マタイによる福音書5章33節~37節
「甘い抜け道には毒がある」
牧師 野々川康弘
今日、皆さんと共に学ぶ箇所は、マタイによる福音書5章~7章の山上の垂訓に属している箇所です。山上の垂訓の内容は、ユダヤ教を信じている人たちに対して、ユダヤ教の教えがいかに間違っているのか。そのことを教え諭す説教です。その説教を主イエスは山で、ユダヤ教を信じていた人たちにしたのです。今日はその中でも、5章33節~37節を、皆さんと共に学びたいと思います。
今日の箇所は、小見出しに記されている通り、誓ってはならないことを教えています。しかし、厳密に言うえば、誓えないことを、誓ってはいけないこと。そのことを教えているのが、今日の箇所です。
今日の箇所を理解するためには、バビロン捕囚の影響を知る必要があります。南ユダヤ王国は、主なる神にいつも背を向ける歩みをしていました。その裁きとして、南ユダ王国は、バビロニア帝国に滅ぼされたのです。それが原因で、イスラエルの民は、もっとちゃんと主なる神の律法を、ちゃんと守らなければならないという思いが、強くなったのです。しかし、主なる神の律法を、ちゃんと守らなければならないと思えば思う程、律法を守れないことに気付かされたのです。これは、努力逆転の法則というやつです。
私がピアニストの友人の話ですが、彼女は毎日7時間~8時間ピアノの練習をしていました。リサイタルの前は、更にピアノの練習をしていたのです。でも、リサイタル当日、覚えていたはずの楽譜が、頭から飛んでしまって、手が止ってしまったなんてことがあったのです。つまり、ホワイトアウトしてしまったのです。
彼女は、頑張れば頑張る程、緊張が高まって、肝心な時に、頑張っていたことが発揮出来なくなってしまったのです。そうなってしまうことを、努力逆転の法則といいます。
それと同じようなことが、イスラエルの民にも起っていたのです。もうバビロン捕囚みたいなことは体験したくない。自分たちはもう、主なる神の裁きにはあいたくない。主なる神から、神に忠実な神の民と認められたい。そう思って、主なる神の律法を、一生懸命守る努力をしていたのです。でも、律法をちゃんと守らなければならないと思えば思う程、律法を守れなくなって、がっかりしていたのです。そんな中で生まれたのが、口伝律法です。口伝律法は、神の律法をちゃんと守ることが出来ない時にどうすれば良いのか。そのことを口伝で伝えられていた律法です。
この口伝律法が始まったのがバビロン捕囚以降です。そして、その口伝律法が纏められたタルムードが出来たのが、4世紀~5世紀ぐらいです。主イエスが生きて、今日の箇所のことを教えていた当時、まだタルムードは完成していませんでした。なので、この当時は、主なる神の律法を守れない時に、一体どうすれば良いのかといった、本当の口伝えの律法だったのです。その口伝えの律法に対して、批判をしているのが今日の箇所です。
33節を見ますと「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」そう記されています。
主イエスがこのことを、ユダヤ教を信じているユダヤ人たちに語ったのは、ユダヤ教を信じているユダヤ人たちは、主なる神の律法が守れなかったが故に、主なる神にではなくて、違うものに誓いをたてていたからです。
つまり彼らは、偽証になる誓いをしていたのです。偽証とは、嘘のことを真実に見せかけることです。
神に誓う時、その誓いを見届ける証人が必要になります。証人がいなければ、本当に誓ったのかどうか、疑わしいものになるからです。
そういったことを考えていくならば、彼らはモーセの十戒の、第九の戒めである「隣人に関して偽証してはならない」という律法を、守ることが出来ていなかったことになります。さらにいえば、主なる神以外のものに誓う行為は、モーセの十戒の、第一の戒めである「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という律法を、守ることが出来ていなかったことになります。
彼らの口伝律法では、「主なる神に対して誓えないことは、天や地にかけて誓えばよい。そうすれば神に誓ったことにならないから、神に裁かれることがない。」そう教えていたのです。もしくは、「主なる神に対して誓えないことは、自分の頭にかけて誓えば良い。そうすれば神に誓ったことにならないから、神に裁かれることがない。」そう教えていたのです。
つまり、「自分が神に誓ったことが果たされなかった時に、証人となった隣人に対しての偽証になってしまうから、不安であれば、主なる神にではなくて、天や地にかけて誓えばよい。もしくは、自分の頭にかけて誓えばよい。神の律法に忠実に歩むために、神に誓えないことは、神以外のものに誓えばよい。」そのようにファリサイ派の指導者たちは、礼拝の中で教えていたのです。
ユダヤ人の会堂によく足を運んでいた主イエスは、そのことをよく知っていたのです。だから主イエスは、「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。」、「地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。」、「あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもすることが出来ない権威の無い者だからである。」そう言われたのです。
