ルカによる福音書2章1節-21
「救いの喜びに与るためには」
牧師 野々川康弘
クリスマスおめでとうございます。
今日の10節を見ますと、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」そう天使が言ったことが記されています。
そうなのです。私たちにとっての大きな喜びは、全ての人のために、救い主・主イエスが、この世に誕生したことです。
でも何で、全ての人のために、救い主・主イエスが、この世に誕生したのが、そんなに大きな喜びなのでしょうか。
そのことを知るために、今日の箇所を皆さんと共に、学びたいと思います。
今日の箇所を見ますと、皇帝アウグストゥスから、全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出たが故に、ヨセフとマリアは、ナザレから、ベツレヘムに行かざるを得なかったことが分かります。マリアは臨月を迎えていました。そうであるにも関わらず、皇帝アウグストゥスの住民登録の勅令が出たが故に、ナザレからベツレヘムまで、約150キロもの旅を、しなければならなくなったのです。皇帝アウグストゥスが、全領土の住民に住民登録の勅令を出したのは、全国民から税金を取るためです。ユダヤ人たちにとって住民登録は、異邦人であるローマ帝国に、税金を取られるために、わざわざ登録に行かなければならない屈辱的な苦しみだったのです。神の民としての誇りを持っていた彼らが、異邦人の支配に屈することは、私たちが想像している以上の、大きな苦しみです。彼らにとって、住民登録をするための旅は、心から望まない旅だったのです。それを強いられたのです。しかもマリアは身重な体なのです。マリアとヨセフにとって、それがどれ程大きな苦しみだったのか、測り知ることが出来ません。でも、マリアとヨセフの苦しみはそれだけでは無かったのです。彼らは旅先で泊まるところがなく、家畜小屋で、一人の赤ん坊を生むことになったのです。彼らのそういった状況を考えるなら、主イエスの誕生は、とても「大きな喜び」とは言い難いことだったのです。
皆さん、もし皆さんが、マリアとヨセフの立場ならどうでしょうか。
自分が神の民というプライドを持っているにも関わらず、異邦人であるローマ帝国の支配を受けていて、ローマ帝国の言いなりになって、住民登録をするために150キロの旅をしなければならないのです。当時、車や、飛行機や、電車があるわけではないのです。しかも、マリアは臨月です。いくら神を信じているといっても、げんなりして、溜息が出てくるのではないでしょうか。そして極めつけは、家畜小屋で、主イエスを出産することになったことです。自分の大切な子を、そんなところで出産しなければならなくなるなんてことは、「ふざけるな!神は一体何をしているのだ!」そう叫びたくなるのではないでしょうか。おそらく心情的には、マリアとヨセフは、長旅の疲れや、家畜小屋での出産などが相まって、とても主イエスの出産を、喜ぶことが出来る状態では無かったと思います。
羊飼いたちにしてもそうです。当時、羊飼いは、社会的地位が低い人たちの職業でした。同胞のユダヤ人から忌み嫌われていた職業だったのです。それは、羊を世話するために、礼拝に参加することが出来なかったからです。だから羊飼いは、社会的地位が、低い人がなる職業だったのです。羊飼いたちは、社会的地位が低いことや、礼拝に出席出来ないことを卑下していたのです。そんな彼らに、主の天使が近づいてきて、主の栄光が彼らの周りを照らしたのです。だから、「何か罰が与えられるのではないか。」そう思って恐れたのです。羊飼いたちは、神の民として、いつもちゃんと礼拝に出ることが出来ていなかったが故に、「自分たちは神に愛されていないのではないか。」そういった自己不安があったのです。実際に、9節見ますと、「彼らは非常に恐れた。」そう記されています。
そこで疑問になるのは、何で羊飼いたちは、主の天使が近づいてきたことを、恐怖していたにも関わらず、主イエスの誕生を喜ぶことが出来たのかということです。更に言うと、何でマリアとヨセフは、心情的には、主イエスの出産を喜ぶことが出来る状態では無かったにも関わらず、主イエスの誕生を喜ぶことが出来たのかということです。
それらの疑問を紐解くヒントが、10節に記されています。そこを見ますと、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」そう記されています。これは羊飼いたちに、神が天使を通して言った言葉です。「民全体に与えられる大きな喜び」、「告げる」、これらの言葉が指し示しているのは、神が私たちに与える喜びは、私たちの内から沸き起こってくる喜びではないということです。神が私たちに与える喜びは、自分の内からではなくて、外から与えられる喜びなのです。つまり、神を見上げた時に、沸き起こってくる喜びなのです。私たちは、アダムとエバの時代に罪が人類に入ってきて以来、生まれたその時から、神が不在という感覚を持っている自己中心な罪深い者です。私たちは、神不在という感覚を持って歩んでいるが故に、自己不安を抱えて、いつも自分の心が満たされるようになることばかりを求めて、歩むようになったのです。そうなってしまった私たちは、「自己不安を自分の力で解決して、自分の力で救いを見出そう」「自分で自分の不安な心を満たす努力をすることで、救いを見出そう。」そう思うようになったのです。でも、私たちの本当の救いは、そう思うところから離れて、神が自分に対してではなく、「民全体に与えようとする喜び」に、目を向けるようになることです。自分で自分をマネージしようとするのではなく、神が「告げる」言葉。それに、耳を傾けるようになることです。
