「悩みから解放される秘訣」
仙台青葉荘牧師 野々川康弘
皆さん、クリスマスおめでとうございます。
臨床心理士協会を日本で立ち上げた河合隼雄は、あるところでこういったことを話されました。「何人かの人が、漁船で海釣りに出かけました。夢中になっているうちに、夕闇が迫ってきました。なので、あわてて帰りかけましたが、潮の流れが変わり、方角がわからなくなって、完全に暗闇になりました。都合の悪いことに月も出ていません。必死になって、たいまつをかかげて方角を知ろうとしても、自分が何処にいるのか見当がつきません。そのうち、知恵のある人が、灯りを消せと言いました。不思議に思いつつも、その人の気迫におされて、灯りを消しました。灯りを消しましたら、あたりは真の闇でした。でも、目がだんだんとなれてくると、まったくの闇と思っていたのに、遠くの方の、浜の明りが、ぼうーと明るく見えてきたのです。そこで帰るべき方角がわかって、無事帰ることが出来たのです。」
人間は、自分が暗闇に覆われた時、自分の光に頼って、暗闇から抜け出そうと頑張ります。でも、自分の光に頼るなら、かえって暗闇から抜け出せなくなるのです。でも、自分の外にある光に頼るなら、人間は、暗闇から抜け出すことが出来るようになるのです。
今日の箇所は、暗闇から抜け出す秘訣は、自分の外にある光に頼ることであることを教えています。
では、自分の外にある光とは、一体何でしょうか。
ヨハネによる福音書の著者であるヨハネは、「それは言である。」そういっています。彼がいう「言」とは、葉っぱの「葉」という漢字をつけ加えない「言」です。
つまり、彼がいっている「言」とは、この世で飛び交っているおしゃべりとは違うのです。彼がいっている「言」とは、神の言葉に人格が宿ったこと、つまり、神の言葉を、この世で具現化して歩んだイエス・キリストのことを、言い現わしているのです。
ヨハネは、「神の言葉に人格が宿ったイエス・キリストこそが、自分の光に頼り、自分が抱えている暗闇から抜け出そうとして、返って暗闇に飲み込まれるわたしたちに、本当の光を与え、私たちを暗闇から救い出して下さる。」そう言っているのです。
実はそれが、4節~5節の「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」という言葉の意味です。
でも1節を見ますと、こういう言葉が記されています。「言は神と共にあった。」
先程、申し上げました通り、「言」とは、イエス・キリストのことで、イエス・キリストは神です。でもヨハネは、「言は神と共にあった。」そういっています。
そこで疑問になるのは、「イエス・キリストは神なのに、イエス・キリストは、神と共にあったとは、一体どういう意味なのか?」ということです。実は、「言は神と共にあった」とは、子なる神・イエス・キリストは、父なる神と共にあったということです。
つまりヨハネは、「イエス・キリストと、父なる神は区別された御方である。でも、いつもずっと一緒におられた。」そう言っているのです。
ヨハネによる福音書には出て来ませんが、聖霊という神につても、同じことが言われています。
つまり、父なる神、イエス・キリスト、聖霊は、それぞれ区別された神で、この世が始まる前から、永遠の愛の交わりを持っておられる唯一の神なのです。
でもそういったことは、神が、人間に明らかにして下さらない限り、人間は知ることは出来ないのです。
もし人間の力で、神を知ることが出来るなら、それはもはや神ではありません。
神は、人間が知ることが出来ないからこそ神なのです。神が御自分のことを自己開示して下さらない限り、私たちは、神を知ることが出来ないのです。
でも、幸いなことに、ヨハネは、「神が、御自分がどういう御方であるのか、そのことを自己開示して下さった出来事が、イエス・キリストが、この世に人となって誕生したことである。」そういっているのです。
神の独り子・イエス・キリストが、人間としてお生まれになられたからこそ、私たちは神を知ることが出来るようになったのです。
今日は時間の都合上、今日の箇所を全て解き明かすことは出来ません。なので、大切なことだけをいいます。
今日の箇所を通して、ヨハネが最も言いたかったのは18節です。そこを見ますと、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」そう記されています。
