2025年8月3日 仙台青葉荘教会礼拝

使徒言行録9章1節-6節

「悔い改めるとは」

牧師 野々川康弘

今日の箇所は、サウロが回心したことが記されています。

サウロは、1節に記されている通り「主の弟子たち」を「脅迫して殺そう」そう思っていたのです。そんなサウロが、主イエスと出会い、主イエスの救いを信じる人になったのです。

彼は回心した後、パウロという名が与えられました。使徒言行録の後半は、ほとんどがパウロの伝道を書き記しています。また、新約聖書に収められている27書簡の内、13書簡はパウロが書いたものです。

彼は、主イエスの救いはユダヤ人だけではなく、主イエスの十字架の救いの御業を信じる信仰によって、すべての人が、それに与ることが出来ることを明確にしました。そんな彼は、異邦人たちの教会を世界の各地に築いていって、「異邦人の使徒」そんなふうに呼ばれていたのです。

 実は、私たちが使徒言行録を学んできた中で、後にパウロになるサウロのことが、既に登場していました。それが7章58節です。ステファノが石で撃ち殺された時、サウロはそこにいたのです。7章58節を見ますと、ステファノを石で撃ち殺した人たちが、「自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」ことが記されています。

サウロはこの時、ステファノに石を投げてはいません。しかし、ステファノを殺すことを支持して、ステファノを殺す人たちのために上着を預かっていたのです。

ステファノの殉教を機に、エルサレム教会に対する大迫害が起こりました。そのことが8章1節に記されていました。その8章1節の冒頭にも、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。」そう記されています。

つまりサウロは、「ステファノは許せない!殺されるべき!」そう思っていたのです。何故でしょうか。そのことを知る鍵が使徒言行録22章3節~4節です。そこを見ますとこう記されています。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。」

つまりサウロは、キリキヤ州のタルソスで生まれた外国出身のユダヤ人だったのです。以前にも申し上げました通り、ステファノも、ステファノを殺した人たちも、外国出身のユダヤ人たちでした。

以前私は、「ステファノの殉教と、その後のエルサレム教会の迫害の背後に、外国生まれの、ユダヤ人たちどうしの対立があった。」そう申し上げました。外国出身のユダヤ人たちの中には、ステファノと同じように、主イエスの救いの御業を信じ、教会に加わっている人たちもいたのです。でも逆に、ユダヤ的伝統に固執して、より熱心に律法を守り、ユダヤ人としての自覚と誇りを持って生きていた人たちもいたのです。

サウロの両親は、ユダヤ的伝統に固執して、より熱心に律法を守り、ユダヤ人としての自覚と誇りを持って生きていました。だからサウロはエルサレムで育てられて、ガマリエルという教師のもとで、律法の厳しい教育を受けていたのです。

ガマリエルのことは5章34節に記されています。そこには、「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエル」そう記されています。

サウロはそのガマリエルの下で、律法をしっかり学んだファリサイ派のエリートだったのです。

彼は律法をしっかり守るという意味で、熱心に神に仕えていたのです。神から与えられた律法をしっかり守り、神に仕えて生きていけば、ユダヤ人は神の民として歩むことができる。そういう確信を持っていたのです。彼の律法に対する熱心さの故に、ステファノを殺すことに賛成し、キリスト教会を迫害し、キリスト教を撲滅しようとしていたのです。

ステファノは、エルサレム神殿と律法を冒涜しているということで捕えられたのです。

以前にも申し上げました通り、ステファノは7章に記されている長い説教の中で、モーセを通して、イスラエルの民に律法が与えられる前のアブラハムからの歴史を語りました。それはイスラエルを神の民らしくしているものは、律法を守ることではなく、神の救いを信じる信仰であることを明らかにするためでした。

ステファノは7章の長い説教の中で、モーセがイスラエルの民に遺した大切なものは律法ではなくて、「神がわたしのような預言者をお立てになる時が来る。」そういう預言だと語ったのです。そして、「その預言者が、神が遣わされた主イエスである。その主イエスの救いを信じることが、モーセの遺志に従うことなになる。」そうステファノは語ったのです。

それはサウロにとって、到底受け入れられないことだったのです。その理由は、ユダヤ人が先祖代々民の誇りにしてきた律法が、軽んじられることになるからです。

律法を守るという意味で、熱心に神に仕えてきた彼にとって、ステファノが語ったことは、ユダヤ人を神の民でなくそうとする陰謀にしか見えなかったのです。だから彼は、教会の迫害に加わり、積極的に教会を迫害することをしていたのです。

その証拠に8章3節を見ますと、「サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」そう記されています。今日の9章1節の「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」という言葉は、8章3節の続きです。

