使徒言行録8章14節-25節
「喜びの旅路」
教会 野々川康弘
今日は、魔術師シモンから皆さんと共に学びたいと思っています。彼は魔術を使ってサマリアの人たちに、「シモンは偉大な人だ!」そう思わせて自分に従わせていたのです。
でも、フィリポが、主イエスの救いの印である沢山の奇跡の業を行って以来、サマリアの人たちは、主イエスの救いを信じて、主イエスについていくようになったのです。
でも何故、サマリアの人たちは魔術師シモンから離れて、主イエスについていくようになったのでしょうか。
その理由は、彼は自分の力を誇示して、サマリアの人たちを自分に従わせていたのに対して、フィリポが語っていた主イエスの救いは、自分の命を犠牲にして、人の罪を赦して人を生かすものだったからです。
サマリアの人たちにとって、フィリポの語っていた主イエスの救いは、魔術よりも遥かに魅力に満ちたものだったのです。だから、サマリアの人たちは、主イエスについていくようになったのです。
魔術師シモンは、サマリアの人たちが主イエスについていくようになったのを見て、「フィリポの主である主イエスにはかなわない。」そう思って洗礼を受けたのです。そこで話が終わっていたなら、「シモンおめでとう。」それで話は終わりです。
でも、聖書は一筋縄ではいきません。
魔術師シモンの話しはそんな簡単な話では無いのです。その理由は、18節~19節にこう記されているからです。
「シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」
此処から分かるのは、魔術師シモンが洗礼を受けたのは、神を無視して生きる罪の身代わりとしての主イエスの十字架を信じたからでもなければ、自己中心という罪の身代わりとしての主イエスの十字架の救いを信じたからでもなかったということです。彼が洗礼を受けたのは、フィリポが発揮していた奇跡を起こすことが出来る力や、ペトロがサマリアの人たちに聖霊を与える力を欲していたからです。
魔術師シモンは、「洗礼を受けることは、自分がこの世で生きていく上で益になる。」そう思って洗礼を受けたのです。そのような思いで洗礼を受けるのは、私たちの罪の代価を支払うために、御自分の命を犠牲にして下さった主イエスに対する冒涜です。ましてや、お金をペトロに支払って、聖霊を人々に与えることが出来る人になって、サマリアの人々を従わせようなんてことは言語道断です。
実は、シモンという名前から、ラテン語の「シモニア」という言葉が生まれました。シモニアという言葉は、「聖職売買」そう訳すことが出来ます。
聖職売買とは、教会の職務や地位をお金で買い取ることです。中世時代、教会と政治が強く結びついていました。そのため、自分の政治権力を得ようとして、聖職者の地位をお金で取引する聖職売買が行われていたのです。そのことを憂いていた教皇グレゴリウス7世は、教会改革に乗り出しました。彼は、皇帝に握られていた聖職者任命権を取り返そうとしたのです。でも、新聖ローマ帝国の皇帝ハインリッヒ4世は、聖職者任命権を失いたくなかったのです。だから彼は、教皇グレゴリウス7世の教会改革に反発したのです。その時教皇は、ハインリッヒ4世を教会から破門しようとしました。だからハインリッヒ4世は、教皇が滞在していたハインリッヒ城にあわてて行って謝罪したのです。最初は面会を拒否されました。でも、雪が降る中、3日間もの間、根気よく謝罪し続けたのです。その結果、破門が解かれたのです。これが1077年1月に起きた、あの有名な「カノッサの屈辱」です。
すでにお分かり頂けたと思いますが、中世時代、教皇の権威は新聖ローマ帝国の皇帝を破門出来る程、大きかったのです。中世時代は、教会の聖職者の地位が莫大な収益を伴う大きな利権となっていたのです。
今の時代、聖職者の地位はそんなに大きな権威はありません。多分、「聖職者任命権なんかどうでも良い」そう思っている人たちがほとんどです。そんな今の世の中だからこそ、魔術師シモンがお金を出してまで、使徒になりたかった気持ちはあまり分からないと思います。お金を出してまで使徒となって、聖霊を与えられるようになりたいという思いは、現代の私たちには、あまりピンときません。
でも、彼が聖霊を与える力を欲した理由を知ったとしたら、現代であっても、彼と似たような思いから、洗礼を受けるなんてことが実際に起こっているのです。
魔術師シモンは、サマリアの人たちを自分に従わせることが出来るようになりたかったからこそ、洗礼を受けて、聖霊を人々に与える力を欲したのです。彼は、自分から離れていった人たちから認められるようになりたかったからこそ、洗礼を受けたのです。