この意味は、「私たち人間の力で神を知ることは出来ない。でも、この世が始まる前から、いつも父なる神と一緒におられたイエス・キリストが、父なる神のことを示して下さった。だから、私たちは父なる神のことが分かる。」そういう意味です。
じゃあ、イエス・キリストは、父なる神のどういったことを、私たちに示して下さったのでしょうか。
聖書が教えていることは、人間はもともと、唯一の神が、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の、愛の交わり共同体であるように、人間が、自分・神・隣人の愛の交わり共同体を形成して、生きていくように造られたということです。その証拠が創世記1章26節です。そこには、「我々にかたどり、われわれに似せて、人を造ろう。」そう記されています。此処で神はご自分のことを「我々」そのように複数形で表現しています。
最初の方で私は、「父なる神、イエス・キリスト、聖霊は、それぞれ区別された神で、この世が始まる前から、永遠の交わりを持っておられる唯一の神である。」そう申し上げました。
それをキリスト教会は、三位一体の神といっています。三位一体とは、一人の神ではなくて、三人が一体になっている神ということです。それが、三位一体という意味です。
ある有名な神学者の言葉を借りるなら、ただ一人の神ではなくて、唯一の神であることが、三位一体の神の極意です。英語でいえばnot just one but only oneなのです。
そう考えますと、人間が、三位一体の神に似せて造られた意味が、とても分かりやすくなります。
つまり人間は、神が、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の、愛の交わり共同体であるように、人間が、自分、神・隣人の愛の交わり共同体を形成して、生きる存在として造られたのです。
それが、「我々にかたどり、われわれに似せて、人を造ろう。」という意味です。
でも、人間は神との関係を断ち切って生きるようになりました。「自分が光輝くのは、神に頼るのではなくて、自分の考えに頼って生きることだ。自分が自分の思うように生きることだ。」そう考えるようになったのです。「それが自由である。」そう思うようになったのです。それが記されているのが創世記3章です。
その結果、三位一体の愛の交わり共同体の神に似せて造られた、人間の本来の形が壊れたのです。人間の形が壊れたとは、三位一体の神、自分、隣人の愛の交わりが壊れたということです。
でも神は、私たちが、完全に神を愛して、隣人を愛して生きることを願われています。その理由は、それが人間を造った意味だからです。
じゃあ、完全に神を愛して、隣人を愛するには、具体的に、どうしたら良いのでしょうか。
それは、神を無視するのではなくて、神との関りに生きて、神が定めた、神を愛して、隣人を愛する律法をちゃんと遵守して、歩むようになることです。
具体的には、モーセの十戒を守れば良いのです。モーセの十戒は、分かりやすくいえば、こういったことを言っています。
- 聖書の神以外の神を、神としてはならない
- 偶像をおがんではならない
- 神の名を自分の益ばかりを願って、みだりに唱えてはならない
- 日曜礼拝を守りなさい
- 父母を敬いなさい
- 人を本当の意味でも、心の中でも殺してはならない。つまり、人との関係を断絶してはならない
- 本当の意味でも、心の中でも姦淫してはならない。つまり、神が定めた一人の異性だけを、本当の意味でも、心の中でも、愛さなければならない
- 本当の意味でも、心の中でも人のものを盗んではならない
- 隣人のことで、本当の意味でも、心の中でも嘘をいってはならない
- 隣人のものを、本当の意味でも、心の中でも欲してはならない
最初の4つの法が、神を愛する法で、後の6つの法が、隣人を愛する法です。
トルストイという文学者はこういっています。「私は、モーセの十戒を守ることは、最初はとても窮屈だと思っていた。しかし、モーセの十戒が完全に守られている世界を想像したら、モーセの十戒は、私たち人間に、とても優しい世界を齎すことが分かった。その時、私が悟ったことは、人間は、モーセの十戒を窮屈に思う程、自分勝手な罪人であるということだ。」
