2026年1月28日 仙台青葉荘教会礼拝

ヨハネによる福音書21章15節~19節

「愛しているか」

成 智圭(ソン チキュ)先生

2025年の最後の主日になりました。キリスト教の暦では、アドベントから1年が始まるわけですが、それでもこの世界に住む私たちにとって、年末年始は一つの大きな節目であります。皆様にとって2025年は、どのような一年だったでしょうか。どのように神様に守られた一年だったでしょうか。あるいは、どのように神様に叫び、神様に問うた一年だったでしょうか。そのことも考えながら、今日与えられている御言葉に共に聞きたいと思います。

今日与えられている御言葉では、十字架につけられ、復活されたあと、弟子たちの前に現れたイエス・キリストの姿が描かれています。イエス・キリストは、弟子たちの前に現れました。弟子たちはイエス・キリストが十字架の道を歩んだとき、そばから離れ、逃げ出した人々です。弟子と言いながら、自分の命のほうを惜しんだ彼らは、イエス・キリストが十字架にかかったあと、自分のもともとの職場に戻ったのでした。絶望があったかもしれません。ひと時の夢を見ただけだ、と自分を奮い立たせたかもしれません。イエス・キリストに最後まで着き従えなかったという自責があったかもしれません。それぞれの職場に、漁師という持ち場に戻った今、弟子たちはさまざまな思いを抱えていたことに間違いありません。そのような弟子たちに、イエス・キリストは現れて声を掛けました。「食べ物はありませんか」弟子たちは言います、「ありません」冷たい返しです、それもそうです、彼らは声をかけた主がイエス・キリストだとはわからなかったのです。自分たちの心が沈んでいる中、誰だ食べ物を求めてくる奴は、そう思っていたことでしょう。イエス・キリストは、言います「舟の右側に網を打ってみてください」弟子たちはその通りにすると、なんと網が破れるくらいの魚がかかってではありませんか。これが、デジャヴ。弟子たちは、声の主がイエスであることを知ったのです。ペトロはその時、舟から飛び降りて湖を泳いでイエスのところに行きました。待ちきれない、早く会いたい、本物か、彼の中にはさまざまな感情がうごめいていました。その後イエス・キリストは弟子たちと共に食事をとりました。本当に復活したんだ、弟子たちは分かったのです。

さて、わたしたちはペトロという弟子に注目をしてみましょう。ペトロというのは、イエスを一番愛していると自負していた、一番弟子のことです。先ほどの話で、舟から湖に飛び込んだ弟子です。ペトロという名前は、実は彼の本名ではありません。時は少し前、イエス・キリストと共に行動を始めたころ、イエス・キリストによって彼に与えられた別名、いわばニックネームがペトロでした。本名はシモン。ペトロは、岩という意味です。岩ちゃん。なぜ岩なのでしょうか。イエス・キリストがどれだけペトロに目をかけていたか、私たちはこの名前を通して知ることができます。このペトロという人物を土台、岩として、教会が建てられる、とイエス・キリストはおっしゃったのです。イエス・キリストは、ペトロの本名であるシモンという名前で呼びかけながら、ペトロに問いかけました、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」

この「愛しているか」という問いは、どのような問いでしょうか。どのような意図を持った問いなのでしょうか。自分のこと、愛してる?と誰かから聞かれたら、答えに困ってしまうかもしれません。それが家族や恋人であれば、私もだよ、と答えつつも、「何かあったのかな、悩んでいるのかな」と心配になってしまいそうです。

 「愛しているか」とイエス・キリストが聞いた相手は、彼を裏切ったペトロでした。ペトロは、イエス・キリストが十字架にかかったあの夜、自分をイエスの弟子だと疑ってくる人々に、イエスという男など知らないと言って、イエス・キリストを裏切りました。それも3回、イエスという男なんて知らないと言いはなったのです。そのとき、ペトロとイエス・キリストは、他人になりました。イエス・キリストが伝道活動を始めてから3年間ずっと一緒だった二人の関係性が、ペトロの発言によって完全に破壊されてしまったのです。

 もし私が、心が通じ合っていたと思っていた人に裏切られたとしたら、その人がわたしと仲直りをしたいと思っていたとしても、絶対に歩み寄りはしません。ゆるせないと思います。だって裏切ったんです。向こうが歩み寄って来ても、こちらからお断りです、こっちは傷ついているんです。ましてや話をしたり、「わたしのことまだ好き?」とこちらからわざわざ聞いたりすることは絶対にしません、いや、できません。しかし復活したイエス・キリストは、ペトロに「シモン、わたしを愛しているか」と言いながら歩み寄っているのです。