そして、結論として「あなたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい。」そう言われています。
これは、「神に誓えることはちゃんと神に誓って、神に誓えないことは、ちゃんと神に誓うことが出来ないと言いなさい。神以外の何かにかけて誓ったとしても、それは神に誓ったことになる。主なる神に対しても、隣人に対しても偽証してはならない。」そういうことです。
つまり主イエスは、「神の前に、自分が神の義に適う者であることを認めてもらおうとして、言い訳の道を用意するのは、悪い者から出るのである。」そう言われたということです。
今これは、とても考えさせられることです。
私たち人間は、神に対して、彼らみたいに、いつも抜け道を考えてはいないでしょうか。更に言うと、神に従えないことの言い訳を、考えてはいないでしょうか。
主イエスが「一切主なるに誓えない誓いは、してはならない。」つまり、「神や隣人に対して、一切偽証してはならない。」そう言われたのは、人間に抜け道を作らせないためであり、言い訳をさせないためなのです。
今の私たちの社会は、自分を義とすることばかりを考えています。「自分を義とするために悪いことは考えずに、良いことを考えていこう。」あるいは、「自分を義とするために、悪いことの中にも、いいことがあることを考えていこう。」そう思って生きているのです。
よく、私たち夫婦が喧嘩になるのは、丸源ラーメンに家族で食べに行って、私が娘の学校の成績の話をし出した時です。私は、娘の学校の成績に、そんなに厳しくないと自負しています。私の場合、学校のテストで60点以上取れたら、別に何も言いません。その理由は、学校で先生のお話をちゃんと聴いて、予習と復習をちゃんと5回以上しているならば、60点ぐらい普通に取れるからです。だから、60点取れていなかった時、予習と復習が足りていない。そのように娘を叱ります。そのことを、丸源ラーメンを食べに行った時に、そういう会話をするのです。それは、普段、家庭では家族がそろって、食事をする時間が無いからです。でも、藍先生は、「丸源ラーメンの食事が不味くなる。今は食事を楽しまう。」そういうふうにいうのです。その時、私は「話せる時に話をするべきだ。普段、聖香がユーチューブ見ている時は、聖香はユーチューブ見ているから話せないし、普段、家族で話す時間をもっていない。外食している楽しい時に、商談のような真剣なお話をするべきだ。」そういって喧嘩になるのです。
それとか、朝起きた時に、藍先生に私が込み入った真剣なお話をし出した時に、「朝起きたばかりの時に、そんな込み入った真剣なお話をされたら、一日の気分が悪くなる。」そう怒られるのです。
おそらく藍先生の味方をする人が多いと思います。人の気持ちを支持すること、人に寄り添うことを考えたなら、そうことは気を付けるべきだと思います。でも、大切なことをいつでも聴ける力を養うには、自分の楽しさを犠牲にしてでも、大切なことを聴く訓練が大切になります。
今の世の中は、自分の気持ちがよくなることばかりを考える世の中だと思います。言い換えるなら、自分を義とすることばかりを考える世の中だと思うのです。
自分を義とするために、マイナスの側面に触れることを回避する方法。そのことばかりを考えるのが、私たち人間の姿ではないでしょうか。
神に誓えないことを、別のことにかけて誓っていたユダヤ人たちが、その典型です。神に義と認められるために、神に誓えないマイナスの側面を自分が見ることがないように、別のものにかけて誓う方法を生み出したのです。そして、神に忠実に歩んでいる気持ちになるように、自分で自分をコントロールしていたのです。
主イエスの十字架を義とするのではなくて、自分を義として歩もうとしている人は、自分の弱さ、自分の罪を見ないように歩むのです。それは、自分の弱さや、自分の罪を見て、自分に絶望しないためです。
でも、主イエスの十字架を中心にして歩む人は、自分の弱さや、自分の罪を知ることが大好きなのです。自分に絶望することが大好きなのです。その理由は、そこに、主イエスの十字架の光が差し込むからです。自分に絶望することが、十字架との出会いになるのです。そして、十字架との出会が、キリスト者の希望なのです。
私たちの人生は、確かに私たちのものです。でも、私たちの人生は、私たちの自由にはならないのです。私たちの人生は、神のみ手の内にあるのです。もっというと、私たちの人生が、主イエスの十字架に取り扱われてこそ、聖書の自由が与えられて生きることが出来るようになるのです。自分の好きなように生きることが私たちの自由ではなくて、主なる神を神として歩むことが、私たちの自由なのです。
主なる神は、私たちが自分を義として生活しているのか、それとも、主イエスの十字架を義として生活しているのか、全て御存知です。何故なら、神は生きて働いておられるからです。
私たちは、普段、何げなく生活していますが、その生活は全て、神のみ前での生活なのです。言葉を換えて言えば、私たちが普段、何気なく発している言葉は、全て、神の御前で発している言葉なのです。34節の「一切神に誓えない誓いを、立ててはならない」という主イエスの教えは、そういうことを語っています。