そんなサウロの教会の迫害は、エルサレム教会だけではありませんでした。エルサレム教会の迫害を機に、外国生まれのユダヤ人キリスト者たちが外国に散っていって、8章のフィリポのように伝道をして、各地に教会が生まれていることを知ったサウロは、それらの教会を撲滅すべく迫害の手を伸ばしていったのです。

そんな彼の功績が認められて、大祭司からダマスコの諸会堂に宛てた手紙を託されたのです。それは2節に記されている通り、「この道に従う者、つまり、キリスト者を見つけ出したならば、男女を問わずに縛り上げて、エルサレムに連行する」のを許すものでした。大祭司から手紙をもらったパウロは、更に気合を入れて教会を撲滅するためにダマスコに向かったのです。そしてダマスコに近づいたそのとき、今日の箇所に記されていることが起こったのです。

ダマスコに近づいた時、サウロに起こった回心は、使徒言行録の中で三回出てきます。それは今日の箇所と、22章と、26章です。

皆さんが御存知の通り、3という数字は完全数です。つまり、ダマスコに近づいた時、サウロに起こった回心は、それ程、重要なのです。でも、サウロの回心の3つの話には違いがあります。

今日の箇所では、サウロと一緒いた人たちは、サウロに語りかける声は聞いたけれども、だれの姿も見えなかったということが記されています。そして22章は、サウロと一緒にいた人たちは、サウロを照らした光は見たけれども、サウロに語りかける声は聞いていないといったことが記されています。また26章は、サウロと、サウロに同行していた人たちは、サウロを照らす光を見たこと、サウルがヘブライ語で、主イエスの声を聞いたことを聞いたことが記されています。

そういう違いがありますが、3つのサウロの回心は共通していることもあります。それは、天からの強い光に照らされて、サウロが打ち倒され、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」そういう声を聞いたこと。サウロが「主よ、あなたはどなたですか」そう聴いた時、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」そういう答えが返ってきたこと。ダマスコの町に入った時、そこでなすべきことが示されるのを待てと言われたこと。起き上がった時、目が見えなくなっていたこと。それらのことが、3つのサウロの回心に共通していることです。

それらのことを経て、後にダマスコの町で、アナニアというキリスト者との出会いが与えられたのです。そのアナニアの手によって、サウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになったのです。

目が見えるようになったサウロは洗礼を受けて、教会を滅ぼすために来たはずのダマスコの町で伝道を始めたのです。

でも何故、サウロは回心をしたのでしょうか。そのことを知る鍵は、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」そういう声を聞いたことです。つまり、「わたし」という御方が、サウロの前に、サウロの道をさえぎるように立ちはだかったことを通して、天から強い光と共に語りかけてくる「わたし」という御方に自分が敵対していて、その御方を迫害していることを知らされたからです。だからサウロは、「主よ、あなたはどなたですか」そう問わずにはいられなかったのです。

自分の前に圧倒的な力を持った「わたし」として現れて、自分に語りかけてきたからこそ、「あなたはどなたですか」そう問わずにはいられなかったのです。そうしたところ、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」そういう答が返ってきたのです。ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレの人として育って、神の国の福音を宣べ伝えたことで捕えられ、十字架で殺され、3日後に復活し、聖霊を与えるために天に昇られた主イエスが、神としての栄光と力を持った「わたし」として、サウロに語りかけたのです。

その時、真に、主イエスとサウロの間に、「わたしとあなた」そういう関係が生まれたのです。「わたしとあなた」そういう関係の中で、サウロは自分が教会を迫害していたのは、主イエスであったことを示されたのです。

このことが指し示しているのは、いつも神に背を向けている罪深い私たちが、主イエスの招きによって、「わたしとあなた」そういう関係になった途端に、主イエスを迫害していたことを示されるようになるということです。

神とサウロの関係の変化が、神に対する自分の内実の変化を生み出すのです。サウロの回心の出来事は、そのことを指し示しています。

ということは、私たちが主イエスと、「わたしとあなた」という関係になったなら、自分の罪を反省してこれから正しい生き方をしよう。そんな呑気なことを言っていられなくなるということです。

何故なら、主イエスと、「わたしとあなた」という関係になった途端に、神に敵対していたこと、神を迫害していたことに気付かされてしまうからです。そのことに気付かされてしまったら、今この時も、死んだ後も、生きて行くことが出来ない大きな罪があることを知らされてしまうのです。そういう大きな罪を知らされたサウロが、なお生き続けることができたのは、「わたしとあなた」という関係を築いて下さった主イエスが、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」そう言われたからです。

サウロは、「わたしとあなた。」そういう関係を構築した神が、神に敵対し、神を迫害していた罪深い自分をなお生かし、なすべきことを与えて下さろうとしている神の憐れみと恵みを、知らされたのです。

