イザヤ書9章1-6節
「私たちの希望」
牧師 野々川 康弘
アドベントに入りました。クリスマスに向けての歩みが始まっています。
アドベントは、神を無視してしまっている罪を悔い改めつつ、主イエスの誕生を祝うクリスマスが来るのを待ち望む時です。
ユダヤ人にとってクリスマスは、12月24日の日没から始まります。
でも何故、日没から始まるのでしょうか。それは聖書の第一日目の神の天地創造が、闇の存在から始まっているからです。
最初の神の創造の業は、創世記1章5節に記されています。そこを見ますと、「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一日の日である。」そう記されています。
「夕べがあり、朝があった。」そういう順番になっているのです。
これが神の創造の秩序です。この秩序が指し示しているのは、神が義なる人を創造するということです。
因みに、聖書が言う義は、道徳的に義であるということ以上に、神をパパと呼んで、神の言葉を親身に聴く人になることです。人がそうなれば、自然に道徳的義を纏う人にもなっていくのです。
それはそうと、今日は、イザヤ書9章1節~7節の言葉を、皆さんと共に学びます。
南ユダ王国の預言者イザヤが、今日、皆さんと学ぶ言葉を語ったのは、紀元前700年頃だと言われます。この時代、南ユダ王国は、シリア・北イスラエル同盟や、アッシリアによって攻められていました。南ユダ王国は、風前の灯火だったのです。
4節を見ますと、「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」そう記されています。
イザヤは、南ユダ王国の悲惨な状況を見たのです。それは丁度、ウクライナのような状況です。でも厳密に言えば、もっと酷かったと言って良いと思います。
南ユダ王国は、「もう駄目だ!」そう思える程、追い込まれていました。そんな状態を表している言葉が、1節の「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」という言葉です。
日に日に厳しくなっていく状況の中で、南ユダ王国の民は、これからどう生きていけば良いのか、途方に暮れていたのです。生きる希望も、勇気も失いかけていたのです。
でも、そのただ中にあって、イザヤが神から託されて語ったのが1~4節です。そこを見ますとこう記されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」
この意味はこういうことです。「南ユダ王国に住む人たちは、戦争に勝利する神の救いが与えられました。なので人々は、神が共におられることを喜び祝いました。神は、かつてギデオンを用いて、三百人の勇士で、十三万人以上のミデヤン人を打ち破られたように、南ユダ王国に攻め込んで来た敵に勝利して、彼らが負っていた苦痛の軛、彼らの肩を打っていた杖、彼らを虐げていた鞭を折られました。地を踏み鳴らしていた兵士の靴や、血にまみれた軍服をことごとく、火に投げ込んで、焼き尽くして下さいました。」
これが、イザヤが神から告げられた預言だったのです。
此処で注目すべきことは、1節~4節のことを既に完了した過去のこととして語っているということです。彼の目の前に広がる光景は、敵の軍隊に踏みにじられている、南ユダ王国の悲惨な状況です。正確に言えば、まだ南ユダ王国は、悲惨な只中にあるのです。まだ敵の軍隊に、攻められ続けているのです。
そうであるにも関わらず、既になされたこととして、イザヤは語っているのです。
何故でしょうか。それは悲惨な状況にしか見えない今の状況でも、将来必ず神の救いがあることを、神に知らされたからです。
だからイザヤは、たとえ今の状況が苦しいとしても、必ず将来、神が齎すであろう救いに、希望を置くように、1節~4節のことを語ったのです。
私たちはどうでしょう。日本は何処かの国に、攻め込まれるなんてことはありません。でも、違う形で、苦しい状況に置かれるなんてことは、しばしばあるのです。
そんな時、まだ実感出来ない救いに希望を持って、今の苦しい状況を、イザヤのように過去形にして、語ることが出来るでしょうか。
私はかつて一回離婚しています。その時、目の前が真っ暗でした。そんな時、フーストン先生が、「今の苦しみは、神からのプレゼントだよ。」そう私に言ってきたのです。正直、「ふざけるな!」そう思いました。
