2025年6月8日仙台青葉荘教会礼拝

使徒言行録1章8節

「聖霊の御業」

牧師 野々川康弘

 ペンテコステとは、ギリシャ語で「50」という意味です。主イエスが復活された日も含めて、50日目に、主イエスに代わる助け主なる聖霊が、地上に降られたことを覚える日。それがペンテコステです。

ペンテコステは、使徒言行録2章1節に記されている通り、「五旬祭」に起こりました。「五旬祭」とは、過ぎ越しの祭りの7週間後から、つまり過ぎ越しの祭りの49日後から、3日間行われる「七週の祭り」のことです。「七週の祭り」は、ユダヤ教の三大祭りの一つで、イスラエルの民が、出エジプトをしてから49日目に、シナイ山で、モーセに律法が与えられたことを覚える祭りのことです。その日に、聖霊が降るというペンテコステの出来事が起こったのです。

それが意味しているのは、聖霊が降ったことによって、モーセの十戒が完成したということです。

真に、マタイによる福音書5章17節に、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」そう記されている通りです。

でも、主イエスが昇天して、聖霊を降らせたのは、そういう理由だけではありません。では、他にはどんな理由があるのでしょうか。

そのことを紐解く鍵が、ヨハネによる福音書3章5節です。そこを見ますと、「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」そう記されています。

これは、水のバプテスマと、聖霊のバプテスマという解釈もありますが、洗礼を受けたその時に、聖霊の内住が与えられて、新しい命を生き始めるようになるということです。

でも何で、洗礼を受けたしばらく後に、聖霊のバプテスマを受けて、聖霊が内住するようになるのではなくて、「洗礼を受けたその時に、聖霊の内住が与えられるようになる。」そう言えるのでしょうか。それを知るためには、マタイによる福音書3章16節に記されていることを、知る必要があります。そこを見ますと、主イエスがバプテスマのヨハネから、罪の悔い改めの洗礼を受けた時に、神の霊が、鳩のように主イエスの上に降ったことが記されています。この出来事は、主イエスの預言です。「私たちが、神を無視する罪を認めて、主イエスの十字架の罪の贖いを信じて洗礼を受けるなら、聖霊が与えられる聖霊時代、別の言い方で言えば、教会時代が来る。」そういう主イエスの預言です。また、使徒言行録2章38節~39節を見ますと「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」そう記されています。これは、「洗礼を受けたら、いつか賜物として聖霊を受けるということではありません。そうではなくて、洗礼を受けると同時に、賜物として聖霊が与えられる」そういう意味なのです。

そうであれば、疑問になることがあります。それは、「洗礼によって、私たちの内に聖霊が内住するならば、何で、主イエスがまだ生きていた時代の弟子たちは、既に洗礼(ユダヤ教の罪の赦しの洗礼)を受けていたにも関わらず、聖霊が降るペンテコステの出来事が、起こる必要があったのか。」ということです。

その理由は一つです。かつて、主イエスは、ヨハネによる福音書16章7節に記されている通り「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」そう言っていました。

主イエスが、生きておられた当時は、主イエスの救いを信じた人たちの内実を、主イエスが整えておられました。でも、それでは限界があったのです。主イエスは、人間の体を持っておられたが故に、沢山の人たちと、関わることに限界があったのです。

だから、主イエスが生きておられた時は、イスラエル地方だけでしか、福音を宣べ伝えていなかったのです。とても世界宣教なんか、出来る状態ではなかったのです。でも、聖霊時代に入った時、別の言い方で言えば、教会時代に入った時、世界宣教が可能になったのです。それは、人間の体を持っておられた主イエスとは違って、聖霊は、神を無視する罪を悔い改めて、洗礼を受けた全ての人たちの中に内住することが可能だからです。

つまり、ペンテコステの出来事は、主イエスの時代から、聖霊時代に切り替わったこと、つまり、教会時代に切り替わったことを意味しているのです。

主イエスが生きていた時は、主イエスの救いを信じた人たちの内に、聖霊は内住していなかったのです。

だから、主イエスの時代から、聖霊時代に切り替わる時に、主イエスの救いを信じている人たちの内に、聖霊が内住する必要があったのです。

ということは、ペンテコステの出来事は、主イエスの時代から、聖霊時代に切り替わる時に起きた、一回きりの出来事だったことになります。

最初の方で申し上げました通り、主イエスが昇天して以降、私たちの内に内住するようになった聖霊は、モーセの十戒の完成者です。そういう御方が、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を信じて、洗礼を受けた時に内住して、神を愛し、隣人を愛する聖霊の実をならしめることが出来るようにして下さるのです。

