2025年3月30日 仙台青葉荘教会礼拝説教

使徒言行録8章2節-13節

「礼拝とは何か」

牧師 野々川康弘

 最初に生まれた教会はエルサレム教会です。最初は一つの部屋に入るような、小さな教会だったのです。そんな小さな教会が聖霊に助けられながら、主イエスの救いを伝えたのです。それによって、教会はどんどん大きくなっていったのです。でも、決して順風満帆だったわけではありません。

その理由は、ユダヤ教の指導者たちが教会に多くの人たちが集まるようになっていくのを見て、教会をつぶすことを考えて邪魔をしていたからです。彼らがステファノを捕えて、石を投げつけて、殺したのです。  

彼は教会最初の殉教者です。彼が殺されたことを期に、エルサレムの町で、主イエスの救いを信じる人たちを捕えて、殺していこうということになったのです。

その結果、エルサレム教会の人たちは、エルサレムから逃げ出していくようになったのです。せっかく順調に成長してきたエルサレム教会が、散り散りばらばらになってしまったのです。

でもそのことで教会は無くならなかったのです。何故でしょうか。それは、4節に記されている通り、「散って行った人々が、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」からです。その結果、あっちの町にも、こっちの町にも、主イエスの救いを信じる人たちが起こされていったのです。それまでは、教会はエルサレムにしか無かったのです。でも、ステファノが殺されたことで、教会が散らされて、かえって沢山の町に教会が出来ていったのです。

これはとても不思議なことです。「イエスの救いを信じる人は、けしからん!教会をつぶせ!」そういう思いを抱かれて、エルサレム教会が攻撃を受けて、そこに集っていた人たちが散らされて、かえって広い地域の人たちが神の救いを信じることになっていったのです。人間の目からすれば、「そんな攻撃を受けたら、元気がなくなる!力が弱まっていく!集まる人が減っていってしまう!」そう思うのです。「下手をすれば、教会が消えてなくなる!」そう思ってしまうのです。でも、ステファノが殺されたことを期に、エルサレム教会の人たちへの迫害が強くなっていったことで、かえって教会は成長していったのです。教会が全世界に広がっていったのです。それは、人間の思いを超えておられる父なる神が、ステファノが殺されたことを期に、エルサレム教会への迫害が強くなっていったことを用いて、キリスト者を全世界に散らして、福音が全世界に広がっていくように予め計画をお立てになっていたからです。

教会は、私たち人間が生み出したものではありません。主イエスの昇天の御業を通して、私たち一人一人に与えて下さった聖霊の働きにより、教会は生まれたのです。そんな教会は、聖霊の働きによって守られて導かれているのです。聖霊が働いているが故に、私たち人間の思いを超えて、普通では考えられないことが起こっていたのです。というよりも、今現在でも起こっているのです。

この仙台青葉荘教会も、人間の思いを超えた聖霊の働きにより支えられて、導かれているのです。高齢化が進み、コロナ禍以降、礼拝の人数が減ってしまった今もそうです。私たちの考えでは、「この先、青葉荘教会はいったいどうなっていってしまうのか。このままでは仙台青葉荘教会の未来はないのではないか。」そう思うのです。でも、仙台青葉荘教会は、神が聖霊によって守り導いておられるのです。高齢化が進んでいようとも、コロナ禍を経て、礼拝人数が少なくなっていようとも、此処に集まって礼拝を捧げている人たちがいるのです。いつ再臨が来てもいいように、緊張感を持って備えることが出来ている勇士たちが、これだけいるのです。それこそが神の恵みです。

それはそうと、エルサレム教会から散っていった人たちの中に、フィリポという人物がいました。その人がサマリアの町で、主イエスの救いを宣べ伝えたのです。

彼に聖霊が働いたからこそ、汚れた霊につかれた人たちや、病気の人たちを、彼は癒すことが出来たのです。その結果、町の人たちは心を開いて、主イエスの救いを聴くようになったのです。

でも、サマリアの町にはシモンという魔術師がいたのです。彼は、9節に記されている通り、「魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称して」いたのです。

そこで疑問になるのは、魔術師とは一体どういう人なのかということです。

魔術師とは、悪霊の力を借りて、いろいろな不思議な業をする人です。例えば、本人しか知らないはずのことを具体的に言い当てたり、家族にしか分からないような、具体的な死者からのメッセージを代弁したりする人です。それ以外にも、病院で治せないような病気を治したりもします。

そうしますと、そこで疑問になることがあるのです。それは、「人智を超えた業を成していたフィリポと、魔術師シモンでは、一体何が違うのか。」ということです。

その答えは、10節と12節にあります。魔術師シモンは、10節に記されている通り、「サマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称」するために、人智を超えた業をしていたのに対して、フィリポは、聖霊の力を借りて、12節に記されている通り「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせ」るために、人智を超えた業をしていたのです。

