲間にして、パウロたちをこっぴどく迫害しようと企らんだのです。そのことを知った彼らは、イコニオンを出て、次の町に行くことにしたのです。それは、主イエスが12弟子たちを、福音宣教に派遣した時に、「一つの町で迫害を受けたら次の町へ行け。」そう教えられていたからです。主イエスは、一つの所に留まって、殉教の死を遂げることなんか求めておられなかったのです。むしろ、迫害を避けて、次の町へ行って、さらに福音宣教をしていくこと。それを、主イエスは求めておられたのです。

パウロたちが、イコイオンの次に行った町は、リカオニア州にあるリストラです。そこでの福音宣教の様子が、8節~18節に記されています。

リストラで福音宣教をした結果、一つの癒しの御業が起こりました。それが、生まれつき足が悪くて、まだ一度も歩いたことのなかった一人の男性が、パウロによって癒された御業です。

この癒しの業を知るためには、9節~10節のことを見る必要があります。そこを見ますと、「この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。」そう記されています。生まれつき足が悪かった男性は、パウロの話を熱心に聴いていたのです。

パウロは、町の広場のような場所で、福音を語っていました。その時、パウロの近くに、足の不自由な男性が座っていたのです。彼は、広場にいる人たちから、施しを受けていました。彼は、人から施しを受けながら、熱心に福音を聴いていたのです。そんな彼の顔を、パウロはじっと見つめて、いやされるにふさわしい信仰があると、認めたのです。

このことは、「信仰がある」とは、どういうことなのか。そのことを私たちに教えています。信仰があるとは、何か信仰による良い働きが出来ることではないのです。

生まれつき足が悪かった男性は、何の働きも出来ず、ただ道ばたに座り、物乞いをして生きることしか出来なかったのです。そんな彼が、「ふさわしい信仰がある。」そうパウロに認められて、信仰を持つに至ったのです。信仰は、福音を信じ受け入れることです。そのことだけで、「十分な信仰がある。」そう言えるのです。

私たちは、神のため、人のために、何らかの奉仕が出来ること。それが信仰である。そう思ってしまいがちです。神のため、人のために、何らかの奉仕が出来ない人のことを、「本物の信仰が無い。」そう思ってしまいがちなのです。でも、本当の信仰は、生まれつき足が不自由であること。つまり、自分では何もすることが出来ない状態であること。そのことを心から認めることなのです。自分の力では、もはや立ち上がることができない挫折の中にあってこそ、信仰は、はっきり現れるのです。だから、信仰がある人は、自分の挫折に打ちひしがれません。むしろ自分の挫折を喜べるのです。それは、自分の挫折にこそ、主イエスの十字架の光が差し込むからです。主イエスの福音が、自分の力では何も出来ない人、自分では立ち上がることが出来ない人を、生かして、絶望に満ちている人の顔を変えるのです。

パウロは、生まれつき足が不自由な人の顔をじっと見つめて、彼の顔が、パウロの語る福音を聴いている中で、絶望から、希望に変わっていたことに気付いたのです。そこに、彼の信仰が現れていたのです。

だからパウロは、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」そう大声で命じたのです。すると彼は、踊り上がって歩き出したのです。自分の力では、決して出来なかったこと。それが、パウロの言葉によって、出来るようになったのです。十字架という福音によって、出来るようになったのです。

リストラに入る前のイコニオンでは、聖霊がパウロたちを通して、人間では不可能な奇跡の業を起こして、福音が豊かに証されました。リストラでも、聖霊が、パウロを通して、生まれつき足の不自由な男性を癒すという、人間では不可能な奇跡の業を起こして、福音が豊かに証されたのです。

でも、パウロの癒しの業を見たリストラの人たちは、パウロの語る福音ではなくて、パウロの力に、目を奪われたのです。彼らは11節に記されている通り、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」そう言い始めたのです。バルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」そう呼んだのです。「ゼウス」や、「ヘルメス」は、ギリシャの神々です。ギリシャ神話では、「ゼウス」が主神で、「ヘルメス」はその子供です。「ヘルメス」は、神々の代弁者のような存在であり、雄弁な神です。

