2025年6月29日青葉荘教会CS合同礼拝

コリントの信徒への手紙二 12章7-10節

「弱いときにこそ強い」

牧師 野々川 藍

今日共に読んだ箇所の終りには「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」とあります。これを語っているのは使徒パウロです。初期のキリスト教会ですごく活躍した教会の先生です。イエス様を伝えるためにものすごい距離を旅して回った人です。紀元1世紀、キリスト教がローマ帝国の全域に広がる土台を築いたのはこのパウロと言って間違いありません。そういう偉大な使徒パウロですが、彼は、ある「弱さ」をかかえていました。今日の7節の後半で彼はこのように言っています。「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」。自分の肉体に一つのとげが与えられている、そのとげが自分を痛めつけている、と言うのです。そのとげとはおそらく彼が抱えていた何かの病気のことだろうと考えられています。パウロがある病気をかかえていたことは、聖書にある彼が書いた他の手紙にも出てきます。その箇所を読むと、彼は病気のために肉体的な苦しみを感じていただけでなく、人からばかされることもあったと言います。使徒という聖書を教える立場にあったのに、人から信頼されなくて、まともに話を聞いてもらえなかったり、ということを体験したのです。今日の箇所の少し前のところには、パウロ自身が、自分のことを、手紙の印象は力強いのだけど、実際会ってみると弱々しくて話も下手くそだと言う人がいる、と言っている所があります。どうも実際の使徒パウロという人物は、自信と活力をもってバリバリと働きをこなし、雄弁に語るというよりも、弱々しい印象だったようです。パウロは若い頃はユダヤ教のエリートの律法の専門家だったのですがその頃とは大分変ったようです。

さて、パウロ自身はそのことでとっても苦しんでいました。8節には「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」とあります。自分を痛めつけているもの、弱さ、苦しみから解放して下さるように、彼は主イエス・キリストに祈り願ったのです。聖書では三回が特別な数、完全さを表しますからそれこそ必死に何度も何度も熱心に祈り願ったということ表しています。自分がかかえている弱さから抜け出してしっかりとした強い人になりたい、人々に馬鹿にされない人になりたい、使徒として信頼されてちゃんとした働きをするためにそれが必要なんです、とパウロは切実に思い、神に祈り願ったのです。

現代でも似たような願いを私たちは持つのではないでしょうか。病気を患っていたり、年を重ねて弱さを覚えることがあります。生まれた時から、また人生の地上でハンディキャップを持つ人もいます。肉体においてだけでなく、心に病いや傷をかかえて苦しむこともあります。

しかし、また考えてみると、私たちが特に自分に弱さを感じるのは、他の人ができることを自分はできない、という時ではないでしょうか。あの人はあれができるのに、自分にはできないということを自覚した時、自分の弱さを強く感じます。つまり私たちは自分の弱さを、私たちが自分と人とを比較した時に意識するのです。それは周りの人がそのようなことを言われて意識させられるということもあるかもしれません。だからこそ、周りの人はこの人はすごいから悩みなんて感じることは無いだろうなんて思ってしまっても、本人は自分に弱さを感じて苦しんでいる、自分はだめだと思っているなんてことが結構あります。それは人と比べて、そうなるのかもしれません。世の中、上を見ればきりがありません。自分よりも色々できる人、力のある人はいくらでもいるからです。

さて、パウロがここで語っている弱さ、苦しみはまさに「とげ」であって、自分を刺し貫き、ずきずきとした痛みを与えるのです。このとげを早く取り除いてほしい、この弱さ、苦しみから抜け出したいという願いは切実なものです。パウロもそのような苦しみの中で切実に熱心に、自分の弱さからの解放を祈り求めていたのです。しかし今日の箇所の最後のところでパウロは、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言っています。自分は弱さをかかえて、それによって苦しみ悲しみを味わっている。でもその中でも満足している、なぜならわたしは弱いときにこそ強いからだ、と言うのです。何だか矛盾するような不思議な言葉です。弱いときにこそ強い、とはどんな意味なのでしょうか。

