ヨハネによる福音書6章1節~15節
「本当に人間を満たすもの」
牧師 野々川 康弘
ヨハネによる福音書の1章14節を見ますと、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」そういう言葉が記されています。ヨハネが見た主イエスの栄光は、ヨハネによる福音書2章1節~11章45節まで記されている、主イエスがなさった7つの軌跡のことです。
1.2章1節~11節の水を葡萄酒に変えた奇跡
2.4章43節~54節の役人の息子を癒した奇跡
3.5章1節~18節の38年間、病気だった人を癒した奇跡
4.6章1節~15節の5千人に食べ物を与えた今日の箇所の軌跡
5.6章16節~21節のガリラヤ湖の湖の上を歩いた奇跡
6.9章1節~41節の生まれつきの盲人を癒した奇跡
7.11章1節~45節のラザロを生き返らせた奇跡
これら7つの軌跡が、ヨハネが見た主イエスの栄光です。
今日は、ヨハネが見た7つの軌跡の中一つ、5千人に食べ物を与えた奇跡、それを皆さんと共に学びたいと思います。
1節を見ますと、「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」そう記されています。今まで数々の軌跡をしてきた主イエスは、ティベリアス湖とも呼ばれていたガリラヤ湖の向こう岸に、船で渡りました。その時、2節に記されている通り、大勢の群衆が、主イエスを追って来たのです。
彼らが主イエスを追ってきた理由は、主イエスの人間離れした数々の軌跡を見たからです。そんな彼らを、主イエスはどのように見ていたのでしょうか。それを知る鍵が、ヨハネによる福音書2章23節~24節です。そこを見ますと、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」そう記されています。
主イエスは奇跡を見たから信じるという在り方を、否定的に見ていたのです。
何故でしょうか。それは、奇跡を見たから信じるという在り方は、自分に益が齎されそうだから信じるという信じ方だからです。そういう信じ方は、自分が神に仕えるという信じ方ではなくて、自分に神を仕えさすという信じ方です。それは、神を無視して生きていることと同じなのです。でも、神の救いは、神を無視する罪を赦し、神と人を永遠に愛して生きるようになるために、主イエスが十字架で死なれたことを信じて、神に仕えるようになることなのです。
そこで、私たちに問われることがあります。それは、私たちが神を無視する罪のために、主イエスが十字架に架けられて死なれたことを、ちゃんと信じることが出来ているかということです。
今日の5千人に食べ物を与えた話は、聖餐の食事と深く関わっています。その証拠が4節です。
そこを見ますと、「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。」そう記されています。このことから分かることは、ヨハネは、主イエスが五千人の人たちを、五つのパンと二匹の魚で満腹にした出来事を、過越の食事との関係で捉えているということです。
5千人に食べ物を与える奇跡は、マタイ、マルコ、ルカにも出てきます。でも、ヨハネによる福音書以外は、給仕をする際、主イエスが唱えた祈りが賛美の祈りになっています。でも、ヨハネによる福音書では、それが感謝の祈りになっています。実は「感謝の祈り」は、過越祭の食事の時になされていた祈りです。
少し過越祭とは何か。そのことを説明させて頂きます。
過越祭とは、エジプト人の奴隷状態だったイスラエルの民が、主なる神によって、エジプト人の奴隷状態から解放されたこと。エジプト人の奴隷から解放されたイスラエルの民が、主なる神の民となり、神が与えようとする約束の地に向かうことが出来るようになったこと。そのことを記念してなされている祭りのことです。
エジプト王ファラオは、なかなかイスラエルの民を解放しませんでした。そんなファラオがイスラエルの民を解放したのは、過越の出来事によるのです。
主なる神の使いが、ある夜、エジプト中の長男たちを打ち殺す恐るべき御業を行ないました。でも、主なる神は、小羊を屠って、その血を家の戸口に塗っておけば、その災いは、その家を通り過ぎるようにされたのです。そのことによってイスラエルの民を、奴隷として苦しめているエジプトに災いを下そうとしておられること。イスラエルの民を救おうとしておられること。そのことをはっきりエジプト王ファラオに示されたのです。その結果、イスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から解放されて、神の民として、主なる神が彼らに与えようとしておられた約束の地へ向かうことが出来たのです。その救いの出来事を記念して、過越祭が行われるようになったのです。その過越祭の中心にあるのは過越の食事なのです。過越の食事では、小羊の肉が食されると共に、パンと杯が分たれて、感謝の祈りがささげられるのです。
ヨハネはその過ぎ越しの食事と、今日の5千人に食べ物を与えた今日の話しを、重ね合わせて見ています。更に言えば、ヨハネはその過ぎ越しの食事と、最後の晩餐である聖餐をも、重ね合わせて見ています。
聖餐は、神を無視する私たちの罪のために、主イエスが十字架に架けられて死んだことを覚える食事のことです。ということは、主イエスの十字架の罪の赦しを知って、古き罪の自分に死んで、神との関係に生きる者として、神の言葉に浸って生きる者になったことを指し示す洗礼を受けなければ、聖餐に与ることは出来ないのです。