そういう思いから受ける洗礼は、神を無視する罪の赦しを得るため、自己中心の罪の赦しを得るためという理由から遠く離れています。
主イエスの十字架は、自分に益が齎されるための道具でもなければ、自分の心が満たされるための道具でもありません。使徒たちが教えていた主イエスの十字架は、あくまでも罪の赦しです。でもそういったことを私が言えば、こう言いたくなる人たちがいるかもしれません。「最初は洗礼を受ける理由は何でも良い。最初は、神へ背反している罪が分からなくても、自己中心の罪が分からなくても良い。洗礼を受けた後から、自分の罪がちゃんと分かって来るようになる。」
私はそういう人たちに聴きたいことがあります。「洗礼を受けた後から、自分の罪がちゃんと分かって来れば良いならば、何でペトロは22節で、「悪事を悔い改め、主に祈れ、そのような心の思いでも、赦していただける」そう宣言するのではなくて、「悪事を悔い改め、主に祈れ、そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれない」という可能性があるような言い方をしているのでしょうか?」
洗礼を受けた魔術師シモンが、お金を払って使徒になろうとした罪に対して、ペトロは、悔い改めて祈れば赦されるという宣言ではなくて、悔い改めて祈れば赦されるかもしれないという可能性しか言っていないのです。
ホーリネス教会は洗礼後、セカンドブレッシングを体験すること、ウエスレーのようなアルダースゲイト体験をすることを強調するあまり、洗礼を軽視しがちです。
でも、主イエスの命がけの十字架を、教会が誰にでもバーゲンセールをするようなことして良いのでしょうか。神を無視しがちな自分の罪を罪と思わず、自己中心な自分の罪を罪と思わず、自分の益や、自分の心が暖められることばかり願っている人に対して洗礼を授けることを、神が教会に本当に望んでおられるのでしょうか。
教会は、天の御国の門の鍵を、人々に渡す権能があります。その鍵は、神を無視する罪を認める人、自己中心の罪を認める人に渡すべきであって、それを知らない人に簡単に渡してはならない気がするのは、私だけでしょうか。
家の鍵は信用出来る人には渡せますが、信用出来ない人には渡せません。ましてや教会は、天の御国の門の鍵を、神から信頼と信用をされて託されているのです。天の御国の門を開くことが可能になる大事な鍵を、神から私たちに、誰にその鍵を渡すのか託されているのです。
ある神学者が、私が受けていた授業の中でこう言っていました。「教会から離れる人が出るとすれば、教会から離れた人にも罪があるが、教会から離れる人を生み出した教会の罪がとても大きい。教会が洗礼やフォローアップを、もっと大切にしなければならない。」
カナダで私が学んだことは、教会が、クリスチャン製造工場になっては駄目だということです。教会が、どんどん洗礼を与えていって、洗礼を受けた人がどんどん教会から離れていくようでは、教会が教会として機能していない。そうカナダの神学校では言われていました。
実は、その意味を痛感したのは、私が米子で牧会をするようにになってからです。それまでは、カナダの神学校で言われていたことに抵抗を感じていました。
確かに最初は、自分が神を無視する罪や、自己中心の罪なんかは、あまりピンと来ないと思います。それで良いのです。洗礼を受けた後に、徐々に分かっていけば良いのです。とはいえ、全く、自分が神を無視している罪、自己中心の罪が分かっていない中で、洗礼を受けるのは、主イエスの十字架と何の関りも無いのに洗礼を受けることになってしまいます。12使徒が大切にしていたのは、罪の赦しの十字架です。それ以外の理由で、十字架に繋がる道はありません。
だからこそペトロは、魔術師シモンに対して22節に記されている通り、「悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。」そう言ったのです。先程も申し上げましたが、此処で注目すべきことは、「赦していただけるかもしれないからだ。」という言葉です。ペトロは、「赦される」そう宣言していません。「赦される可能性がある」そう言っているのです。
これは他人事ではありません。主イエスの十字架の救いは、私たちがこの世で生きやすくなる何らかの益を得るための救いでもなければ、自分の心が暖められるための救いでもありません。主イエスの十字架の救いは、私たちが神を無視して歩んでいる罪、自分を中心として歩んでいる罪を赦すためのものです。