本来、神は神であるが故に、一ミクロンでも、モ一セの十戒を破ることは赦しません。それは、神はきよい御方であり、義なる御方だからです。でも神は、御自分が造られた人間を、とても愛している、愛なる御方でもあります。
たとえ、アダムとエバの時代から、光なる神の存在を排除して、自分を光として歩むようになって、神や、隣人との関りを破壊して歩むようになってもです。
ある有名な神学者は、「アダムとエバの時代以降、人間の理性は、神や隣人を愛する方向に、働かなくなった。」そういっています。
アダムとエバの時代以降、人間は関りを愛するのではなく、自分の思いを愛する存在になったのです。分かりやすくいうと、神や、隣人を生かすために生きるよりも、自分がやりたいことをやって生きる存在になったのです。自分がやりたいことを邪魔されたなら、神であろうと人間であろうと、関わらなくなったり、排除したりして、生きるようになったのです。それが、聖書のいう罪です。
神は、自分を中心に生きる人間の罪、神や、隣人との関係を破壊するような、自分を光として歩む罪、それを水に流すことが出来ない義なる御方であり、聖なる御方です。だから人間が、モーセの十戒を守ることが出来ない罪を裁くために、モーセの十戒を完全に守ることが出来ていた、ご自分の愛する独り子・イエス・キリストを、十字架に架けて殺したのです。
神は、そのことを信じる人は、御自分の愛する独り子・イエス・キリストが、十字架で肉が裂かれて、血を流されたことの故に、モーセの十戒を守れない罪を、帳消しにすると決められたのです。
つまり、イエス・キリストが、神や、隣人を、完全に愛して生きることが出来た義を、私たちに転嫁することで、神は、私たちが罪人であったとしても、義を得ている者として認めることにして下さったのです。
転嫁という漢字は、責任転嫁という漢字を書く時の転嫁という漢字です。そうなのです。イエス・キリストの十字架を信じるなら、その人の罪の責任が、イエス・キリストに責任転嫁されることを、父なる神が認められたのです。それが、イエス・キリストが、私たちに開示して下さった神の愛です。
イエス・キリストを信じない人は、「自分が死んだ後、自分の神に赦されない罪の責任は、自分でちゃんと背負って神の御前に出る。」そう言っているのです。
聖書の神は、愛なる神です。人間に自由意志を与えています。キリスト教は、人に自由意志を与えないカルト宗教ではありません。
聖書の神は、「自分の罪はイエス・キリストにはなすりつけません。自分の罪の責任は、今も死んだ後も自分で背負います。」そう申し出る人には、その申し出を、涙を飲んで受け入れる御方です。
でも、聖書の神は、モーセの十戒レベルで、神や隣人を愛せない罪を、水に流すことは絶対にしない義なる神であり、きよい神です。
罪をちゃんと裁くということは、旧約時代も新約時代も変わっていません。それは不変です。だからこそ、モーセの十戒を守れない人間の罪を、イエス・キリストに背負わせて、十字架に架けて殺すために、御自分が愛しているイエス・キリストを、この世に誕生させたのです。
イエス・キリストは、この世で自分の思いや願いを優先して生きませんでした。自分が生きたいように生きなかったのです。父なる神にとって一番何が良いのか、罪人である私たちにとって一番何が良いのか。そのことを考えて生きる完全な愛の人だったのです。だから、神に認められる義を持っていて、その義を私たちにプレゼントすることが出来たのです。
クリスマスの最大のプレゼントは、私たちが、自分が自分として生きる罪を帳消しにするために、言葉を換えていえば、自分の光に頼って、神や隣人との関係を破壊していく闇に飲み込まれていく私たちを救い出すために、イエス・キリストの命をプレゼントして下さったことです。
イエス・キリストは、今日、此処にいる全ての人に「神は、私の命を与えた程、この世を愛している。それは、私の義を与えたことを信じる人たちが、神と隣人との関りに、今も、死んだ後も、生きる命を得るためである。父なる神が、私をこの世に遣わしたのは、世を裁くためではなく、世を愛しているからである。」そう言っておられます。
今日此処に来ている皆さんが、教会の礼拝に集うようになることを、教会員一同、心から祈っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