バルナバの方が年長者なのに、福音を語るのはパウロでした。だから彼らは、バルナバを主神「ゼウス」、パウロを神々の代弁者「ヘルメス」そう呼んだのです。

その結果、町の外にあったゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と、花輪を運んできたのです。パウロとバルナバに、いけにえを捧げようとしたのです。パウロとバルナバを、神々として礼拝をしようとしたのです。

この当時、小アジアでは、ギリシャ文明が栄えていました。現在のトルコであるリストラでも、町の郊外にゼウス神殿があったのです。

ギリシャ神話は、神々と人間の区別があいまいなのです。ギリシャの神々は、人間と同じように愛・争い・嫉妬があって、神が人間の女性を愛することもあるのです。そんなギリシャ神話では、神々が人間の姿となって、人間のところを訪れるなんてこともあるのです。

人間と神々の境目がない世界は、一神教という伝統の中で生きてきたユダヤ人たちよりも、私たち日本人の方がよくわかるはずです。私たち日本人は、素晴らしい功績を残した人を、神としてあがめる感覚が、良く分かるのです。

でも、その背後に潜んでいる人間の思いは何でしょうか。それを皆さんと掘り下げて、考えていこうと思います。

リストラの人たちが、バルナバとパウロを、「ゼウス」と「ヘルメス」そう呼んだのには理由があります。実は、リストラには、ある伝説が伝わっていました。その伝説は、「ゼウス」と「ヘルメス」が、人間の姿となって、リストラを訪れた時に、ある農夫の夫婦が、貧しい中で、精一杯もてなしたというお話です。リストラが、洪水災害に見舞われた時、「ゼウス」と「ヘルメス」をもてなした夫婦は、「ゼウス」と「ヘルメス」の加護によって、洪水から逃れることが出来た。そういう伝説があったのです。その伝説を受け継いでいたリストラの人たちは、いつかまた、「ゼウス」と「ヘルメス」が、人間の姿となって訪れてくるかもしれない。そう思っていたのです。そういったこともあって、バルナバとパウロによってなされた、人間の常識を超えた奇跡を見た時に、すぐにその伝説と結びつけたのです。

それこそが、リストラの人たちが、パウロたちにいけにえを捧げて、礼拝をしようとした背後にあることです。

つまり彼らは、自分たちも洪水から守られたい。そういった願いがあったのです。

神々をちゃんともてなして、大切に迎えれば、御利益がある。でも逆に、神々をもてなさなかったら、洪水災害が起こった時に、逃れるすべはない。そう彼らは思ったのです。そうならないために、つまりは自分たちが、御利益を得れるように、いけにえを捧げて、礼拝をしようとしたのです。

そこに、彼らが神々を、どう見ているのか、どのように感じているのか。それが表れています。

日本で信じられて、祭られている神々も、それと同じようなものです。ご先祖様に関する考えも、同じようなものなのです。ご先祖様が祝福を齎してくれる反対には、ご先祖様のたたりがあることを思うのです。そのたたりをなくすために、ご先祖様の霊を慰めるのです。

偶像礼拝をするのは、自分に起こってくる不幸を恐れているからです。そして、人間は基本的に、等価交換の法則で生きています。つまり、神々に良いことをすれば、自分に益が齎される。でも、神々を無下に扱ったなら、恐ろしいことが起こる。そう信じているからこそ、神々やご先祖様を拝むのです。

もし私たちがそのような感覚で、主イエスを礼拝しているとすれば、それはキリスト教ではありません。それは、日本教徒キリスト派です。

パウロとバルナバにいけにえを捧げて、礼拝しようとしていたリストラの人たちの心の奥底には、不幸を恐れる心があったのです。だから、等価交換の法則にのっとって、パウロとバルナバを礼拝しようとしたのです。