なすべきことを与えて下さろうとしている神の憐れみと恵みによってのみ、サウロは起き上がって先へ進むことができたのです。

でも、彼の目は見えなくなっていました。それは、彼のこれからの新しい歩みは、自分の目でなすべきことを判断して、行なっていくものではなくなったからです。

これまでの彼は、自分の目で見たこと、自分で判断したこと、それを基準に人生を歩んでいました。だから、主イエスを迫害するという致命的な罪に陥ったのです。でも、主イエスとの出会いが与えられて、神と「わたしとあなた。」そういう関係に生きるように招き入れられた途端、主イエスを迫害していた自分が完全に否定されて打ち砕かれたのです。そのことがちゃんと分かるように、サウロの目は暗黒の世界に叩き落されたのです。古き彼の目は閉じられたのです。

彼の閉じられた目は、この後、主イエスによって開かれます。

主イエスが彼に、神と「わたしとあなた。」そういう関係に生きるようになった者として、新しい「なすべきこと」を指し示し、「なすべきこと」与えるのと共に、彼の目は再び開かれていくのです。

サウロは主イエスとの出会いによって、何も見えなくなりました。暗黒の世界に落とされたのです。そのことを経て、主イエスによって再び目を開かれたとき、古いサウロは死んで、新しい大伝道者パウロが生まれたのです。

ということは、神と「わたしとあなた。」そういう関係になったキリスト者は、死と再生を体験するということです。というよりも、死と再生を体験せざるを得なくなるのです。

もし私たちが、自分の目がよりよく見えるようになること。自分が信仰を貫き通せること。そうなることを求めているならば、サウロがファリサイ派のエリートとして、熱心に神に仕えていた姿と全く同じです。自分が自分の力で、神がよりよく見えるように、信仰を貫き通せるように、熱心に努力をしていっている中で、サウロは、主イエスや、主イエスの体なる教会を、迫害するようになっていったのです。

本当の信仰は、そうなってしまう愚かな私たちに、「なぜわたしを迫害するのか。」そう言って、私たちの前に立ちはだかる主イエスと出会って、自分に絶望して、自分が殺されることです。

主イエスによって、自分が思い描いていること、自分がこうだと確信していること、それらの思いが完膚なきまでに打ち砕かれることが大切なのです。

主イエスとの出会は私たちを、自分の目では何も見えない者、自分の力ではもはや生きることができない者とするのです。主イエスとの出会いによって、私たちは殺されるのです。

私たちが殺されてこそ、主イエスが新しく私たちを生かして下さるのです。私たちが殺されてこそ、主イエスがなすべきことを指し示して下さり、私たちが本当に見るべきものを見ることが出来るようにして下さるのです。

本当に見るべきものとは、主イエスの十字架・復活・昇天の御業によって与えて下さった神の救いです。

自分に絶望して、自分に死んで、神の救いを見つめる目が与えられた時、私たちは、自分が、自分の確信に重きを置いていた愚かさ、自分が正しいと思うことに重きを置いていた愚かさ、自分の熱心さに依り頼んでいた愚かさを、知らされるようになるのです。そして、そのことを知らされてこそ、自分の基準で人を迫害して、人を裁いていく生き方から解放されるのです。

信仰は、自分の確信、自分の正しさ、自分の熱心さの前に立ちはだかって、「なぜわたしを迫害するのか」そう問われる主イエスと、出会うことで生まれるのです。

でも誤解しないで下さい。主イエスは私たちの罪を責めて、私たちを滅ぼそうとして、そうしておられるのではないのです。そうではなくて、神と敵対している罪深い私たちとの間に、「わたしとあなた。」そういう関係、そういう交わりを、築こうとしておられるのです。

主イエスは、私たちが、「わたしとあなた」という交わりに生きるキリスト者になるために、私たちが、自分の力で生きていく歩みを打ち砕くのです。そこに絶望を与えるのです。私たちが、自分の力で生きていく歩みに絶望してこそ、主イエスの救いの恵みに立って歩んでいく新しい人、つまりキリスト者になれるのです。それこそが、私たちに与えられる回心、つまり、悔い改めなのです。

そういう悔い改めが起こらなければキリスト者にはなれません。

確かに主イエスとの出会い方は人それぞれです。キリスト者になる前の生活から、大きな変化を体験する人もいれば、そうでない人もいます。でも、キリスト者になる前の生活から、大きな変化を体験していようが、していまいが、私たちの前に立ちはだかる主イエスとの出会いによってこそ、自分の確信、自分の正しさ、自分の熱心さが打ち砕かれて、自分に絶望して、主イエスによって新たに生かされていく回心が起こるのです。

つまりキリスト者とは、サウロの回心と、全く同じ回心が起こっている人のことなのです。そしてその回心は、キリスト者が天に召されるその時まで、何回も起こるのです。

そういう人が、神の招きによって、神と「わたしとあなた。」そういう関係になったキリスト者なのです。

 そのことを心に刻み込んで、皆さんと共に歩んでいければと心から願っています。 最後に一言お祈りをさせて頂きます