マタイによる福音書6章26節 「神がおられるところ」
牧師 野々川 康弘
今日は、マタイによる福音書6章26節を、皆さんと共に学びたいと思います。この箇所は、5章~7章の山上の説教に属しています。
山上の説教を聴きに集まっていた人たちは、色々な苦しみや、悩みを抱えていました。その日の食べ物が無い貧しい人たち。生きていることに疲れきった人たち。そういう人たちが、集まっていたのです。
主イエスはそういう人たちに、あなたがたの悩みや苦しみは、天の父が知っている。天の父があなたがたを養っている。そのように慰め、励ましていたのです。
これは決して他人事ではありません。私たちも、色々な苦しみや、悩みを抱えています。でも神は、そのことを知っていて、いつも最善な道に導き、養って下さっているのです。
26節の、「空の鳥をよく見なさい。」という言葉は、ルカによる福音書では、「カラスを見よ」そう記されています。
カラスは、旧約聖書では、エリヤに食べ物を運んだ鳥なのです。でもそれは例外で、カラスは当時、人々から嫌われている汚らわしい鳥でした。そんなカラスのことを、主イエスは、「あなたがたの天の父は、カラスを養ってくださる。」そう言ったのです。それが意味しているのは、「みんなから嫌われているカラスでさえも、父なる神は、愛の御手を差し伸べて養って下さっている。」そういうことです。そして、その続きとして、「あなたがたは、カラスよりも価値あるものではないか。」そう主イエスは言われたのです。
つまり、苦しみ、悩み、悲しみ故に、「慰めらたい!」、「励まされたい!」、「希望を与えられたい!」そう願っている人たちに対して、「みんなから嫌われているカラスでさえ、父なる神は、愛の御手を差し伸べて、養っておられる。そんな父なる神は、あなたがたのことを、気にかけないはずがない。」そう主イエスが言ったということです。
でも私たちは、「あなたがたはカラスよりも価値あるものではないか。」そう言われているのにも関わらず、時に、神から見捨てられた気ように感じる時があるのです。
私のことで言えば、「人から認められていない。」そういった思いが強くなってくると、神から見捨てられたように感じてしまう自分がいるのです。
何でそうなるのでしょうか。それは、頭では、神に養われていることを理解していても、実感が伴っていないからです。
あるクリスチャン心理学者は、このように言っています。「神の愛の御手の中で、養われているという感覚。それを人間が分かることは難しい。その理由は、この世は、ある一定の条件を自分が満たさない限り、愛されない現実があるからである。」
私はその通りだと、思っています。
確かにこの世は、自分が人の必要を満たさない限り愛されないのです。等価交換なのです。分かりやすく言うと、ギブ&テイクが出来なければ、愛されないのがこの世なのです。
よく私や聖香は、藍先生に、「こんなにしてやっているのに何で恩を仇で返す。もうしてやんない!」そう言われます。私もそういう言い方をしてしまうことがあります。家庭の中でも、等価交換が出来なければ愛されないのです。自己承認欲求が強いのです。それ程までに人間は、自己中心な罪人なのです。そういう自己中心の罪人の集まりだから、この世で生きていくためには、悩みや苦しみが伴うのです。
主イエスはそういったことは、100も承知だからこそ、空のカラスをみなさい。カラスは、「種も蒔かず」、「刈り入れもせず」、「倉に納めもしない。」そう26節で言われたのです。
「種も蒔かず」、「刈り入れもせず」、「倉に納めもしない」。これらの言葉は、全て否定形になっています。つまり、否定形を使うことで、「神は、あなたがたが何も出来なくても、あるがままのあなたがたを受け入れて、のびのび自由に生きることが出来るようにして下さる御方である。」そう私たちに言っているのです。
私の敬愛する牧師先生が言ったことを、私は思い出します。彼は、「私たちは、もともとエデンの園では、神に造られたあるがままの裸の姿で、ただ生かされていることを喜んで暮らしていた。でも、今の私たちは、それが出来なくなっている。その理由は、アダムが神のようになりたいと願って、神に背を向けて以降、あるがままでいることに、恐れと恥を、覚えるようになってしまったからだ。神が造られたままの自分を否定して、神との関係から遠ざかり、自分が神のようになることを望んだ結果として、人は、あるがままの自分を否定する存在、自分を神とするが故に、承認欲求が強い存在になってしまった。だから人間は、生きづらさを覚える存在になってしまった。」
確かにそうです。罪が人類に入って以降、あるがままの自分を、裸の自分を、隠すようになったのです。その証拠が創世記3章10節~11節です。そこを見ますと、「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」そう記されています。
罪が人類に入って以降の私たちは、神から離れ、自分を中心に考えるようになったのです。そんな私たちは、いつも、あるがままの自分を恐れるのです。裸でいる自分を恐れるのです。でも神は、御自分から離れて、自分を中心に考えるようになった私たちを、あるがままの自分を恐れている私たちを、裸でいることを恐れている私たちを、そのまま受け入れるのです。