偶像礼拝の宗教は、人間の不安や苦しみが取り除かれることが契機となって、広まっていくのです。

リストラの人たちの礼拝や祭は、まさに、自分たちの不安・苦しみ・恐れ。それらのものが取り除かれて、自分の安心や平安を、得るための手段だったのです。

でも、パウロとバルナバは、自分たちが礼拝されそうになった時、「服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行」ったのです。それが14節に記されていることです。

「服を裂く」という行為は、激しい抗議の意志表示です。彼らは、自分たちが神として祭り上げられることを必死で、阻止しようとしたのです。だから、15節に記されている通り、彼らは、「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません」そう叫んだのです。

これはリストラの人たちの誤解を解くためです。そして、このことを機に、パウロは、積極的に福音宣教をしたのです。その証拠が、15節後半のパウロの言葉です。そこを見ますと、「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」そう記されています。

つまり彼は、「わたしたちは神ではない。だから、礼拝するな!」そう言ったのです。そして、「こんなことはやめて生ける神に立ち帰れ!」そう言ったのです。実は、15節後半の「このような偶像」という言葉を直訳すれば、「このような虚しいもの」そう訳すことになります。

つまり、15節を通して、パウロがいっていることは「自分の不幸に対する恐怖心から、等価交換でしか働かない神々を礼拝することは、虚しいことだ。本当に礼拝すべき、生ける神が別におられる。私たちは、あなたがたが虚しい神々から離れて、生けるまことの神に立ち帰るために、福音を告げ知らせている。」そういうことです。

そこで疑問になるのは、「虚しい偶像の神々」と、「生けるまことの神」は、いったい何が違うのかということです。パウロは15節後半で、生ける神のことを、こう語っています。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。」

このことから分かることは、「生けるまことの神」は、人間や、天地万物をお造りになられて、人格を持って、今も生きて働いておられる御方であるということです。その一方で、人間が造り出した偶像の神々は、人間の思いや、体験や、知識の延長上にある神でしかないのです。だから、等価交換を求めたり、人間と同じレベルで愛したり、怒ったり、争ったり、嫉妬したりするのです。人間が造り出した偶像の神々は、人間の思いが投影されているのです。

でも、パウロが宣べ伝えている生けるまことの神は、人間の思いの投影なんかではないのです。人間を遥かに超えている神のことを、人間側からは、理解することも、知ることも出来ないのです。

16節を見ますと、「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が、思い思いの道を行くままにしておかれました」そう記されています。つまりパウロは、「旧約時代は、本当の生ける神のことを知らない人たちを、自分の思う通りに、自分の歩みたいままに、しておかれた。」そう言っているのです。

人間が自分の思いのままに歩んでいるからこそ、偶像を造り出すことはできても、人間を遥かに超えている、生けるまことの神を知ることは出来なかったのです。でも、パウロは17節前半で、こう語っています。「しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。」

つまりパウロは、「これまで生けるまことの神は、御自分のことを、全く証ししなかったわけではない。御自分のことを、分かりやすい形で、表しておられなかったけれど、ちゃんと働いて、御自分のことを示しておられた。」そう語ったのです。

では、どういった形で、生けるまことの神は、御自分を現していたのでしょうか。パウロはそのことを、17節後半で説明しています。そこを見ますとこう記されています。「恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」

つまり、「雨を降らせて、実りの季節を与えて、食物を施して、私たちが生きていくために必要なものを与えて、私たちが日々暮らしていくことが出来る喜びで、私たちの心を満たして下さっている。」そういうふうに、パウロは生けるまことの神のことを、説明したのです。つまり、「私たちが気付いていない、日々の糧を与えて下さっているのが、生きて働かれている神の御業である。」そうパウロは説明したのです。

17節のパウロの言葉はとても重要です。何故なら、生けるまことの神は、自分を大切にしてくれる人も、自分を大切にしない人も、日々の糧を与えるぐらい大切にしておられるのです。でも、偶像の神々は、自分を大切にしてくれる人は、幸せにして、自分を大切にしない人には災いを与えるのです。何故なら、人間が造り出した偶像の神々は、人間の自己中心の在り方が投影されているからです。