それを紐解くためにプロセスに注目してみます。彼がこのような思いになったのは、切実な祈りに対する主イエスの答えを聞いたことによってでした。主はこうお答えになったのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。弱さを取り除いてください、という彼の願いは聞き入れられませんでしたが、その代りに答えが与えられたのです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」この主のみ言葉が、「わたしは弱いときにこそ強い」とパウロが語ったことの根拠です。この言葉の意味を勘違いしないようにしたいのですが、これはこう自分に言い聞かせて弱いと感じる時にこそ人間はむしろ自分の持っている力を十分に発揮できる、ということではないのです。やせ我慢ではありません。弱さの中でこそ十分に発揮される力とは、人間の力、私たちの力ではないのです。それは神の力、イエス様の力のことを言うのです。私たちが自分の弱さを感じるとき、自分にはあれもできない、これもできない、と感じて苦しみや悲しみに暮れる時、また人と自分を比較したり、比較されて、あの人には出来ることが自分にはできない、自分はなんてダメなんだ、と絶望を覚えるとき、そこにおいてこそ、神の力は働いている。イエス様が成してくださった恵みのみ業が際立つというのです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」というのはそういう意味です。だからそれに続いてパウロはこう言っているのです。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。

私たちは、自分が強い者になりたいと願う間は、自分の力によって歩もうとしています。自分でできるようになりたいと願い、それが救いだと思い、求めるのです。しかし実はそこには神の力、イエス様の力が充分発揮される余地、スペースがありません。自分というのが全面に立って、人の力が発揮されることを求めているからです。

神の力が働くためには、自分の力によってしっかり歩まなきゃという固定概念から自由にならなければなりません。むしろ逆に自分の力ではどうにもならない、自分には力がない、弱いということをそのまま受け留め、良しとするのです。そして、神さまどうぞ今日もわたしのうちにあなたが力を発揮してください、救い主イエス様がみ業を行ってください、と祈るのです。それが、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇」る、ということなのです。そこに、神の力、キリストの力が十分に現れるのです。そしてキリストの力が豊かに現れるところには、弱さの現実のただ中でも、確かに「わたしの恵みはあなたに十分である」ということも現れてくるのです。パウロが、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています」と言っているのはそういうことなのです。

パウロがここで語る体験を印象深く描いている詩があります。私の20代の時の大学ゼミの恩師、クリスチャン精神科医の平山正実先生のクリニックの待合室に額に入れて飾られていましたが、「『病者の祈り』」という詩です。この詩は、ニューヨーク州立大学のリハビリテーション研究所の壁に掲げられているものだそうです。でも原文の題は「The Answer to All My Prayers」、訳せば「私の全ての祈りへの神の答え」です。祈りの詩と言うよりも、神が祈りに答えて下さったという体験を語る詩です。この詩を紹介したいと思います。 

「何事かを成し遂げようとして強い者となることを神に願い求めたが、謙遜に従うことを学ぶようにと弱い者にされた。

より偉大なことができるようにと健康を願い求めたが、より良いことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになるために富を願い求めたが、本当の意味で賢くなるためにと貧しさが与えられた。

人の賞賛を得たくて力(権力)を願い求めたが、自分が神をこそ必要としていることを感じることができるようにと弱さを与えられた。

人生を喜び楽しむためにあらゆるものを得たいと願い求めたが、人生そのものが、あらゆるものを喜び楽しむために与えられていたのだ。

願い求めていたものは何一つ得られなかったが、しかし私は望んでいたものをすべて得た。

私自身の思いにはほとんど反していたが、私の心の中に隠されていた言葉にならない祈りは答えられた。

私はすべての人々の中で最も豊かに祝福されている。」

何かを得て喜びを得ようする間は、いつまでも不平不満から抜け出すことはできません。「自分が得る」ことから、「神によって与えられてるもの」へ目を向けることによって、人は喜んで生きることができるようになるのです。

より良い人生とは、神の恵みをより豊かに味わい知り、喜びに生きる人生、しかもその喜びを他の人に分け与えていけるような人生です。喜んで生きることができるようになりたいという彼の願いは、求めていたのとは全く違う、正反対の仕方だったけれども、しっかりと聞き届けられ、叶えられたのです。だから私は誰よりも神に祝福されている、幸いな者だ、と彼はこの詩を締めくくっています。 パウロも、弱さ、苦しみの中での祈りへの答えとして、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というみ言葉を聞いたのです。そのことによって、「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」という信仰の告白を与えられたのです。

聖書は、私たちを救うために十字架にかかって死んで下さったイエス様が、復活して生きておられる方としていつも共にいて下さることを私たちに告げています。このイエス様が、私たちの祈りに答えて「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と今朝も語りかけておられます。私たちも喜びと感謝をもって、「わたしは弱いときにこそ強い」という日々を歩みたいと思います。

最後に一言お祈りいたします。