2025年6月1日仙台青葉荘教会礼拝 四重の福音強調月間

ルカ15章1-7節

「新たに生まれる」

牧師 野々川康弘

 ホーリネスの群は、毎年6月に、四重の福音を学ぶ時を持っています。四重の福音とは、福音が4つあるということではありません。そうではなくて、福音に与った人は、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」という4つの変化が生じるということなのです。今日は「新生」を皆さんと共に学びたいと思います。

中田重治は、救いを人々に分かりやすく説くために、福音に与った人は、新生(新化)、聖化(聖化)、神癒(健化)、再臨(栄化)という4つの変化が生じることを強調して、伝道しました。

狭い意味においての救いは、ロ―マの信徒への手紙3章28に、「人が義とされるのは、律法の行いによるものではなく、信仰による」そう記されていますように、主イエスの十字架の贖いを信じるだけで救われるという信仰義認です。しかし、四重の福音は、狭い意味の救いではなく、広い意味の救いなのです。つまり、救いの入り口から出口までを言い表しているのが四重の福音です。

救いの入り口は、先程のローマの信徒への手紙3章28節に記されている通り、主イエスの十字架の贖いを信じるだけで救われるという信仰義認です。でも、救いの出口は、ヤコブの手紙2章24節に、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」そう記されている通り、人間の応答が伴っている信仰です。ホーリネスの群れは、救いの入り口から出口まで通っていかなければ、天の御国に入ることは出来ない。そう信じる信仰にたっています。

今日、取り上げる「新生」の経験は、3つの側面があります。

1つ目は義認です。

「義認」とは、私たちが神を無視する罪や、神を無視する罪から派生する聖書の教えを守らない罪を取り除いて下さる神が、「義と認めてくださる」ことです。主イエスが、私たちが神を無視する罪を背負うために、十字架に架かって死んで下さったことを信じるなら、神を無視することなく、神の言葉に従い通した主イエスの義が、私たちに転嫁されて、神の目に、正しい者とみなされるということです。このことは、ローマ信徒への手紙3章21節~26節が土台となっています。義の転嫁という意味は、後で詳しく説明します。

2つ目は、「新生」です。

「新生」とは、私たちが神を無視するが故に、聖書を守らない罪を犯し続ける私たちの魂に、神の霊が吹き込まれて、神の義が、私たちの魂に分与されることです。つまり、主イエスの救いを信じて洗礼を受けたその時から、聖霊が私たちに与えられて、聖霊の働きによって、神の思いが私たちの魂に分け与えられるようになること。それが神の義の分与なのです。このことは、ヨハネによる福音書3章5節~7節が土台となっています。

因みに神の義の分与は、ホーリネス教会の特徴です。改革派教会や、ルター派の教会では、神の義の分与のことは言及していません。

3つ目は「神の子とされる」ことです。

 「神の子とされる」とは、主イエスの義の転嫁と、聖霊の働きによる神の義の分与によって、神の家族となった私たちに、神の子としての特権が与えられたことです。これは、ガラテヤの信徒への手紙3章26節が土台となっています。

今日、皆さんと共に学ぶ「見失った羊」のたとえは、ルカによる福音書15章に属しています。ルカによる福音書15章には、「見失った羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」の三つのたとえが出てきます。実は、これら全ての話に共通しているのが「失われたもの」「回復」「喜び」という主題です。その中でも、特に今日は、1節~7節の「見失った羊」を皆さんと共に学びたいと思います。

昔から、羊飼いと羊の関係は、神とイスラエルの民との関係として、たとえられてきました。詩編23篇で「主はわたしの羊飼いであって、私には乏しいことはない。」そう謳われている通りです。また、新約聖書では、主イエスが良い牧者として描かれています。ヨハネによる福音書10章10節~11節では、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」そう記されています。