つまり、魔術師シモンは人々を自分に繋ぐことを目的として、人智を超えた業をしていたのに対して、フィリポは、聖霊の力を借りて、人々を神に繋ぐことを目的として、人智を超えた業をしていたのです。

そのことから分かることがあります。それは、悪霊の働きは、人々を自分に繋げていく働きをするのに対して、神の働きは、人々を神に繋げていく働きをするということです。

人々を神に繋げる働きとは、主イエスが十字架の救いの御業を通して、私たちを神の子として下さったような働きをすることなのです。つまり、主イエスの十字架の頸木を負って、人々を神に繋いでいく働き。それをフィリポはしていたのです。

その一方で、人々を自分に繋げる働きとは、人に自分を認めさせて、人を自分に繋げていく働きをすることです。そこには自己愛が存在しています。悪霊の働きは実に巧妙です。他人を愛することを装う形で、自己愛に溺れていくように人を落とし入れるのです。別の言い方で言えば、自分の承認欲求を満たすために、他人を愛するのです。(それがギブアンドテイクの関りを生み出すのです。ギブアンドテイクは、自己愛です。)でも、自分の承認欲求が満たされないと思うや否や、神との関係、人との関係を断絶していくのです。その結果、関係に生きるところから遠のいていって、孤立していくのです。

サマリアの町の人たちは、今まではシモンの魔術に驚いて、「シモンはすごい!」そう思って、彼の言うことを聴いていたのです。ところがフィリポが来て以来、目が覚めてしまったのです。今まですごいと思って感心していたシモンの魔術が、急に色あせて見えるようになったのです。

それは、魔術師シモンは自分を認めさせて、自分に従わせようとしていたのに対して、フィリポは、12節に記されている通り、「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせ」たからです。

神の国とは、父・子・聖霊の、三位一体の麗しい愛の交わりが、保持されている神の国のことです。その神の国は、三位一体の神を王として崇めて、三位一体の神、自分、隣人の、三位一体の麗しい愛の交わりが育まれています。そんな神の国が、主イエスの救いの御業を通して私たちに与えられているのです。

父なる神は、御自分の愛する独り子を、私たちが神を無視して生きる罪の身代わりとして、十字架に架けて殺すなんてことはとても嫌だったと思います。でも、私たちを愛するが故に、そのことを成し遂げて下さったのです。でもそれだけではありません。私たちを愛している父なる神は、神の子、主イエスを、死から復活させて、主イエスの十字架を信じて神の子となった人には、神の子、主イエスと、同じ死で終わらない命を、与える約束をして下さったのです。 

更に言えば、父なる神は主イエスが昇天した時に、御自分がとても大切にしている聖霊が、とても苦労することが分かっていたが故に、この世に送ることはとても嫌だったと思います。でも、私たちを愛する故に送って下さったのです。

また、主イエスは、御自分が十字架に架けられて死ぬのはとっても嫌だったと思います。でも、父なる神や、聖霊の思いを知っておられて、私たちを愛しておられた主イエスは、私たちが神を無視して歩んでいる罪を全て背負って、十字架に架かって死んで下さったのです。更にいえば、御自分の十字架の御業を信じる人のために昇天して、聖霊がとても苦労することは100も承知の上で、聖霊を与えて下さったのです。

また聖霊は、ヨハネによる福音書14章16節に、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」そう記されている通り、父なる神と、主イエスによって遣わされたのです。そんな聖霊は、主イエスが昇天された時、いつも神に背を向ける私たちのために、天から降るのは嫌だったと思います。その理由は、ローマの信徒への手紙8章26節に、「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」そう記されている通り、聖霊はこの世に降ったとしたら、苦しみを背負うことになることを知っておられたからです。でも、父なる神や、主イエスの思いを知っておられて、私たちを愛しておられた聖霊は、天から降って、私たち一人一人の内に住んで、いつも神に背を向ける私たちを、神に引き寄せて、神の言葉を悟ることが出来るようにして下さったのです。

そんな父・子・聖霊の連携による、三位一体の神の救いの恵みによって、神は、私たちを救いに導いて下さったのです。それが喜びの知らせです。そして、その喜びの知らせが福音なのです。

フィリポはその福音を、サマリアの町の人たちに伝えるために、聖霊の力に押し出されて、人智を超えた業を行ったのです。それは、魔術師シモンのように、人々が驚くような人智を超えた業を行なうことで、人々を自分に従わせるためではなかったのです。そうではなくて、父・子・聖霊なる三位一体の神が、いかにそれぞれが御自分を分け与えて下さって、私たちを愛して下さったのか。そのことを教えるためだったのです。そのことを教えた理由は、町の人たちが御自分を分け与える三位一体の神に信頼して、三位一体の神と、自分と、隣人が、三位一体の神のように、自分を分け与える愛で結ばれていく教会を造り上げるためだったのです。