12節の、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」と記されている、飼い葉桶の中に寝ている主イエスを見つける喜びは、自分を中心に考えている人、神はいないとする人には、決して見出すことは出来ない喜びなのです。
そもそも、神なんかいないと思って、神の存在を無視して歩んでいる人は、主イエスの家畜小屋での誕生を、大きな喜びに感じることは出来ないのです。「神なんかこの世にいない!」そう思っている人は、「イエス・キリストは、貧しい家庭に生まれたから、家畜小屋で生まれた憐れな人!」そう思うだけなのです。
自分を中心に考えている人が、もしマリアやヨセフであったなら、神に対して、「出産が近いという自分たちの状況を考えて、150キロの旅なんかさせるな!それ以前に、何で神がいるなら、神の国イスラエルを、異邦人の支配下に置くのだ!」そのような暴言を吐くと思います。また、自分を中心に考えている人が、もし羊飼いであったなら「あなたが遣わす天使出会いたくなかった。いつも礼拝に行っていないから、自分がおびえるようなことをするのは辞めてくれ!」そのような暴言を吐くと思います。
皆さん、自分の思いや、自分の感情を一番大事にしている人は、神の救いを発見することは出来ないのです。その理由は、神の救いは、私たちの内から沸き起こってくるものではなくて、私たちの外から来るものだからです。
救い主・主イエスが誕生した喜びは、私たちが感じる喜びではなくて、外から与えられる喜びなのです。自分の内から沸き起こってくる喜びではなく、神が告げる喜びなのです。もし神の救いが、私たちの心の内から湧き上がってくる喜びであったなら、主イエスがこの世に誕生する必要は無かったのです。
そうすると疑問になることがあります。それは、神が告げて下さった、主イエスが誕生した喜びとは、一体何なのかということです。
実は、主イエスが誕生した喜びは、神の独り子であるはずの主イエスが、人間となられ、この世にお生まれになったことです。私たち人間は、アダムとエバの時代に、人類に罪が入り込んで以来、生まれつき、自分を中心にして生きる罪を持っています。神不在の感覚を持ってしまっているが故に、自己不安を抱えていて、自分を満たすことばかり考えて生きているのです。
それが聖書のいう罪です。でも、主イエスは違うのです。主イエスは、自分が満たされることばかり考える人ではなかったのです。主イエスは、罪人を理解するために、神という自分の立場を捨てて、罪人である人間の立場に立って生きたのです。その証拠が、主イエスが人間となって、この世にお生まれになられたことです。
しかも、主イエスが人間としてお生まれになった時、家畜小屋でお生まれになって、飼い葉桶の中で寝かされたのです。それが意味しているのは、自己中心な罪深い人間を、神の子供にして、永遠に、神や隣人との関係に、生きる命を与える永遠の命のパンとなるために、お生まれになられたということです。
私たちは、生まれつき神不在の感覚を持ってしまっているが故に、自己不安が強く、認めて欲しい、思いやって欲しい、分かって欲しい、理解して欲しいという欲求が強いのです。そしてそれらの欲求が満たされないと、他者を攻めたり、自分を卑下したりするのです。
生まれもって自己中心な私たちは、誰かに完全に愛されているという感覚が無いのです。だから、他者から認められることは求めても、自分が泥を被ってでも、自分を分け与える愛で、隣人や神を愛せないのです。
でも、主イエスは違います。人間が生まれ持っている自己中心という罪の泥を被り、人間が神や隣人と永遠の関りに、生きることが出来る命が得られるようになるために、つまりは、十字架にお架かりになるために、この世に人間としてお生まれになられたのです。
はっきり言います。どんなに素敵な人であったとしても、神の目からみると、どんぐりの背比べであって、自己中心です。全ての人が自己中心であるが故に、自己不安の病に侵されているのです。だから、自分を認めない人たちを破壊するか、認められない自分を破壊するかに走るのです。聖書はそんな私たちに、「神と隣人との関係に、永遠に生きることが出来る、充実した命が与えられる道は、神を無視して、自己中心に歩んでいる私たちの罪の身代わりとして、主イエスが十字架で死んで下さったことを信じて洗礼を受けて、神に無条件で愛されていることを信じて、歩んで行くようになるしかない。」そう言っているのです。