その証拠に神は、罪が人類に入り込んで以降、神との関係から離脱して、神に造られたままの自分を否定した私たちを、神との関係から離脱して、自分が神のようになりたいという思いを抱いて生きづらさを覚えるようになった私たちを、神との関係の断絶という罪が入ったままの私たちを、主イエスの御力によって、別の言葉で言えば、主イエスの十字架・復活・昇天の御業によって、神との関係、隣人との関係に、のびのび生きられるようにして下さったのです。
そうであるならば、神への背反という罪が入ったままの自分を必死に否定して、「自分の力で神との関係に生きよう。自分の力で父なる神の言っていることを守って生きよう。」そう思うことは、神への背反という罪が入ったままの私たちを引き受けて、私たちを日々、神の子らしく変えていって下さる神の働きを、かえって邪魔をすることになるのです。
私たちは、神への背反という罪が入ったままの私たちを引き受けて下さる神の愛を、否定してはいけないのです。
でもどうでしょうか。私たちはともすれば、「神への背反という罪が入ったままの自分を引き受けて下さらなくても良い。自分の力で、神のように自分の義を打ち立てることが出来る。」そう豪語する歩みになっているなんてことはないでしょうか。もし、そういう歩みをしているとすれば、それは、主イエスの十字架・復活・昇天の御業の否定になります。
日本語に慇懃無礼という言葉があります。この言葉の意味は、態度や言葉が丁寧すぎて、かえってそれが無礼になるという意味です。
真に、「自分はあなたの愛に応えて自分の力で一生懸命聖くなります。」そういう宣言は、慇懃無礼です。神の御前に素直ではないのです。
ある神学者はこのように言っています。「自分の中の悪魔と出会ったなら、自分で格闘せずに、神の懐に逃げることが大切だ。人間が自分の力で悪と戦って勝てる道理はない。」私はその通りだと思います。
今日、神は、「『種も蒔かず』、『刈り入れもせず』、『倉に納めもしない』カラスが、生き生き生かされているのは神の力である。神への背反という罪が入っているままのあなたを、恥とせず、恐れとせず、喜んで受け入れて、生き生きと生きていけるようになるためには、私の独り子、主イエスの十字架・復活・昇天の御業を受け入れることである。あなたは、神への背反という罪が入っているままの自分を、ちゃんと私の前に注ぎ出せばそれで良い。」そのように、此処にいる一人一人に語りかけて下さっています。
皆さん、神への背反という罪がある自分を喜びましょう。何故なら、神への背反という罪がある人が、神の独り子主イエスの、十字架・復活・昇天の御業に生かされるようになるからです。
「私は、主イエスの十字架・復活・昇天の御業を信じているキリスト者です。私は、神への背反の罪があるが故に、神を愛することが出来ません。従って、隣人を愛することも出来ません。」そう口では言いながらも、自分で自分を日々必死に支えて、自分で神の義を得られるような偉大な人物に見られないことを恐れて、自分を隠す人。自分が神のように、大きな存在であるように人々から見られないことを恐れて、自分を隠す人。それが、主イエスの十字架・復活・昇天の御業を否定する慇懃無礼な人です。
具体的にいえば、普段は、「神や人と関わるのが面倒くさい。しんどい。」そう言って、いつも神に祈らず、人との交流を極力避けているにも関わらず、それが表沙汰になって批判されることを恐れて、公の前では神に熱心な祈りをして見せたり、心の中では隣人に対して舌を出したりしているくせに、さも隣人を愛している素振りをしている人。そういう人が、神に対して慇懃無礼な態度をとっている人です。
教会は、主イエスの救いを喜んでいる群れです。ということは、教会は、神への背反という罪が入ってしまっているままの自分を隠さず、出していく群れということになります。神を愛することが出来ていないが故に、隣人を愛することが出来ないままの自分を出すことを、恐怖に思ったり、恥と思ったりせずに、隠さずに出すことが出来てこそ、主イエスの十字架・復活・昇天の御業が与えられて、神の子らしく整えられていくようになるのです。
自分が神を愛して、隣人を愛することが出来ているのを、頑張って見せることが出来るところが、神がおられるところではないのです。そうではなくて、神に背反している罪があるが故に、神を愛せなくなっていて、隣人を愛することが出来なくなっている罪深い自分がいることを、ちゃんと認めて、告白出来るところにこそ、神がおられるのです。
今日のほのかさんの証の中にもありました。私たちが神に背を向ける罪を、そのまま引き受けて下さる無条件の愛が、主イエスの十字架の愛です。私たちは、その主イエスの十字架の愛を受けるために、どんどん神を愛することが出来ない自分や、神を愛せないが故に、隣人をも愛せない自分の罪を、教会で告白していけば良いのです。
教会がそういうところになっていってこそ、罪が神に浄化されていって、復活の命が与えられて、聖霊の導きが、より分かるよう導かれていくようになるのです。
そのことを心に刻み込んで、今週一週間、皆さんと共に、豊かに歩んでいけることを心から願っています。
最後に一言、お祈りさせて頂きます。