 ペトロに歩み寄ったイエス・キリストのまなざしはどのようなものだったのか、残念ながら聖書には書かれていません。ペトロを叱るような、責めるような目であったのか、それとも慈しみに満ちていた目だったのか。はたまたその目には、ペトロは今私のことをどう思っているのだろうかという不安があったのか。あるいは地面をむきながら話されたのか。

 イエス・キリストから「愛しているか」と問われたペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」すると、主は「わたしの子羊を飼いなさい」と言われました。

 しかし、同じ質問を、イエス・キリストはもう一度するのです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」「わたしの羊の世話をしなさい。」同じやり取りが2回行われました。

 しかし、イエス・キリストは3度目に、同じ質問をしました。ペトロにとってそれは非常事態でした。聖書にはペトロが「悲しくなった」と記してあります。

きっと最初の質問のときから、ペトロの心は重かったのだと思います。おそらく彼の頭には、死ぬとしてもあなたについていきますと宣言したその日の情景が、自分がイエス・キリストを3度も知らないと言ってしまったあの日の夜明けが、浮かんだのでしょう。そして、ペトロがイエス・キリストに、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたは良く知っておられます。」と答えた時、彼は心の叫びをあげていたのかもしれません。「わかっています、私があなたを愛する資格がないのは、わたしが一番わかっています。でも、聞いてください。裏切りたくて裏切ったんじゃありません。一緒に行きたかったけど、怖くて行けなかったんです。事情があったんです、わかってください、本当は一緒に行きたかったんです。」

最初の質問をされたとき、二度目にされたとき、そして三度目の質問をされたとき、ペトロは完全に心が壊れました。ペトロの中に、彼が主イエスを裏切った場面、きっと彼はなかったことにしたかった、しかし彼の中に重くのしかかっていたものが、今、鮮明によみがえりました。そのような今の彼にできることは、ただただイエス・キリストに叫びをあげることでした。イエス・キリストにすがることでした。主よ、あなたはなにもかもごぞんじです。本当は私も一緒に行きたかった!あなたを愛していないわけじゃない!でも、体が動かなかったんだ、わかるでしょう・・・。という、弱弱しい叫びです。

自信を全く失ったペトロに、イエス・キリストは驚くべきことを宣言されます。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれる。」あのとき、一番弟子であったペトロ、どこまでもついていきます!という情熱の宣言が守れなかったペトロ、しかし今自信を全く失ってただただ叫びをあげるしかないペトロに、今度はイエス・キリストのほうから言うのです、どこまでもついてきなさい、いや、いっしょに行こう、と。

愛するというのは、どういうことでしょうか。ペトロは、イエス・キリストと出会ってから、ずっとイエス・キリストが好きでした。ご自分が十字架にかかり、復活をすることになると予告をされたイエス・キリストに、そんなことがあってはなりません!と諫めてしまったほどには、ペトロはイエス・キリストを愛していました。しかし、その愛は、死への恐れの前に、砕け散りました。彼の思う愛は、裏切り、という形で、散っていきました。

 ペトロのことを、私たちはどのように見るでしょうか。あーあ、裏切っちゃった、あんなに威勢がよかったのに、そう見るでしょうか。最初から死ぬまでついていきますなんて、言わなければよかったのに、そう見るでしょうか。

しかしどうでしょう、わたしたちはきっと愛するということができません。愛することは、情熱的に好きだとか、自分に優しいなどの条件があるから好きだとか、そのようなものではないことを私たちは知っています。きっと、自分が正しいと思うことを押し付けることでも、行うことでもないということだけは知っています。しかし、わたしたちは愛することができません。なぜなら、わたしたちは愛することよりも、愛されることを望むからです。心の声を聞いてほしい。叫びたい。自分を知ってほしい。だから、ペトロは「わたしの羊(イエス・キリストの民)の世話をしなさい」とイエス・キリストにいわれていたけれども、私たちはまず、他の誰かの世話をする時間、余裕なんかありません。わたしたちは、相手のことを考えているようで、実は自分のことしか考えることができない存在です。だから、誰かをゆるすことも私たちにとってはとっても難しいことです。自分を正当化することしかできないからです。私たちの言う愛しあう関係というのは、実はとても自己中心的で、一方的であって、互いの関係であることは、ほとんどないのかもしれません。私たちは、愛するということを、ましてや神を愛するということを、本当の意味で知らないのかもしれません。しかしペトロも、私たちも、きっと心の奥底では、愛すること、神を愛することを求めているはずです。

