エフェソの信徒への手紙4章7節~16節
「キリストによって結び合おう」
牧師 野々川 康弘
今日は、今年度の聖句が記されている、エフェソの信徒への手紙4章7節~16節の御言葉に耳を傾けたいと思います。
4章1節~6節は、父・子・聖霊の三位一体の交わりが唯一であるように、教会も、神・自分・隣人の三位一体の交わりが、唯一になる大切さを語っています。でも、7節~16節はその逆のことを語っています。そこでは、神が一人一人に賜物を与えているという多様性を生かして、教会が一致していくことの大切さを語っています。
つまり、1節~6節が語っていることと、7節~16節が語っていることは、真逆なのです。
このことは、アメリカ社会と、カナダ社会を比較することに似ているといえます。アメリカやカナダには、色々な民族が住んでいます。そんな中で、アメリカは、アメリカという国旗の下に、色々な民族を一つに束ねていく統治の仕方をしています。その一方で、カナダは、色々な民族の特徴を生かしながら、色々な民族が一つとなっていく統治の仕方をしているのです。
今日は、7節~16節から学ぶ都合上、一人一人に賜物が与えられているという多様性を生かして、教会が一致をしていくとは一体どういうことなのか。そのことを、考えてみたいと思います。
先ずは、今日の箇所に描かれている賜物は、一体誰に与えられているか。そのことを学びたいと思います。
7節~11節を見てみますとこう記されています。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで「高い所に昇るとき、捕らわれた人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りてこられた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」
此処から一体誰に賜物が与えられているのか。そのことを2つ知ることが出来ます。
1つ目は、「わたしたち一人一人」が、賜物が与えられた人たちです。
7節の「わたしたち一人一人に」という言葉は、この手紙を読んでいる全てのキリスト者を指している言葉です。ということは、全てのキリスト者に、賜物が与えられているということになります。
そして、2つ目は、教会の職務を与えられている人たちが、賜物を与えられた人たちです。
11節の、「使徒」、「預言者」、「福音宣教者」、「牧者」、「教師」という言葉は、教会の職務を表す言葉です。これらの教会の職務は、教会の職務についた人たちに与えられた賜物です。
でも、ここで疑問になることがあります。それは、賜物とは一体何かということです。賜物は、ギリシャ語で「カリスマ」と言います。カリスマの語源は「カリス」です。そして、「カリス」という意味は、「恵」という意味なのです。つまり、神の恵みがその人に輝いていること。それが「カリスマ」です。ということは、賜物とは、その人の特別な才能でもなければ、その人の秀でた業でもないのです。何故なら、神の恵みがその人に輝いて見えるためには、人間が弱くなければならないのです。でなければ神の恵みは隠れるのです。
賜物とは、私たちの弱さが神の恵みによって強められて、その人をカリスマの存在に押し上げた何かなのです。そしてそれこそが、主イエスから与えたものなのです。
主イエスは、健康な人を招くためにこの世に来たのではありません。神に背く罪、自己中心の罪。そういう病を抱えている病人を、父・子・聖霊の三位一体の愛の交わり共同体の中に浸らして、神・自分・隣人の交わりが、三位一体の神の似姿に再創造されていくために、この世に来られたのです。
実は、そのことを成し遂げた業こそが、主イエスの十字架・復活・昇天という救いの御業なのです。
主イエスの御業による再創造が目に目えて分かる何かこそが、私たちに与えられている「カリスマ」です。
その「カリスマ」はキリスト者すべてに与えられています。でも、「カリスマ」の中で特に中心的なものは、教会の職務と言って良いと思います。11節には、「使徒」、「預言者」、「福音宣教者」、「牧者」、「教師」が、教会の職務として挙げられています。カトリックでは、「使徒」職を担っているのは教皇である。そう考えています。でも、プロテスタント教会は、「「使徒」職は今の時代はなくなった務めである。」そう考えています。今の時代、「預言者」、「牧者」が、「牧師」であり、「預言者」、「福音宣教者」が、「伝道師」である。そう考えられています。ですから、「今日の箇所に記されている教会の職務は、一字一句全て変わることがないものとして挙げられている。」そのように考える必要は全くありません。実は、「使徒」、「預言者」、「福音宣教者」、「牧者」、「教師」という教会の職務の解釈は、プロテスタントの教派によって色々な考え方があるのです。
日本基督教団的に言えば、「牧師」、「教務教師」、「伝道師」は、神学教師のことであると言って良いと思います。実は、「福音宣教者」という言葉。これは口語訳聖書では「伝道者」そう訳していました。
また、ジャン・カルヴァンは、教会の職務を更に広げて、長老、執事という教会の職務があることを説いています。
では、仙台青葉荘教会は、教会の職務にはどういうものがあるのでしょうか。それは、牧師、伝道師、CS教師、教会役員ではないでしょうか。だからこそ私たちの教会は、役員就任式や、CS教師就任式をするのです。
教会に、教会の職務が「賜物」として与えられているのは、主イエスの言葉に教会がちゃんと仕えるようになっていくためです。つまり、教会に教会の職務が「賜物」として与えられている理由は、教会の中の人間関係が円滑になるためでもなければ、順風満帆になっていくためでもないのです。でも誤解しないで下さい。教会の中の人間関係が神の愛に満ちて、その結果として、教会の中の人間関係が円滑になったり、教会の中の人間関係が順風満帆になっていったりすることは、とても大切です。でも、神の愛抜きに、言い換えれば、主イエスの十字架抜きに、教会の中の人間関係が円滑になっていったり、教会の中の人間関係が順風満帆になっていったりすることを目指して、教会の職務が「賜物」として与えられているのでもなければ、教会制度がある訳でもないのです。そのことを私たちは、ちゃんと肝に命じておく必要があります。
