マタイによる福音書20章1節~16節
「ルビンの壺」
牧師 野々川 康弘
今日の話しは、「ぶどう園の労働者のたとえ」という、たとえ話です。
ある時、ブドウ園の主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行きました。当時、イスラエルでは、職を探し求めても、なかなか得られない状況にありました。なので、多くの人たちが、働く場所を求めて、決まった場所に集まって来ていたのです。なので、ブドウ園の主人は、その場所に、ブドウ園で働く人を探しに行ったのです。当時、イスラエルの人たちは、朝の7時頃~夕方の6時頃まで、みんな働いていました。当時、1日11時間ぐらい、働くことが普通だったのです。
それはそうと、ブドウ園の主人は、夜明けの朝の5時~6時頃、家を出て、一日働いてくれる人を求めて、働きたい人たちが集まっている広場に出かけたのです。そして、そこに集まっている人たちに声をかけて、2節に記されている通り、「一日一デナリオン」の約束で、人を雇ったのです。1日1デナリオンという賃金は、当時の一日の平均的な賃金でした。主人はそれだけの賃金を支払う約束をして、口頭で労働契約を結んだのです。
当時、イスラエルでは、口頭で労働契約を結ぶのは、一般的なことだったのです。その理由は、彼らは、自分たちが神の民であることを、自負していたからです。自分たちが、神がおられる中で、契約するといったことを覆すことが、いかに神を無視する行為になるのか、良く分かっていたのです。つまり、異邦人の私たちと、神がいつも共におられるという実感が、全く違っているのです。
話を聖書に戻します。ブドウ園の主人は、1日1デナリオンで、口頭契約を結んだものの、ぶどう園で働く人の数が足りなかったのです。なので、3節~7節に記されている通り、また、朝の9時頃、働きたい人たちが集まっている広場に出かけていって、そこで、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』そう言ったのです。でも、それでも、ブドウ園で働く人の数が足りなかったのです。だから、昼の12時頃と、昼の3時頃と、夕方の5時頃にも、働きたい人たちが集まっている広場に出かけていって、そこで、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』そう言ったのです。
そして一日の労働が終わって、日が暮れようとする前に、ブドウ園の主人は、契約をきちんと守り、みんなに1デナリオンずつ支払ったのです。
申命記24章15節を見ますとこう記されています。「賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。」
これは、賃金の支払いを遅らせて、労働した人が食べて行けないことがないようにする隣人愛の規定です。ブドウ園の主人は、この規定のことを良く理解していたからこそ、規定通り、日没前に、一日の労働の対価を支払ったのです。
でも、それがみんなを驚かせることになりました。
みんなが驚いたことは、賃金の支払う順番や、朝から働いていた人にも、昼から働いた人にも、夕方から働いた人にも、等しく、みんなに1デナリオン与えたことです。
8節を見ますとこう記されています。
「「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。」
ブドウ園の主人は、「最初に来た者」からではなくて、「最後に来た者」から順番に、賃金を支払ったのです。皆さんはこのことを、どう思うでしょうか。皆さんが「最初に来た者」だったとしたら、不平不満に満ちないでしょうか。
更に、みんなが驚いたのは、支払われた賃金のことです。支払われた賃金は、最初に来て11時間労働した者も、最後に来て1時間労働した者も、みんな1デナリオンずつ与えられたのです。皆さんはこのことを、どう思うでしょうか。皆さんが、「11時間労働した者」であれば、不平不満に満ちないでしょうか。
さて、此処でルビンの壺の登場です。
この絵はルビンの壺です。この絵は、ルビンの杯とも言われています。
これは、確かに壺や杯に見える絵です。でも、それだけでしょうか。実はそれだけではありません。この絵は、人の顔にも見えるのです。この絵は、壺や杯であるという先入観に支配されている人は、人の顔にも見えることが発見することが出来ないのです。
私が何を言いたいかといえば、自分を中心にしてしか、考えることしか出来ないような頭の持ち主は、「最後に来た者」から順番に、賃金が支払われたことや、11時間働いた人にも、1時間しか働かなかった人にも、1デナリオンずつ与えられたことに不満を持つのです。
でも、神を中心にして考えることが出来る頭の持ち主は、そうではありません。
今からその理由をお話します。