まだ苦しい最中にあって、「もうそれは過ぎ去っています。神は勝利を与えて下さいます。」そう言われて、心から素直に喜べるでしょうか。正直なところ、とても難しいのではないでしょうか。
おそらくイザヤも、南ユダ王国が他国に攻め込まれている中にあって、心から素直に喜べなかったと思います。でも、神に託された預言だったからこそ、自分の気持ちを横に置いておいて、神に託された預言を語ったのです。
イザヤは、複雑な自分の気持ちを横に置いておいて、更に神に託された預言を、南ユダ王国の人たちに語りました。それが、5節~6節です。
そこを見ますとこう記されています。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」
この5節~6節の預言は、近い将来のことでいえば、シリア・北イスラエル同盟の侵略を退けた、南ユダ王国のヨシア王か、アッシリア帝国の侵略を退けた、ヒゼキア王のことだと言われています。
でも、イザヤが紀元前700年頃に、神に託されて、語ったこの預言は、もっと大きな救いも指し示しているのです。
皆さんが御存知の通り、この5節~6節のイザヤの預言は、主イエスの到来のことをも指し示しているのです。
5節~6節のイザヤの預言は、イザヤ書7章14節の「わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」というインマヌエル預言とか、イザヤ書11章の平和の王による統治の預言と相まって、主イエスの誕生までも、預言されている言葉だったことが発見されたのです。
イザヤ書11章の平和のイメージは「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」という平和です。
そういう平和のイメージは、ルカによる福音書18章16節にあります。そこを見ますと、主イエスは、「神の国はこのような乳飲み子たちのものである」そう言われています。
「神の国」は「平和」と言い替えることが可能なので、「神の国はこのような乳飲み子たちのものである」そのようにいうことが出来ます。ということは、狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育つ平和は、乳飲み子たちのものなのです。
そして聖書が語る平和は、ローマ帝国の武力が齎したパックス・ロマーナではなくて、ひとりのみどりごが齎す平和なのです。
今朝、私たちは、5節の「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」という御言葉を心に刻み込みたいと思います。
狼が小羊と共に宿ったり、豹が子山羊と共に伏したり、子牛が若獅子と共に育つような平和な神の国を、今生きている時も、死んだ後も、私たちに齎して下さる主イエスの生誕を、待ち望みたいと思います。
平和な神の国は、既に神を無視する私たちの罪の身代わりとなって、十字架に架かって主イエスが死なれたことで、既に到来しています。そうなのです。教会が、平和な神の国なのです。でも、完全な平和な神の国は、主イエスがこの世に再臨された時に訪れます。
また、神の預言は、神の言葉と言い換えることが可能な言葉です。神が私たちを救う言葉は、今の私たちを救う言葉であり、私たちが死んだ後、私たちを救う言葉でもあるのです。
そんな時間を超越している言葉を語る神が、いつも私たちと共にいて、私たちを救うための言葉を、いつも私たちに語りかけておられるのです。
6節の最後で、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」そうイザヤが語っている通り、私たちを救いに導くのは、私たちの力ではないのです。時間を超越しておられる神が、私たちのために親身に語って下さる言葉によるのです。
私たちは、自分の感情に流されることなく、平和な神の国に導き入れたいと思われている、神の言葉を信頼して歩んでいけば良いのです。
でも、なかなかそれが出来ないのが、私たち人間です。そんな私たちの罪の身代わりとなって、主イエスが十字架に架かって死んで下さったのです。
そんな主イエスの誕生を、神を無視してしまっている日々の罪を悔い改めながら、待ち望みたいと思います。
アドベントの時の典礼色は紫です。この色は、罪の悔い改めを表していることも、今日、私たちは心に刻み込みたいと思います。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