自分の罪を罪と思わず、自分がこの世で生きやすくなることや、自分の心が暖められることを思って洗礼を受けるのは、私たちの罪のために命を捨てた主イエスに対する冒涜です。自分の罪を思わず、自分の益や、自分の心が暖められることを願って洗礼を受けるのは、魔術師シモンが、主イエスの力を欲して洗礼を受けたようなものです。
またそれとは別に、魔術師シモンが、お金で聖霊を授ける力を欲したことは、聖霊を自分の所有物のように思っていた何よりの証拠です。まるで自分が聖霊を得て(使役して)、自分に従わせるようなアイデアです。でも、聖霊を人間が所有することは出来ません。人間が聖霊を所有できるという考えは間違いです。人には、神を無視して生きている罪、自己中心の罪を、聖霊に知らされる適った時があるのです。その時こそ洗礼を受ける時です。
その時を待たずして洗礼を受けたとしても、洗礼の意味がありません。そのように私は考えています。
でも、何で早く洗礼を受けたり、洗礼を授けたりしたいのでしょうか。そのことを考えていく時に見えてくるのは、聖霊の時を無視する私たちの姿です。繰り返しになりますが、私たちは聖霊を所有することは出来ません。私たちの思いに聖霊を従わせるのではなくて、聖霊の思いに私たちが従っていくことがとても大切なのです。
私たちが、洗礼や、神体験に固執する理由は、神を所有していると思いたいからです。神を所有出来ていない不安を、自分の力で何とか拭い去りたいからです。
聖霊御自身が、神を無視する罪や、自己中心の罪を分からせてくださる時を待てないのは、自分の内から、神を所有出来ていない不安が沸き起こってくるのを、自分の力で早く解決しようとしている何よりの証拠です。
もし私たちが神の時でなければ、神を無視する罪、自己中心の罪から解放される、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業が分からないことを知っているとすれば、神体験や、洗礼に固執する必要は無くなるのです。
その理由は、自分が焦らなくても、神が良しとした時にこそ、洗礼や、神体験が与えられるからです。洗礼を受けること、神体験が与えられることを焦るのは、神の時を待てないからです。
神の時を待てない理由は、早く白黒はっきりさせたいからです。
罪の贖いである十字架と出会って洗礼を受けるためには、或いは神体験をするためには、自分で白黒はっきりさせることなく、白と黒が混ざったグレーの世界を、ワクワクしながら、神が白黒はっきりさせてくれるその時を待ち望みながら日々歩むことです。
もっと言うと、動かざること山の如しの姿勢で、グレーゾーンに生きることが出来ている人たちこそが、神の救いに生かされている人たちです。
何かしらの不安から逃れるために、白黒はっきりさせたい人の特徴は、魔術師シモンがそうだったように、聖霊の力を人に授けることは求めても、自分に聖霊の力が与えられることは求めません。
そういったことを私が言えば、「私はよく聖霊の力が与えられることを求めている。」そういうふうに思うかもしれません。
確かに私たちは、自分のピンチを脱するために、聖霊の力が与えられることを願うことが多々ありあす。でもそれは、穿った見方をすれば、自分のために聖霊を利用しようとしているにすぎません。
聖書的な聖霊の力を求める理由は、自分が新しくされること、変えられることです。罪人であることをより深く知らされて、十字架の恵みの意味を、礼拝する度により深く知らされていくことを喜ぶためです。
聖霊は、私たちが自分のものとして所有出来たり、自分の目的のために利用できたりする御方ではありません。聖霊は私たちを、自分の拘りや、自分の固定概念から解放して、神との関係、隣人との関係に生きることが出来るように、新しく造り変えて下さる御方です。
聖霊は、私たちが用いることが出来る何らかの力なんかではなくて、私たちの主です。
私たちが心に留めないといけないことは、聖霊は、私たちの主として、私たちを支配して、働きかけて、導いて下さっている御方なのです。
主イエスが天に昇られて、与えて下さった聖霊は、私たちが神や隣人に対して身構えて、必死で、自分で自分自身を守るために築き上げているバリアを打ち砕いて、神を無視する罪や、自己中心の罪の代価としての十字架の一致を、神と私たちの間に、私たちと隣人との間に、実現していく御方です。
その聖霊の働きがあるが故に、神・自分・隣人という三位一体の愛の共同体なる教会が、今も後も、永遠に築き上げられていく喜びの旅路が私たちに与えられているのです。
その幸いを味わいながら、今週一週間、皆さんと共に豊かに歩んでいければと願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。