 当時のイスラエル地方の羊飼いの生活について、このように書いている人がいます。

「羊飼いは、オオカミやハイエナの遠吠えがする荒野に立っている。彼はまどろむことなく、眠ることなく、眼光鋭く、雨風にさらされながらも杖にもたれて、野原に点在する羊の群れに目を注いでいる。そして、彼はその一匹一匹の顔と名前を覚えている。羊の群れは、当時は羊飼い個人のものではなく、村全体の財産であった。二、三人の羊飼いがその群れを管理し養う仕事を任されていた。羊飼いたちは、時間通りに荒れ野から羊の群れを村に連れ帰ることもあれば、時には、まだ一人の羊飼いが迷子の羊を探して山にいるというニュースをもってくることもあった。そうすると、村人全員が迷った羊を抱えた羊飼いが、荒れ野の向こうから帰ってくるのを待つことがあった。薄暗くなりかけた荒れ野の向こうから、迷子になった羊を肩にした羊飼いが帰ってくるのを認めると、村中から喜びの大歓声がわき起こった。」

今日の「見失った羊」のたとえは、おそらく、そういったイスラエルの生活風景を思い出しながら、誰でも知っていることとして、主イエスが話されたことです。主イエスは、イスラエルの民の生活の一場面を通して、神がどんな思いでイスラエルの民を愛して、気にかけておられるのか。そのことを示したのです。

4節~7節を見ますとこう記されています。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

見失った一匹の羊は、もともと100匹の羊の群れの中にいたのです。「見失った」という言葉。それを原文で見てみますと、「滅びる」そう訳すことの出来る言葉です。

ということは、「見失った」羊とは、「滅びる」羊のことなのです。でも何で、「見失った」羊は、「滅びる」羊なのでしょうか。その理由は、もともと本人がいた群れから外れて、命を落とす危険な状態にあるからです。そう考えるなら、「救われる」とは、本来、自分がいた群れに、自分が戻ることであることが分かります。本来自分がいた群れに戻ること。それが救われることであるとすれば、羊飼い(神)との関係だけでなく、羊たち(教会の兄弟姉妹)との関係も回復しないなら、救われたことにはならないということです。

それはそうと、羊飼いである主イエスは、たとえ九十九匹を野原に残しておいたとしても、滅びる羊を探し求める御方なのです。滅びる羊を、広い意味の救いという観点から考えるなら、主イエスの十字架を信じない者に限定されません。主イエスの十字架を信じているつもりの者も、そこに含まれ得るのです。

何故そう言えるのでしょうか。それは、「見失った羊」のたとえに出て来る全ての「羊」は、神に選ばれたイスラエルの民のことだからです。

それはそうと、主イエスは、滅びる一匹の羊をとことん追って行くぐらい、罪人である私たち一人一人を愛して下さっているのです。その主イエスの究極の愛の現れが、主イエスの十字架の罪の贖いです。十字架の罪の贖いとは、私たちが、主イエスを無視する罪の代価を、私たちの代わりに全部支払うために、十字架に架かって死んで下さったことです。

例えるならこういうことです。皆さんに一卵性双生児の双子の兄弟がいるとします。皆さんの双子の兄弟は、何の罪も犯していません。でも皆さんは、死刑が確定している犯罪者だとします。もし、何の罪も犯していない双子の兄弟が、皆さんの代わりに死刑になって死んでしまったら、罪の代価の死は、既に支払われているが故に、犯罪者であるはずの皆さんの罪は無罪と見なされるのです。

つまり、罪を犯さなかった兄弟から、罪を犯した皆さんに、無罪が転嫁されるが故に、死刑になることを逃れることが出来るのです。

それと同じように、主イエスの十字架の罪の贖いは、神を無視する罪がないが故に、神の言葉にしたがい通すことが出来た主イエスの義が、神を無視する罪があるが故に、神の言葉に従い通すことが出来ない罪人である私たちに、転嫁されたが故に、義と認められるようになったのです。転嫁という漢字は、責任転嫁の転嫁という字です。義の転嫁。その言葉を覚えて頂けたら幸いです。

義の転嫁によって、神の目から見て、私たちが天の御国に属する者となることが出来たのです。その事実を信じるなら、私たちは神の救いの入り口に入ることが出来ます。でも、信じているつもりでは、救いの入り口に入ったとは言い難いし、救いの出口に行きつくことは到底出来ません。救いの出口に行きつくためには、神を無視する罪に対する悔い改めが、必要になるのです。神を無視しなくなれば、神の言葉に従うという内実が伴ってきます。主イエスの救いは、救いに与っている者としての内実まで、求められるのです。