6節~7節を見ますとこう記されています。「『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです。』と言った。」
皆さん、良く考えてみて下さい。ブドウ園の主人は、夜明けの朝5時~6時頃と、昼の12時頃と、昼の3時頃と、夕方の4時頃に、働きたい人たちが集まっている広場に出かけていたのです。
そんな中で、ブドウ園の主人が見た光景は、朝から夕方まで、働くことが叶わず、途方に暮れていた人たちの姿です。
「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。」このブドウ園の主人の言葉は、主人が出かけていった朝も、昼の12時も、昼の3時も、夕方の5時も、ずっと働く所が見つからなくて、仕事を求めて、働きたい人たちが集まっている、広場に立ち続けていた人たちがいた何よりの証拠です。
朝から夕方まで、仕事を求めて、働きたい人たちが集まっている広場に、居続けていた彼らであれば、最初にブドウ園で働く仕事が与えられていたならば、朝から夕方まで、しっかり仕事をしたはずです。
ブドウ園の主人は、そのことを思って憐れに思ったのです。だから、1日働いた分の1デナリオンを、労働の対価として与えたのです。
そんな憐れみ深いブドウ園の主人はこう思ったのです。「ブドウ園で働けた人たちは、自分が働きたいという願いが叶って、充実した時を過ごすことが出来た。けれども、最後に来て、自分のブドウ園で働いた人たちは、自分の願いが叶えられず、働けるか、働けないかを心配しながら、充実しない時間をずっと過ごしていた。彼らを優遇してあげたい。」
そのように考えたからこそ、1日の労働の賃金を、最後に来た人たちから、手渡すことを決めたのです。
聖書が説いている愛は、自分の大切なものを、分け与えていく愛です。ブドウ園の主人は、それを実行したのです。でも、ブドウ園の主人がしたことに、不平不満を抱く人たちがいたのです。不平不満を言う人たちは、自分の権利を愛している人たちです。
コリント信徒への手紙1の6章7節にこういう言葉があります。「あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」
裁判は、自分に与えられるはずの当然の権利を、勝ち取るためになされるのです。でも、コリント信徒への手紙1の6章7節は、「裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負け」だと言うのです。ここで言っている「負け」という意味は、信仰が敗北していること、信仰が破綻していることです。じゃあ、勝つ信仰とは、一体どういう信仰なのでしょうか。それは、不義を甘んじて受けることです。奪われるままでいることです。自分の当然の権利に固執しないことです。
自分の当然の権利を追い求める人には、主イエスの愛が分かりません。
その理由は、主イエスは、神の子であるにも関わらず、私たちを愛するが故に、人間となられて、この世に来て下さった御方だからです。主イエスの愛は、自分が神であるという立場を捨てて、人間になって下さる愛なのです。自分目線ではなくて、ちゃんと相手目線になる愛なのです。また、主イエスの愛は、私たちが神を無視して歩む罪の身代わりとなるために、十字架にお架かりになられて、死んで下さった愛です。主イエスの愛は、人の罪という泥をかぶる愛なのです。
自分の当然の権利を追い求める人は、その愛によって、天に国籍がある者にされている感謝が無いのです。感謝がないということは、主イエスの愛が、自分に響いていないということです。そうであれば、何故、キリスト者であれるのでしょうか。
聖書を自分の生活の基準として歩んでいる人は、働いた見返りとして、当然お金を支払われるべきだとか、働いた見返りとして、当然お金を支払うべきだとは、考えません。別の言葉で言えば、聖書を自分の生活の基準として歩んでいる人は、相手にこのように仕えたから、お金をもらう権利があるとか、自分がお金を支払ったから、このように仕えてもらう権利がある。そんなふうに思ってはいないのです。
聖書を自分の生活の基準として歩んでいる人は、相手が今まで、自分が培ってきた大切な能力や、大切な時間を割いて、自分に仕えてくれていることに感謝して、精一杯、自分の大切なお金を分け与えていること、分け与えられていることを知っているのです。
つまり、聖書を自分の生活の基準として歩んでいる人は、自己犠牲に自己犠牲でもって応えたい。そう思って生きているのです。
だから、教会が牧師に与えるのは謝儀なのです。給料では無いのです。謝儀とは、感謝の気持ちを示すための贈り物です。その一方で、給料とは、労働の対価として支払われる報酬のことです。
ブドウ園の主人は、実際の働きの対価として、お金を支払ったのではありません。自分がお金を支払うから、こういうふうにしてもらう権利が自分にある。そう思ってはいなかったのです。そうではなくて、相手が精一杯、自分の能力や、自分の時間を、自分に分け与えてくれようと思っていたかどうか。そのことを労働者たちにみて、自分の大切なお金を、精一杯分け与えたのです。