そのようなペトロに、そしてわたしたちに、イエス・キリストの方から歩み寄ってくださって、今朝「わたしを愛しているか」と、問いかけられます。それはきっと、ペトロの、わたしたちの、痛い所をつく質問です。思い出したくないことを思い出させる言葉です。本当は愛なんてわからないという、知りたくない事実を知らされる言葉です。でもそれは、そのようなわたしたちの心の叫びを聞いてくださるための、救いの言葉でもあります。それは、イエス・キリストの、わたしたちに対するゆるしの宣言でもあります。イエス・キリストは、ペトロに、弟子たちに裏切られ、少なからず傷ついた救い主です。きっと、昨日も今日も、わたしたちによって、傷ついておられる救い主です。そのような方が、歩み寄って、「ヨハネの子シモン」と呼びかけられる。私たちの名前を呼んでくださる。壊れた関係を、私たちの方が壊してしまった関係を、再び新しく始めてくださるのです。もはや表面だけを取り繕った、一時的な情熱の、自己中心的な愛の関係ではありません。イエス・キリストを否んでしまうような弱いものが、ゆるされ、イエス・キリストに本当の心を打ち明け、叫ぶことができる。イエス・キリストが私たちの手をとって共に行ってくださる。そのような新しい交わりへと、ペトロは、そして私たちは招かれているのです。

わたしたちは、イエス・キリストを愛することを知ることすら、あきらめる者たちです。そのくせ、本当に心から悔い改めることもできない者たちです。でもきっとそのとき、イエス・キリストはやって来て、わたしたちの名を呼んで聞いてくれます。「わたしのこと愛してるか?」そのとき、わたしたちはきっと言い訳しかできません。しかしそのような心からの叫びを、イエス・キリストは聞いてくださいます。私の方から壊してしまう関係性を、イエス・キリストはゆるしによって、また新しく築きなおしてくださる。そして、「わたしに従いなさい」とペトロに言われたように、共に行こう、来なさいと、私たちをも招いてくださっています。その救い主とともに歩んでいくとき、イエス・キリストに日々ゆるされていることを知って歩むとき、きっとわたしたちは少しずつ、神を愛するということを、知らされていくのかもしれません。

イエス・キリストは私たちに愛を示してくださいました。それは、私たちの代わりに、十字架にかかるという行為を通してでした。私たちは愛と聞くと、綺麗なものを思い浮かべます。平和を思い浮かべます。しかし、十字架上でイエス・キリストが受けたものは、平和とは程遠いものでした。血が流れました。暴言がありました。暴力がありました。偽りがありました。しかしそれらはすべて、私たち人間が行っていたことであり、今日まで行っていることです。そのすべての罪を、自己中心の罪を、イエス・キリストが代わりに担ってくださった、これが十字架です。愛とは程遠いと思える十字架が、どうして愛と呼ばれるのでしょうか。愛とは、自己中心ではなく、また、実は他者中心でもなく、神中心のことだからです。この人を愛する、その理由は、神がその人を造り、愛してくださっているからです。私たちが伝道をする、それは、神がそれを望んでおられるからです。そのためにイエス・キリストは私たちの一番近くに来てくださったのです。

イエス・キリストの「愛しているか」という問い、それは、私たちが隠したいことを、しかし叫びたいことをあらわにする問いであり、わたしたちに対するイエス・キリストの赦しの宣言であります。そして、自己中心的な生き方から、神中心に生きることへの招きであります。一年の終わりを迎えようとしている私たちは、一年を振り返り、神の恵みを知るときが与えられています。このとき、イエス・キリストのゆるしの宣言を受け、新しく来たる主の年、主の手に引かれ、勇んで歩むわたしたちでありたいと願います。

父よ、わたしたちは、あなたを愛したいと思いながら、あなたに従いたいと思いながら、それをあきらめ、それから逃げ出してしまう者たちです。どうか憐れんでください。ペトロに主イエスが愛しているかと問うてくださったように、わたしたちにも問うてください。わたしたちをゆるし、また新しく、あなたとともに歩ませてください。また少しずつ、あなたの愛を、そして、あなたを愛することがどのようなことか、知ることを得させてください。救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。