キリスト者とは、主イエスの道にある者という意味です。つまり、主イエスの道を探求する者が、キリスト者なのです。自分が主イエスの道の探求者であるか、主イエスの道の探求を辞めてしまっている者であるかは、神の御前で、絶えず悔い改めをして歩んでいるかどうかで分かります。

悔い改めるという意味は、方向転換をするという意味です。何度も話していることですが、「悔い改め」とはギリシャ語で、「メタノイア」と言います。「メタノイア」とは、メタとノイアの合成語です。「メタ」は「後になって」という意味で、「ノイア」は知るという意味です。つまり、間違ったことをした直後に「はっ!しまった…。」そのように、つくづく思い知らされることが、「メタノイア」なのです。

もし、「はっ!しまった…。」そうつくづく思い知らされたとしたなら、自分が繰り出す行動は、思い知らされる前と、思い知らされた後では、当然、異なってきます。変化が現れるのです。

主イエスの十字架の贖いの恵み。それを骨身に染みて知ったなら、当然、罪の悔い改めが起こるのです。罪を悔い改める以前と後では、当然変化が現れるはずなのです。

もし、行動に少しも変化が起きないとしたならば、本当の悔い改めではない。そう言わざるをえません。とは言っても、悔い改めが自分の内に起こっていないのにも関わらず、悔い改めたふりをして、自分の力で自分に変化を起こそうと奮闘するなら、燃え尽きてしまいます。

一般的に悔い改めとは、心の方向が変わること。そう言われていますが、それはとても的を射ています。

私たちは、十字架の贖いを信じる前は、自己中心でした。いつも自分の益になることを目的として、行動をしていた者でした。それが、「はっ!しまった」としみじみ思い知らされて、神中心になったのです。神中心になった私たちは、何が神の栄光が現れる行動になるか。それをいつも考えて行動をしているはずです。

でも、そう言われますと、「いやいや!私の行動は神中心になっていません。私はなんちゃってクリスチャンです。」そう言いたくなるのではないでしょうか。

そうなのです。神中心に生きることは、簡単なことではないのです。神の霊によって、神の義が、私たちの魂に吹き込まれなければ、つまりは、私たちの魂に、神の義が分与されなければ、神中心に生きていくことは不可能なのです。

でも幸いなことに、ヨハネによる福音書3章5節~7には、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』そう記されています。

この箇所から分かることは、洗礼と聖霊の息吹が、私たちの魂に与えられることで、別の言い方で言えば、義の転嫁と、義の分与によって、私たちの魂は、「新生」するということです。

今日の話に出て来る「見失った一匹の羊」のたとえは、本来、群れから迷い出た羊は、死を覚悟するしかなかったのです。羊は、極度の近眼で、方向音痴な動物です。イスラエル地方の荒れ野は、羊が迷いこんだら、狼などに襲われる可能性が極めて高い場所なのです。つまり、羊が彷徨う=死を意味する恐ろしい場所。それがイスラエル地方の荒れ野です。

しかも羊は、一度迷ってしまったら、自分で自分を救う術を持っていない動物なのです。羊は、羊飼いの元に、自分一人で戻る力を持っていないのです。一度迷い出たら、死ぬしかない羊を、羊飼いは自分の命を懸けて、狼などがいる、恐ろしい荒れ野に探しに行くのです。このことは、自分の命を犠牲にして、羊の命を見出すと言えるぐらいのものなのです。

まさにそれこそが、罪人である私たちのために、この世に降って、自分の命を犠牲にして、私たちの命を買い取った主イエスの姿です。キリスト者とは、主イエスが十字架で、私たち罪人の罪を、贖うために死なれたことで、主イエスの義が、私たちに転嫁されて、聖霊が与えられて、聖霊の息吹が私たちの魂にふき込まれたことによって、神の義が、私たちの魂に分与されて、神の子、神の家族になった人たちのことです。そんな私たちは、将来完全な永遠の命が与えられることが、約束されているのです。