でも、そんなブドウ園の主人に、不平を言ってきた人たちがいたのです。それが、朝からブドウ園の主人に雇われていた人たちです。10節~12節を見ますと、こう記されています。「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』」
ブドウ園の主人に不平を言った、朝からブドウ園で働いていた人たちは、実際の自分の働きの対価として、お金をもらう権利があると思っていたのです。これは、自分の権利の主張です。
それに対してブドウ園の主人が言ったことが、13節~15節に記されています。
そこを見ますとこう記されています。「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」
ブドウ園の主人は、自分の権利のことを思って、不平不満を言ってきた人たちに対して、「一デナリオンの約束をしたではないか」そう言ったのです。自分の権利を主張してきた人に対しては、彼らが主張してきた権利で裁いたのです。
今日のこの「ぶどう園の労働者のたとえ」というたとえ話は、神の国の雛型である教会のたとえ話です。
ブドウ園は、神の国の雛型である教会のことです。そして、そのブドウ園のために働く人とは、教会のメンバーになったキリスト者たちのことです。キリスト者たちは、みんな1デナイオンという、神と神を信じる人たちと、永遠に生きることが出来る命が与えられているのです。
教会の中には、昔から教会に集っているメンバーと、新しく、教会のメンバーに加わった人たちがいます。
そうすると、中にはこういう人たちが出てくるのです。一生懸命、昔から教会に仕えているのに、死ぬ間際に、教会のメンバーになって、神と神を信じる人たちと、永遠に生きることが出来る命が与えられるなんて、「神の国泥棒だ」そういう不平不満を言う人が、出てきたりするのです。
でも、いち早く、教会に仕えることが出来たことは、とても幸いなことなのです。昔、私の母にこういう不満を言ったことがありました。「僕は次男として生まれたかった。長男で生まれたことは、不幸でしか無かった。」その時に母に言われたのは、「あなたは幸いだ。お父さんとお母さんと、次男よりも長く一緒に時間を過ごせている。次男はそれがしたくても、それが出来ない。」母が天に召された時、しみじみその言葉を思い出していました。
そうなのです。神の国の雛型である教会に、一日でも長く使えることが出来ることはとても幸いなことなのです。一日でも長く神の国の雛型である教会に仕えたいと思っても、高齢になってからキリスト者になった人は、あまり神の国の雛型である教会に仕えることが出来ないのです。
とはいえ、長く神の国の雛型である教会に、仕えることが出来ている幸いが分からないのが、自己中心な人間なのです。
「自分が頑張って教会に仕えてきたことには、あまり意味がない。。。もっと高齢になってから、教会のメンバーになれば良かった。。。高齢になってから救われた人が羨ましい。。。死ぬ間際に、病床洗礼を受けた人が羨ましい。。。」そう思う人がたまにいるのです。
でも、そう思うならば、永い間、神の国の雛型である教会に仕えていたことが台無しです。
そんな自己中心の人よりも、今既に、人生の終わりに差し掛かっていようとも、純粋に、神を無視して生きていた自分の罪、自己中心に生きていた自分の罪の身代わりとして、主イエスが十字架に架かって死んで下さったことを信じて、主イエスのように、自分の大切なものを神や人に捧げて生きる人が、神に喜ばれるのです。
それが、16節の「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」という意味です。
でも、私たちは、いつも自分を中心に考えてしまうような愚か者です。ルビンの壺でいえば、いつも自己中心で、いつも壺しか見ることが出来ない愚か者なのです。でも、そんな罪深い私たちの罪の身代わりとして、主イエスが十字架に架かって死んで下さったのです。そして、そういうことをして下さった主イエスは、私たちの内に、聖霊を内住させるために、死から復活した後、昇天の御業をも成し遂げて下さったのです。
だから私たちは、自分の内に住んで下さっている聖霊に、いつも自分の身を委ねていけば良いのです。そうすれば、自己中心から解放されて、ルビンの壺でいえば、壺も人の顔も見えるようになるのです。
いつも私たちが、自己中心から解放されて、神中心に生きていくことが出来るようになるために、聖霊が私たち一人一人に、与えられているのです。
そのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと、心から願っています。
最後に一言、お祈りさせて頂きます。