つまり、私たちが広い意味での救いに与ることが出来るようになることが、聖霊の働きなのです。もし、広い意味での救いが分からないのであれば、先週のメッセージを聴いて頂ければと思います。

それはともかく、聖霊の働きは、イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を信じた人が、神を愛し、隣人を愛するという聖霊の実を、実らせていくようにすることなのです。

日本基督教団信仰告白を見ますと、「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」そういう文言があります。

「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。」

この文言は、主イエスの救いを信じる信仰によって、私たちの罪が赦されて神の子になれるという意味です。でも、神の子となったら、それで終わりではありません。私たちが神の子となったら、私たちの救いが完成したということではないのです。実は、その後が大切なのです。日本基督教団信仰告白に記されている「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。」その文言の後に、これが加えられなければ、ホーリネスの群れが、日本基督教団に入らなかったと言われている文言が入っています。それが、「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」という文言です。

つまり、主イエスの義が転嫁される信仰義認を得て、信仰義認を得たキリスト者の魂に、聖霊の働きによって神の義が分与されて、神を愛し、隣人を愛するという神の義の実を、結んでいくようになっていってこそ、広い意味での神の救いが完成するのです。

でも誤解しないで下さい。私たちが自分の力で、義の果を結ぼうとして必死に頑張ることで、神の救いが完成するということではありません。そうではなくて、私たちの内に内住している聖霊が、義の果を結ぶように私たちに働いて下さって、広い意味での神の救いが完成するのです。

はっきり言います。罪人である私たちは、自ら神を求めることは出来ません。何故なら、神を無視していることに気付けない程、神を無視して歩んでいるような罪人だからです。そんな私たちだからこそ、神を愛し、隣人を愛することからかけ離れてしまう道徳的罪を犯してしまうのです。でも、残念ながら、罪深い私たちは、そのことにも気付けません。罪深い私たちは、「自分の人生は他の誰のものでもない。自分の人生は自分のものである。」そう思っているからです。だから、教会の中で、あるいはこの世の人間関係の中で、何か嫌なことが自分に起きたとしたら、教会や、この世の人間関係から遠ざかっていけば良い。関係を断っていけば良い。そういう結論になるのです。

でも、神を愛し、隣人を愛しなさいという、神の言葉を無視することは、神を無視している罪なのです。また隣人を愛さないことは、神の聖書の道徳に背く罪です。

確かに教会の中や、この世の人間関係の中で、自分にとって嫌なことが起こったとしたら、一時、距離を置くのは、罪深い私たちにとっては、神との関係、隣人との関係を断絶しないための大切な知恵です。でもそれは、一時の話しです。永遠に距離を置くことは罪です。

神を神と思っていない人は、教会の中で、あるいはこの世の人間関係の中で、嫌なことが自分に起きたとしたら、自分に嫌なことをした教会や、この世の人たちから、永遠に遠ざかることを選択するのです。関係の断絶を選択するのです。

「自分で自分の人生を歩んでいる人」は、あくまで自分が大切なのです。「自分で自分の人生を歩んでいる人」は、自我を神に明け渡すことが出来ないのです。そういう人は、神との関係の死。隣人との関係の死。それを選びとることが大好きなのです。罪深いこの世では、罪をずばっと指摘されると、心が傷つき、自分で自分を必死に支えるために、そういう人との関係を断絶して、自分にとってプラスになる言葉掛けをしてくれる人たちとの関りばかりを求めて歩むのです。自分で自分を守っている人は、自分にプラスになる言葉で自分を武装して、自我を強化して、日々頑張って生きているのです。そこに十字架の軛を負う姿はありません。主イエスのように、自分を無条件で分け与える姿が無いのです。それが、「自分で自分の人生を歩んでいる」人たちの現実です。「自分で自分の人生を歩んでいる」人たちは、自分の心がえぐられるような傷こそが、主イエスの十字架の救いを知る、豊かな財源であることを知らないのです。だからこそ、自分で自分を支えるために、自分の悪いところから目を逸らして、自我の強化を目指すのです。優しい太陽のような言葉ばかりを求めて、自我を必死に守るのです。