また、37節の「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。」という主イエスの教えも、神の子として自分を義とするための言い訳をしない歩み。それを私たちに勧めています。
でも、そんなことを言われたら、私たちは、とても窮屈に感じるのではないでしょうか。「自分を義とする歩みではなくて、主イエスの十字架を義とする歩みをせよ。」そう言われたら、気軽に生活をすることが出来なくなるのではないでしょうか。
じゃあ、主イエスは今日の教えによって、私たちの気軽な生活を奪おうとしておられるのでしょうか。そうではありません。
それが分かるのが、36節の主イエスの言葉です。そこを見ますと、「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」そう記されています。これは、裏を返していえば、「髪の毛一本すら、神は白くも黒くも出来る」そういうことです。「髪の毛一本」という言葉は、私たちの生活の細かいところまで、神のみ手の内にあることを象徴しています。実は、「髪の毛一本」という言葉を、主イエスは別の箇所でも語っておられます。マタイによる福音書10章29節~31節を見ますと、こう記されています。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」
今日の箇所で語られているのは、私たちは自分の髪の毛一本も、自分の思い通りに出来ないということです。でも、10章29節~31節で語られているのは、主なる神が、私たちの髪の毛一本までも数えていて下さるということです。その教えは、主なる神は、私たちを知っていて下さるということです。そして、主なる神が、私たちを知っていて下さるということは、私たちを愛しておられるということです。
天の父なる神が、十字架を義として歩むよりも、自分のことを義として歩んでしまう私たちのことを愛して下さっているのです。
だから、自分を義として歩んでしまう私たちの罪の身代わりとして、主イエスは十字架にかかって死んで下さったのです。そして、そのことを信じる人は、神の独り子である主イエスが、父なる神によって、神に背を向ける罪の死から、新しい神の子として復活させられように、父なる神によって、私たちが自分を義とする歩みに死んで、十字架を義とする新しい神の子として復活するのです。そうはいっても、その復活がなかなか出来ない私たちであることを知っておられたからこそ、主イエスの昇天によって、私たち一人一人の内に、聖霊を内住させて下さったのです。それ程、神は私たちを追ってきて下さる愛で、包み込んで下さっているのです。
だからこそ、自分を義とする歩みを放棄して、十字架を義とする歩みをしていくことが大切なのです。
十字架を義とするとは、自分の罪や、自分の弱さを認めることです。自分の罪や弱さや、自分の絶望を発見することが、十字架を知ることに繋がっているのです。
主イエスの十字架の恵みを深く知らされていってこそ、私たちは偽証にならない誓いを、神や隣人に、していくことが出来るようになるのです。
洗礼を受けて信仰者となる時、父、子、聖霊なる神を信じ、教会員としての務めを果たしていくことを、神や兄弟姉妹の前で誓約します。また教会で、役員に選出されて、その任につく時も、神や兄弟姉妹の前で誓約をします。牧師が就任する時にも、神や兄弟姉妹の前で誓約をします。教会で行われる結婚式でも、夫婦となる人たちは、神や、兄弟姉妹を含む隣人の前で誓約をします。
教会の営みや私たちの信仰生活の節々に、神と、兄弟姉妹の前での誓いがあるのです。
教会で行われる全ての誓は、自分を義とすることを放棄して、十字架を義として歩んでいくという誓いです。
主イエスは、そんな私たちの誓いを喜ぶのです。そして私たちも、主イエスが、その誓いの最終的な責任を負って下さることを知っています。だからこそ、主イエスにより頼み、自分の力では絶対に出来ないと思う十字架を義とする誓いを、神と、兄弟姉妹の前でするのです。
洗礼を受けて信仰者として生きていくことも、役員の働きを担っていくことも、神が結び合わせて下さった夫婦として生涯を共に生きていくことも、私たちの力や、私たちの責任によって出来ることではありません。私たちと共に歩んで下さる主イエス。私たちの誓いの最終的な責任を負って下さる主イエスの愛を知らされている中でこそ、誓いを果していくことが可能となるのです。
自分を義とする私たち罪人は、自分を義とするために、神や隣人を傷つけて日々歩んでいます。だからこそ、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業が私たちに与えられたのです。
その神の愛に応えて、十字架を義として歩んでいく誓いを立てることで、神や隣人を愛することが出来るようになっていくのです。
もし、ユダヤ教の人たちのように、自分を義とする抜け道を探して歩んでいくのであれば、神や人との絆を失っていくことになります。だからこそ、そういう道にいこうとする人は、今日の箇所のような叱責を、神から受けることになるということを、今日、私たちは心に刻み込みたいと思います。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