でも、此処で疑問になることがあります。それは、神が一人一人に与えている賜物と、神がある人たちに教会の職務という賜物を与えることを通して、神は一体何を目指しているのでしょうか。実は、そのことが記されているのが12節~16節です。
まず初めに、12節~13節を見ていきたいと思います。そこを見ますとこう記されています。
「こうして聖なる者たちは奉仕のわざに適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちはみな、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」
此処に、「聖なる者たちは奉仕のわざに適した者とされ」そういう言葉が記されています。「聖なる者たち」とは、既に主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を信じて洗礼を受けたキリスト者たちのことです。また、「適した」という意味は、原文で見ますと「整える」そう訳すことが出来る言葉です。
つまり、「聖なる者たちは奉仕のわざに適した者とされ」という意味は、「キリスト者が、教会の奉仕の業が出来るように整える」そういう意味なのです。つまり、全てのキリスト者に賜物が与えられていることや、ある人たちに教会の職務が賜物として与えられている理由は、教会に集う全てのキリスト者が、教会の奉仕の業が出来るように整えて、主イエスの体を造り上げていくためなのです。
主イエスの体を造り上げるとは、此処に集う私たちみんなが、主イエスに対する信仰と知識が一つになるぐらい成熟するように成長することです。
私たちが成熟するように成長するとは、14節~15節に記されている通り、「風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたり」することがないようになることであり、主イエスの十字架の「愛に根ざして真理を語れる」ようになることです。
そういうところまで私たちが成長していくのが、教会の目標であり、全てのキリスト者に賜物が与えられている意味であり、ある人たちに教会の職務の賜物が与えられている意味なのです。
誤解のないように言いますが、15節が言っている「成長」とは、教会員の数が増大することを意味していません。使徒言行録ではそういったことを意味している箇所があります。でも、15節の「成長」は、「霊的成長」のことを言っているのです。
仙台青葉荘教会の全ての人の主イエスに対する信仰と知識が一つになるぐらい成熟して、主イエスを証しすることが出来るようになることが、私たちの成長です。
実は、「成長」という言葉で、注目しなければならないことがあります。それは、13節でも、15節でも、「成長」という言葉の主語は、「わたしたち」という言葉であるということです。でも、16節の「成長」という言葉の主語は、「体」なのです。
つまり、「私たち」の成長と「体なる教会」の成長が、イコールになっているのです。更にいうと、「私たち」の成長や、「体なる教会」の成長は、主イエスが、全てのキリスト者に与えた賜物と、ある人たちに与えた、教会の職務という賜物によってなされるのです。
更に注目すべきことは、15節が、私たちが「教会の頭であるキリストに向かって成長していく」ことを語っていることに対して、16節では、キリストによって、わたしたちがしっかり組み合わされて、私たちの分に応じて、主イエスの体が成長していくことを語っているということです。
15節では、私たちから主イエスへ、16節では、主イエスから私たちへ、そういう真逆の働きが組み合わさって、主イエスの体なる教会が出来ていくことが語られているのです。そんな中で、今年度、私たちが特に覚えたいのは16節です。
つまり、主イエスからの私たちに対する働きによってそれぞれが、賜物が与えられている分に応じて、更には、ある人たちが教会の職務という賜物が与えられている分に応じて、仙台青葉荘教会に集っている人たちの主イエスに対する信仰と知識が、今までよりも一つとなる成熟した姿になることが出来るように、みんなが一枚岩となって主イエスの福音を宣べ伝えていきたいと思っています。
私たちの成熟した姿を見ることが出来るようになるのは、私たちの応答責任によるところも勿論あります。でも、罪深い私たちはそれだけでは足りません。だからこそ16節は、キリストによって、私たちの成熟した姿を見ることが出来るようになるために、みんなが一枚岩となって、主イエスの福音を宣べ伝えていくことが出来るようにされていることを語っているのです。
つまり、主イエスが十字架・復活・昇天の救いの御業を成し遂げて下さったことをいつも見上げて、そこから、力が与えられるようになることがとても大事なのです。
ですから今年度は、仙台青葉荘教会に集っている私たち一人一人が、すぐに神に背を向けてしまう罪のために、十字架・復活・昇天の救いの御業を主イエスが成し遂げて下さったことを赤裸々に分ち合える小グループを形成して、主イエスの罪の赦しの恵みを、深く心に刻み込めるようにしたいと考えているのです。
また、毎週日曜日、仙台青葉荘教会に集っている私たちが、教会の主日礼拝で、主イエスの十字架・復活・昇天の御業を見上げていくことで、私たち一人一人が霊的成長を成し遂げていった結果として、教会全体が霊的成長を成し遂げていけるようになることを心から願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。