でも、約束されているのであって、確定しているわけではないのです。日本のキリスト者の平均寿命は2.8歳と言われています。多くの日本のキリスト者は、永遠の命からスリップしている現実があります。

それはともかく、4節後半を見ますと、「見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないであろうか。」そう記されています。羊飼いは、自分の命の危険も顧みず、命がけで捜すのです。見失った者の名を呼んで、どんな危険なところでも足を踏み入れて捜し出すのです。 

そのことから分かるのは、良い羊飼いである主イエスは、可能な限り、目と手を届けようとしているということです。

私たちの魂が、滅びに向かう道に迷い込んで、恐怖しておののいている時、主イエスは、私たちをみつけ出して、私たちを御自身の肩に担いで下さる御方なのです。

私たちが主イエスにしがみつくのではないのです。弱り果てている私たちは、主イエスにしがみ続けることは出来ないのです。そうではなくて、主イエスがしっかりと私たちを、御自分の肩に担いでくださるのです。主イエスが私たちを肩に担いで、仲間の群れがいる本来の場所に戻っていく時に、決して小言も文句も言わないのです。「滅びる魂が見つかった、本当に良かった」そう言って喜んでくださるのです。主イエスは、御自身がとても苦労をしてでも、荒れ野の死の影の谷の中を歩いていって、仲間の群れがいる所まで連れていって下さるのです。

だからこそ、私たちが滅びに向かう道に迷い込んで、動けなくなってしまった時、私たちに必要なことは、主イエスに、自分の全てを委ねることなのです。もし、私たちが、自分の身を主イエスに委ねないなら、神の家族がいるところに、引きもどされることを拒むことになるのです。

滅びから永遠の命に移されるために、私たちがしなければならないことは、全てを主に委ねる決断をすることです。

神と、神を信じる兄弟姉妹と、永遠に生きることが出来るように整えるのは、自分ではなくて、主イエスなのです。ということは、主イエスに自分を委ねないならば、永遠の命からはずれていく結果になるということです。

それはそうと、死ぬしかなかったはずの彷徨った羊が、群れに戻って来た時、野原に残されていた九十九匹の羊たちは、一体どうしたのでしょうか。

彼らもまた、自分の仲間が戻って来たのを見て、とても喜んだのだと思います。

「羊飼いは、あの一匹だけを愛して、私たちは長い間、放って置かれた」そのようにふてくされた羊はいなかったはずです。そういう姿こそ、天の御国に属する神の家族なのです。

失われて、滅びに向かっていた一人が、助け出された姿を見た時に、教会に集う神の家族も一緒に喜ぶのです。そして、「自分たちも道に迷った時があった。自分もあのように救われた。救われた今でも道に迷うことがある。でも、もし道に迷ったりすることがあったとしても、あの羊のように探し出してくれる。全てを主に委ねるだけでよい。」そう思って、安心して、教会に憩いながら生きるようになるのです。

結論です。今週一週間、3つのことを覚えて歩んでいきたいと思います。1つ目は、主イエスが十字架で私たちの罪を贖って、御自分の義を私たちに転嫁して下さったこと。2つ目は、御自分の義を、私たちに転嫁して下さった主イエスが、聖霊をも与えて下さって、聖霊が御自分の息吹を私たちの魂に吹き込むことで、神の義を分与して下さり、新生した者らしく歩んでいけるようにして下さったこと。3つ目は、神が私たちに、主イエスの義の転嫁と、聖霊の働きによる義の分与をして下さったことで、私たちが神の子とされて、神の家族に迎え入れられている今この時があるということ。その3つのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと心から願っています。

今日はこれから聖餐式が行われます。主イエスが流された血と、裂かれた肉によって、主イエスの十字架の罪の贖いを信じている私たちキリスト者は、主イエスの義の転嫁と、聖霊による神の義の分与が、私たちの魂になされているが故に、父なる神に義と認められていて、神の子としての新しい命を、生きることが出来るようにされている恵みを噛みしめながら、皆さんと共に聖餐に与りたいと思います。

最後に、一言お祈り致します。