主イエスの誕生は、そういう救いの道が開かれた喜びなのです。私たちが、神と隣人との関係を破壊することなく、永遠に、神と隣人との関りに、生きていけるようになる命のパンとして、主イエスが、この世にお生まれになられたことを象徴しているのが、主イエスが飼い葉桶に寝かされたことであり、主イエスがベツレヘムでお生まれになられたことなのです。
ベツレヘムは、ヘブル語でパンの家という意味です。そして、主イエスが、飼い葉桶に寝かされたのは、将来、主イエスが、父なる神と私たちを和解させて、神がいるという安心感を私たちに与えて、私たちの自己不安を無くして、神と隣人と永遠に、豊かな関係を育んで生きていけるようになるための、永遠の命のパンになるという予表です。主イエスがベツレヘムで生まれたこと、飼い葉桶に寝かされたことは、決して偶然ではありません。これは必然です。父なる神が意図してそうされたのです。主イエスが、永遠の命のパンであることを教えるために、父なる神が、主イエスをベツレヘムで生まれさせて、飼い葉桶に寝かされたのです。そのことを発見出来るようになるのは、自分の力で生きていることからくる自己不安から、自分の人生の救いを、自分の力で見出そうとすることではないのです。そうではなくて、「恐れるな。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」この10節の、神からのお告げを聴くことによるのです。そのことによってのみ、主イエスが、自分にとっての永遠の命のパンであることを発見出来るようになるのです。
とはいえ、羊飼いたちは、神の使いである天使のお告げを聴いただけで、主イエスが、自分たちの永遠の命のパンであると、確信を持てたわけではありません。神の使いである天使のお告げを聴いた彼らは、15節に記されている通り「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」そう言って、ベツレヘムの町へ向かったのです。その結果、16節に記されている通り、「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」のです。
つまり、自分たちが神のお告げを受けて、それに応答した行動をしたことで、主イエスが、自分にとっての永遠の命のパンである確信を持つことが出来るようになったのです。そしてそれが、彼らにとっての大きな喜びとなったのです。
その証拠が20節です。そこを見ますと、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」そう記されています。そんな羊飼いたちの姿は、私たちにとても大切なことを教えています。それは、私たちが神から招かれた礼拝で、自分の感情や、自分の感覚を横に置いておいて、私たちに永遠の命を与えるパンとして、主イエスが誕生したという「大きな喜び」を告げられたことを聴いたとしても、それだけでは、それを自分の喜びとして生きることは出来ないということです。
私たちに永遠の命を与えるパンとして、主イエスが誕生したという「大きな喜び」に本当に与るためには、私たち自身が、自分の感情や感覚を横に置いておいて、神が自分に告げてきたことをちゃんと聴いて、私生活の中で従っていかなければならないのです。
既に、皆さんがお気付きだと思いますが、実生活の中で、主イエスの愛で十分に満足して、自分の認めて欲しい、思いやって欲しい、分かって欲しい、理解して欲しいという欲求から離れて、自分を分け与えていくことは、なかなか出来ません。私たちは神を無視する罪を赦された罪人にすぎないのです。この世で生きている限り、私たちは、神が不在の感覚から、抜け出すことは出来ないのです。
だからこそ、神が招いて下さっている、毎週日曜日の礼拝に出席して、私たちに永遠の命を与えるパンとして、主イエスが誕生したという「大きな喜び」を告げられなければならないのです。それに支えられてこそ、私たちは徐々に、自分が悲しんでいる時も、苦しんでいる時も、理不尽な目にあっている時も、人に自分を分け与えて生きることが出来るようになっていくのです。
クリスマスと言う意味は、「キリスト礼拝」という意味です。つまり、毎週の日曜礼拝が、私たちに永遠の命を与えるパンとなるために、主イエスが人間としてこの世にお生まれになられたという喜びを告げ知らされる場なのです。
主イエスが、私たちに永遠の命を与えるパンとなるために、肉が裂かれて、血を流されて、十字架にお架かりになられたことを告げ知らされた私たちが、大切にしなければならないのは、自己意識を放棄して、神意識に生きることです。
神意識に生きるとは、私たちが主イエスの十字架によって救われた者として、自分の自己中心の罪を赦せるようになって、隣人の自己中心の罪を赦せるようになっていくことです。
クリスマス礼拝の今日、そのことを心に刻み込んで、今年一年、皆さんと共に豊かに歩んでいければと心から願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