でも、主イエスを追いかけてきた群衆は、自分たちが生きやすくなる奇跡をしてくれることを信じて、つまりは、自分たちの利益になる何かを与えてくれることを信じて、主イエスを追いかけてきたのです。でも最初の方で申し上げました通り、そういう主イエスの名の信じ方は、主イエスは否定的に見ているのです。何故なら、そういう信じ方は、罪の赦しの十字架を信じることとは、全く無関係な信じ方だからです。
じゃあ、主イエスの12弟子たちはどうだったでしょうか。罪の赦しの十字架を信じることが出来ていたのでしょうか。そのことが記されているのが、6節~9節です。
そこを見ますと「フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』」そう記されています。
此処で考えなければならないことは、何で、フィリポを試すようなことを、主イエスはしたのかということです。実は6節の「どこでパンを買えばよいだろうか」という言葉。それを原文で見ますと、「どこからパンを買ってきて」そう訳すことが出来ます。つまり、主イエスがフィリポに試したのは、「この人たちの空腹を満たすパンを、どこから得たらよいのだろうか」そういうことだったのです。
主イエスがこの問いを、フィリポにしたことには、理由があるのです。今まで主イエスの12弟子たちは、何度も主イエスの軌跡の御業を見ていたのです。でも、それだけではありません。マルコによる福音書4章11節に、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」そう記されている通り、12弟子たちは、神の国を到来させるために、神を無視して生きている人間の罪の身がわりになり、主イエスが死ぬという秘密、そのことを既に、主イエスから打ち明けられていたのです。でも、その秘密を打ち明けられていても、何度も奇跡の御業を見せられていても、そのことを、12弟子たちがちゃんと理解していないことを知っておられたのです。だから、フィリポを試したのです。
でも、主イエス御自身は、「御自分では何をしようとしているか知っておられたのです。」今から自分の十字架の死によって、大勢の人たちに永遠の命のパンを分け与えることを指し示す、5千人に食べ物を与える御業、それを行うことを知っておられたのです。
それはそうと、主イエスがフィリポを試した結果、彼から返ってきた答えは「めいめが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」そういう答だったのです。
1デナリオンは、今でいえば、一日分の給料です。なので、200デナリオンとは、200日分の給料です。一年は365日あります。つまりフィリポは、今この時、自分たちの空腹が満たされるようになることばかりを思い巡らせて、「半年以上かけて稼いだお金を、パンを買うことにつぎ込んでも、その分だけのパンでは足りません。」そう主イエスに言ったのです。また、12弟子のアンデレも、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持ってい少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」そう主イエスに言ったのです。
人間的にみるならば、彼らが言っていることは正論です。何故なら、男性だけで5000人もいるのです。女性や子供も含めて考えれば、一万人以上はいるのです。そんなに多くの人たちを、満腹にさせようと思うならば、五つのパンと、二匹の魚では足りるわけがありません。
でも、12弟子たちは、今まで何度も、主イエスがなさった人智を超える奇跡の業を見ているのです。それだけではありません。主イエスは、彼らが神を無視する罪のために、十字架に架かって死なれ、復活することをも打ち明けられていたのです。そうであるにも関わらず、フィリポは、「めいめが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」そう言ったのです。そしてアンデレも、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持ってい少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」そう、主イエスに言ったのです。
もし、私が主イエスだったら、「もう面倒くさい!きみたちのような人は、弟子として必要ない!」そう言いたくなるところです。でも、主イエスは違うのです。「人々をそこに座らせなさい。」そう言って、広い草が生えている場所に、空腹な民衆を、12弟子たちに座らせるように命じたのです。そして、パンをとって、感謝の祈りを神にささげ、五つのパンと、二匹の魚を人々に分け与えさせたのです。そうしたところ、人々の空腹が満たされたのです。これは、最初の方で申しあげました通り、過越の食事、聖餐の食事を指し示しています。人々が満腹になった出来事は、主イエスの十字架の救いを受け入れて、神を無視する罪の奴隷状態から解放されて、洗礼を受けて、聖餐の食事に与る神の民となってのみ、人々が満たされるようになること。そのことを指し示しているのです。
それはそうと、主イエスは、人々が満腹になった後、少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を、12弟子たちに集めさせました。そのことが12節に記されています。