人間は、偶像の神々に対して、神々のご機嫌を損ねて、自分に災いが齎されないように、神々をなだめる礼拝するのです。

偶像の神々を信じる信仰は、自分の不幸を逃れるための、等価交換の法則が働いています。それに対してパウロは、「生けるまことの神は、神のご機嫌を損ねたら罰が与えられるとか、神をちゃんと敬わなければ、たたりを与えるという神ではない。生けるまことの神は、神を無視する罪、自己中心に生きる罪を赦して、私たちにいつも恵みを与えようとする神である。」そう言うのです。

生けるまことの神は、私たちの願望が生み出したものではありません。生まれ持って神を無視する私たちの罪を赦して、私たちにいつも恵みを与えようとされる神なのです。でも、偶像の神々は、私たちの心が投影されているが故に、必ず対価を求めてくる神々なのです。

生けるまことの神を、なかなか分かることが出来ない私たちは、神の恵みを受けたいなら、人間側も、それに見合った何かしらのことを、神にしなければならない。そういう感覚を教会に持ち込むのです。そういう感覚を教会に持ち込むのは、生けるまことの神を無視して、自己中心に歩んでいるからです。いけるまことの神を、自分の中心にするのではなく、自分を中心にして生きている人は、人間の在り方を投影して、「神の恵みを受けるためには、何かしらの対価を神に払わなければならない。」そう思ってしまうのです。自分を中心にして歩んでいる罪深い私たちは、自分の常識を、神を礼拝する際に、持ち込んでしまうのです。

でも聖書の神は、生けるまことの神なのです。その御方は、自己中心な人間の常識を、遥かに超えている存在です。

聖書の神は、旧約時代には、聖書の神を信じる人に対しても、信じていない人に対しても、天から雨を降らせて、実りの季節を与えて、食物を与えるという形で、見返りを求めない御自分の愛を示していました。

でも新約時代に入って以降、聖書の神は、新しい形で、御自分の見返りを求めない愛を、示して下さったのです。

その愛こそが、主イエスの十字架です。主イエスは、人間となられて、私たちが神を無視する罪、自己中心に生きる罪の身代わりとして、十字架にかかって死んで下さったのです。そのことを信じるだけで、神の民と認めて、死んでも生きる永遠の命を、与える約束をして下さったのです。聖書の神は、神の民になるためには、何の対価も、クリアーしなければならない何かしらの条件も、求めないのです。ただ、私たちが神を無視する罪、自己中心に生きる罪の身代わりとして、主イエスが十字架にかかって死んで下さったことを信じるだけで良いのです。それを信じることは、幼子でも出来ることです。

私たちは、主イエスの十字架を信じて、その下で生き出した時に、等価交換を求めるような愛ではなくて、等価交換を求めない無条件の愛で、神や隣人を愛していくことが出来るようになるのです。そのように私たちを造り変えるのが、生けるまことの神の愛です。

私たちが、生けるまことの神に立ち帰るならば、足の不自由だった男性のように、苦しみや悲しみにうずくまっているところから立ち上がって、新しい人生を歩み出すことが出来るようになるのです。

キリスト者になった人のことを、ジョン・カルヴァンはこのようなことを言っています。「主に選ばれて、教会に加えられた者は、辛苦に満ち、労多く、安らぎなく、多種多様な不幸が、纏わりつく生涯を覚悟しなければならない。そういう修練を通して、十字架の恵みを分からせることが天の父の意志である。」

生けるまことの神は、私たちが、主イエスの十字架の愛を味わいつつ、生きていく喜びを与えるために、カルヴァンの言う修練を、私たちに与えて下さるのです。それが、生ける神が与えて下さる本当の恵みなのです。

そのことを受難節の今、心に刻みつつ、皆さんと共に歩んでいきたいと思います。

最後に一言お祈りさせて頂きます。