フィリポの教えを聴いた人たちは、男性も女性も洗礼を受けました。洗礼を受けるとは、父・子・聖霊の三位一体の交わり共同体の愛に浸って、その愛を、三位一体の神・自分・隣人の交わりに、反映させていく御国の一員になることです。

洗礼は、父・子・聖霊の三位一体の交わり共同体の中に住んで、その愛を、永遠に反映して歩んで行く神の子になりなさいという招待です。その招待を受けて、父・子・聖霊の愛の交わり共同体の中にどっぷり浸かっている人は、父・子・聖霊の愛の交わりを、三位一体の神・自分・隣人の交わりの中で、永遠に育んでいくようになるのです。つまり、父・子・聖霊の愛の交わりを、三位一体の神・自分・隣人の交わり共同体の中で、育んで歩むようになっている人たちの群れが教会なのです。

でも誤解しないで頂きたいことは、自分の力で、それを育んでいくことは不可能です。それは、聖霊の働きに押し出されてこそ、育んでいけるようになるのです。

シモンは、「フィリポにはとてもかなわない」そう思って、洗礼を受けたのです。

魔術師シモンが洗礼を受けたことが記述されていることには、とても大きな意味があります。それは、悪霊は、神にはかなわないということです。更に言えば、神の力によって悪霊から解放された人は、自分の力で自分を認めさせるという自己愛から離れて、十字架の軛を負って生きる、神の国の住人になることを意味しています。

神の国の住人とは、十字架の軛を負い、父・子・聖霊の三位一体の愛の交わりを、三位一体の神・自分・隣人の三位一体の交わりの中で、育んで生きていく人のことです。

洗礼を受けた人は、人を驚かせて自分に従わせて、自分を偉大な者とする魔術には、全く興味が無くなるのです。

でも何故、人は魔術師から、魔術を受けることを求めるのでしょうか。それは、自分の色々な問題が解決して、順風満帆な生活になることを求めているからです。でも神が、私たちに求めていることは、十字架の軛を負うことなのです。

私たちは三位一体の神が、自分を分け与える愛で、私たちを守り、導いていて下さっていることを知らされて洗礼を受けて、聖霊が与えられたのです。そんな私たちだからこそ、自分を分け与えていく軛、つまり十字架という軛、それを負うことが出来るのです。

とはいっても私たちは所詮罪人です。自分が苦しい時に自分が楽になることばかり考えるのです。でもだからこそ、私たちに聖霊が与えられていて、いつでも、どこでも、どんな時でも、聖霊に自分を委ねて、十字架の軛を負って生きていくことが出来るように整えられているのです。

主イエスが昇天して以降、教会は約2000年間、聖霊の働きによって守られて、導かれています。その間にはもうだめかと思うような危機が、いくつもあったのです。でも聖霊が、いつも守って導いて下さっているが故に、今日まで教会は歩み続けることが出来ているのです。

その教会に、今、私たちは集められて、御言葉を通して、三位一体の神の御自分を分け与える愛による救いが示されているのです。三位一体の神の御自分を分け与える愛とは、主イエスの十字架・復活・昇天による救いの御業です。その救いを信じるなら、私たちはもはや、自分に安心感を与えそうなこの世のものを求めていくことや、自己愛に浸っていくこと(私たちが浸ったのは、父・子・聖霊の三位一体の愛の交わり共同体の関係の中に住まう命です。)から解放されるのです。

詩編24編3節以下に、こう記されています。「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。それは主を求める人。ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。」

私たちは自己愛から、自分に安心感を与えるこの世のいろんなものに心を奪われていくのではなくて、ただひたすら、御自分を分け与える三位一体の神の御顔を、尋ね求めていきたいと願います。

礼拝は、私たちの疲れや、私たちの心が慰められるための道具ではありません。何かを私たちが得る手段として、礼拝があるのでは無いのです。そうではなくて、私たちが、三位一体の神の分け与える愛が与えられたこと。もっと言うと、主イエスの十字架・復活・昇天の御業による救いが与えられたこと。そのことを喜んでいることを表明したいが故に、礼拝を捧げているだけなのです。

主イエスの救いを無理矢理ではなくて、自然に心から喜んでいること。感謝していること。それが礼拝の原動力になっていてこそ、神の祝福として、自分を分け与えながら、三位一体の神・自分・隣人の豊かな三位一体の愛の交わり共同体を、つまりは教会を、育んでいけるようになるのです。そして、そういう共同体を、別の言葉で言えば、そういう神の国である教会を、人々が味わってこそ、福音を信じる人たちが、次々に起こされていくようになるのです

そのことを心に刻み込んで、今週一週間、皆さんと共に豊かに歩んでいけるようになりたいと、心から願っています。

最後に一言お祈りさせて頂きます。