12節の「無駄になる」という言葉。これを原文で見ますと「滅びる」そう訳すことが可能な言葉です。
実は、12節の「無駄になる」という言葉は、ヨハネによる福音書3章16節でも使われています。ヨハネによる福音書3章16節を見ますと「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」そう記されています。此処でいう「滅びる」という言葉。それが12節の「無駄になる」という言葉と、原文では同じ言葉が使われています。つまり、12節の「少しでも無駄にならないように」という主イエスの言葉は、「一人も滅びないように」という、主なる神の御心を表しているのです。
だから聖餐式で残ったものを捨ててはならないのです。それは、聖餐の一対にある「一人も滅びないように」という、主なる神の心を鑑みてのことです。
それはそうと、パン屑を集めたら、12の籠がいっぱいになったことが13節に記されています。12という数字は完全数です。更に言うと、12という数字はイスラエルの12部族や、イスラエルの12部族にちなんだ12弟子を指し示しています。イスラエルの12部族は、神の国を現わしています。また、イスラエルの12部族にちなんだ12弟子は、神の国が全世界に広がっていくことを現わしています。
ということは、今日の5千人に食べ物を与えた話は、私たちが神を無視する罪の身代わりとして、主イエスの肉が裂かれ、血が流さたことを信じて受け入れる人たちが、12弟子たちを通して一杯になっていくことを指し示しているということです。
でも、そのことを主イエスの12弟子たちは、主イエスがいつも側にいたにも関わらず、分かっていなかったのです。でも主イエスは、12弟子たちが、良く分かっていなかったことを知っておられたのです。だからこそ、12弟子たちが、5千人に食べ物を与える本当の意味が分かることが出来るようになるために、最初にフィリポに、ガリラヤ湖周辺に、パンが買えるところが無いことを知っておられたにも関わらず、「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか。」、別の言葉で言えば、「この人たちの空腹を満たすパンを、どこから得たらよいのだろうか」そう聞いたのです。「御自分では、何をしようとしているか知っておられた」にも関わらずです。
でも主イエスは、わからずやの弟子たちを見捨てることなく、粘り強く、神の国の民となる奥義である御自分の十字架の救いを指し示し続けたのです。そうであるにも関わらず、結局12弟子たちは、自分たちが神を無視して、自分たちが潤うことばかり考えている罪の身代わりとして、主イエスが十字架に架けられて死なれたことが、今日の出来事を経験しても分からなかったのです。
その証拠に、主イエスが十字架に架けられて死なれた時、12弟子たちは絶望していました。
12弟子たちが、主イエスの十字架の意味が分かるようになったのは、死から復活された主イエスに出会ったこと、復活された主イエスが、天に昇られて、聖霊が彼らに与えられたことによるのです。
つまり、復活の主イエスと出会って、聖霊が彼らに降るまで、彼らは、主イエスの十字架の救いが正確には分からなかったのです。
ということは、主イエスの十字架の救いは、復活の主イエスと出会って、聖霊が与えられない限り、分からないということです。
そこで、私たちに問われることがあります。私たちは死から復活した主イエスに、ちゃんと出会えているでしょうか。更に言えば、主イエスの昇天の出来事を通して、聖霊が私たちに与えられていることを、ちゃんと知っているでしょうか。
復活の主イエスに出会って、聖霊が与えられていなければ、私たちは、神を無視して、自分が潤うことばかりを求めてしまう私たちの罪の身代わりとして、主イエスが十字架に架けられたことを知ることが出来ません。人間の力では、主イエスの十字架の意味を知ることが出来ないのです。
私たちは、主イエスの救いを信じて洗礼を受けて、聖霊が与えられて、神との関りに生ききているはずなのに、主イエスの言葉を聴いて生きていません。主イエスを追いかけてきた群衆のように、自分が潤うことを狙って、主イエスの救いを信じているなんてことが多々あります。
でも主イエスは、自分が潤うことを求めて、主イエスの救いを信じることを否定します。主イエスは、神との関係に生きる者になること、神と対話する者になること、神の言葉を聴いて歩む者になること、そのことを私たちに求めておられます。
私たちが本当に満足するのは、自分がこの世で生きやすくなることではありません。そうではなくて、この世でどのような辛いことがあろうとも、主イエスが御自分の命をささげてまで、私たちがこの世で生きやすくなることばかりを考える罪、神を愛し、隣人を愛していきなさいという神の御思いを無視する罪、それらの罪を赦して下さる主イエスの十字架の愛に包まれて、自分の命をささげて、神と隣人を愛することが出来るようになっていくことです。
キリスト者の幸福は、愛されることではなくて、命をささげて、神や人を愛することが出来るようになっていくことです。
でも、それがなかなか出来ない私たちです。だからこそ、主イエスは十字架・復活、昇天の御業をなし遂げて下さったのです。
そのことを、私たちの心に、今日深く刻み込みたいと思います。
最後に一言、お祈りさせて頂きます。