自分で自分を守っているところに、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの恵みが入る余地はありません。例えるなら、コップが自分の自我という水で一杯な状態なのです。そこに、神という水が入る余地は無いのです。

罪人である私たちは、自分の内が、自我で一杯になってしまっているのです。そんな私たちだからこそ、自分では、神に救いを求めることも、救いに必要な神の御心についての知識も、御心を行う力も、全く求めないのです。

だから聖霊が、聖書の御言葉を通して、主イエスの救いを、そんな私たちの心の中に、証ししてくださる必要があるのです。

聖霊の力によって、私たちの内にある自我という水を、神の救いという水に、超奇跡の御業で、変化を起こして頂く必要があるのです。

聖霊が働かなければ、私たちは、神の言葉である聖書を正しく理解出来ません。神の言葉である聖書を正しく理解出来ないなら、主イエスの救いの御業を信じることが出来ないのです。そして、主イエスの救いの御業を信じることが出来ないなら、私たちに救いが与えられるなんてことは起きません。

私たちは、主イエスの十字架の罪の贖いを信じて、洗礼を受けた時点で、主イエスの義が転嫁されて、神から義と認められるようになるのです。私たちは、神に義と認められたその時から、神と関わる存在になるのです。そして、私たちが神と関わる存在になった時点から、聖霊時代の今は、聖霊が私たちの内に内住して、聖霊の力によって、神の義が私たちの魂に分与されて、神の本質を生きることが出来るようになっているのです。

つまり、聖霊の働きは、神の子となった私たちを、神の本質である神の聖さに、生きることが出来るようにすることなのです。そういう聖霊の働きを、転機的聖化と言います。転機的聖化は、私たちがこの世での人生を終えるまで、何度でも起こります。

つまり、主イエスが昇天して、聖霊を降らせたのは、主イエスの十字架の罪の贖いを信じた全ての人たちを、限られた場所にしか存在出来ない主イエスの力では無くて、どこにでも存在出来る(偏在する)聖霊の力によって、全世界のキリスト者が、神の子という内実が伴った、広い意味での救いに導くためだったのです。

ということは、ペンテコステという出来義は、未来永劫、神が私たちと共にいてくださるようになることを、実現して下さった出来事であるということになります。そういう意味で、アブラハム・カイパーという神学者は、「ペンテコステこそ十分な意味でのインマヌエルである。」そう言っているのです。

ペンテコステという出来事を通して、主イエスではなくて、聖霊が私たちを導く時代が到来したが故に、いつでもどこでも、聖霊の力によって、神の本質である、神の聖さが私たちの魂に吹き込まれて、純粋に神を愛し、隣人を愛する生き方が出来るようになったのです。ペンテコステで、神の律法、つまり、神を愛し、隣人を愛するという神の戒めが、私たちの内に成就したのです。

それが、8節の「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」という意味です。そして、聖霊の力によって、神を愛し、隣人を愛するという神の戒めが、成就している私たちだからこそ、主イエスは「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」そう8節で言われたのです。これは、キリスト者である私たちが、神を愛し、隣人を愛することで、人々が神の栄光を私たちの内に見て、丁度、石を池に投げいれた時に、波紋が広がっていくが如く、私たちの身近な存在の人たちから徐々に、遠い存在の人たちに至るまで、自分の自己中心の罪を悔い改めて、主イエスの救いの御業を受け入れる人が、次々に起こされていくようになるということです。

それが聖霊時代に突入している教会時代の今、起こっていることなのです。

全ての人が、聖霊の力によって、神を愛し、隣人を愛することが出来るようになっている今の時代を齎すために、主イエスが昇天されて、聖霊をこの世に降らせて下さったのです。そのことを心から感謝したいと思います。

とはいっても、なかなか神を愛し、隣人を愛せない私たちです。だからこそ、主イエスの十字架の御業を見上げるのと共に、今の教会時代は、聖霊時代であること。聖霊が私たちの内に内住している時代であること。そのことをいつも思い起して、聖霊の息吹をいつも吹き込まれて、皆さんと共に、神の愛で神を愛し、神の愛で隣人を愛して、歩んでいければと心から願っています。

最後に一言お祈りさせて頂きます。