ローマ信徒への手紙8章26節-30節
「万事を益とする神」
牧師 野々川康弘
今日の26節を見るなら、「弱いわたしたちを助けて下さいます。」そう記されています。しかし、原文では、「私たちの弱さを助けて下さいます。」そうなっているのです。更に言うと、原文では、「弱さ」という言葉が複数形になっています。つまり、原文が言っているのは、「私たちの全ての弱さを助けて下さいます。」そういうことなのです。
実は、パウロが今日の箇所で特に見つめているのは、「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」ということです。
パウロは、私たちがかかえている色々な弱さの中で、最も大きなこととして見つめていることは、「どう祈ったらよいかを知らない」私たちの弱さです。
どう祈ったらよいのか分からない。祈ることが出来ない。つまり、神なんか居ないとして、神と対話することが出来ないこと。それが私たちの弱さの中心的なものです。
神なんか居ないとしている人は、神と対話をしようと思わないのです。だから、無神論者の祈りは、自分の弱さを覚えた時に、自分に御利益が齎されることを、祈ることしか出来ないのです。
つまり、何処までいっても、自分のことを中心にしてしか、考えることが出来ないのです。
皆さん、パウロが考えている「祈り」は、苦しみからの救いを願う「祈願」が中心的なことではありません。パウロが考えている「祈り」の中核を成しているものは、神を礼拝することです。つまり、神の御前に立って、神を拝んで、御言葉に聴いて、神と共に生きることが、パウロが考えている「祈り」です。
そこで、私たちに問われることがあります。それは、私たちは、パウロが考えている「祈り」を、普段からしているか?ということです。「祈願」程度の、祈りとは言えない祈りに、止まってしまっているなんてことはないでしょうか。
もし、「祈願」程度の祈りに、留まっているのであれば、私たちはまさに「どう祈るべきかを知らない」者なのです。
自分勝手な願いや、自分勝手な希望を、並び立てるような祈りしか出来ないならば、神の御前に立っているとは言い難いのです。もっといえば、神の御前にちゃんと立って、神を拝んで、神の御言葉に聴いて、神と共に生きることができていないと言わざるを得ないのです。
実はそれが、罪深い、弱い私たちの姿なのです。
そういう私たちの弱さが、この世で生きるうちに、神や神の救いの完成を、この目で見ることができないことと深く関わっているのです。
今日の箇所の前の、24節~25節に、こう記されています。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」
私たちの信仰は、希望を持って、まだ目に見えないものを待ち望む信仰です。
では、一体何を待ち望んでいるのでしょうか。それは、23節に記されていることです。そこを見ますと、「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」そういう言葉が記されています。
この言葉が意味しているのは、「この世界が終わる再臨の時、私たちも主イエスと同じように復活して、永遠の命が与えられる。そのことを、希望として今を生きている。」そういうことです。
私たちは確かに、主イエスの救いを信じたその時から、既に神の子とされています。でも、死んだ後に復活して、今とは全く違う新しい体が与えられて、神と、神を信じる人たちと、永遠に生きるようになる永遠の命には、未だに与ってはいないのです。それらのものに、与ることが出来るようになるのは、この世が終わる再臨の時なのです。
それまで私たちは、自分が神の子とされていることを、この目で確認することは出来ないのです。私たちは、いずれ本当の神の子にされるという希望に、生きているにすぎないのです。
だからこそ、目に見えない本当の神の子にされることを、待ち望みつつ生きるためには、忍耐が必要になるのです。でも、その忍耐がなかなか出来ないのです。それが、私たちの弱さなのです。目で見ることが出来ない神の約束。まだ完全に現実していない、本当の神の子にされる救いの約束。それを、忍耐して、待ち望むことが出来ないのです。
目に見える何らかの助け。目の前にある自分に合った良さそうな助け。それを、第一に求めてしまうのです。特に、苦しみや悲しみの中で、そういったことが良く起こりうるのです。
苦しい時、目に見える形で、自分の願いが叶えられない時に、神離れということが、残念ながら起こってくるのです。そして、信仰を失ってしまうのです。
どう祈るべきか知らない弱さは、もっとはっきり言うと、祈れない弱さは、私たちを、目に見えるこの世の現実に、飲み込まれるように誘うのです。
そのようにして、更に私たちに神を見失いさせて、礼拝から遠ざけさせて、救いの完成への希望を失いさせて、神を待ち望めなくなさせるのです。
神を待ち望めなくなった時、私たちが一番恐怖することは、私たちが「死ぬこと」です。この「死ぬこと」の中には、精神的なものも、肉体的なものも含まれています。
しかし、その「死」への恐怖が、「死」に抗うことが、出来るわけがないという絶望が、私たちを、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を、見つめるように、私たちを導くのです。
皆さん、主イエスの救いと出会ったなら、死に対する恐怖から、私たちは解放されるようになるのです。その結果、精神的な死も、肉体的な死も、絶望にはならなくなるのです。むしろ、自分の死を感じてしまうような、究極的な弱さの中にあるときにこそ、復活の希望に燃えて、生きることが出来るようになるのです。
人生の歩みの中で、たとえ理不尽な目にあっていても、自分の心が悲鳴を上げていても、自分の力不足を痛感していても、自分の願っていたことが、なかなか実現していかない時も、悲しみや、苛立ちを覚えている時も、自分の罪によって、人を傷つけて、自分も傷ついて、人間関係の破れの悲惨さの中に、陥っている時も、28節に記されている通り、神が万事を益となるように導いて下さることを信じ、神に委ねることが出来るようになるのです。
色々な弱さをかかえる私たちは、裏切られたり、苦しめられたり、悲しまされたりしたならば、心が弱って、力を失うのです。
でも、そういう時にこそ、自分の気持ちは横に置いておいて、神の御前に出て、神を礼拝して、御言葉を聴いて、神に自分の重荷を委ねて、生きることが出来たなら、つまり、パウロの言う「祈り」が出来たなら、自分の心ばかりを見つめているだけでは、決して得ることが出来ない、慰めと支えが、与えられていくようになるのです。
パウロの言う「祈り」を知る人は、たとえ弱さの中にあっても、それに押しつぶされることなく、歩むことができるのです。だから、祈ることができないことが、私たちが抱えている色々な弱さの中心であり、根っこなのです。
私たちの内に住む聖霊は、祈ることが出来ない私たちを、どう祈るべきかを知らない私たちを、助けて下さるのです。原文を見て見ますと26節に記されている「助ける」という言葉は、合成語であることに気付かされます。「助ける」という言葉は、「共に」、「代って」、「取る」という言葉の合成語です。つまり聖霊が助けて下さるとは、祈ることのできない私たちと共にいて、私たちに代わって祈って下さって、私たちの「うめき」を引き取って、父なる神に伝えて下さるということです。
私たちと共に父なる神の御前に立って、うめいて祈れない私たちの代わりに、私たちのうめきを引き取り、父なる神にうめきながら、私たちのうめきを説明して下さるのが、聖霊の「執り成し」です。
因みに執り成しとは、二人の間に立って、仲を取り持つことです。両者が良い関係を築くために骨を折ることです。それを、父なる神と、私たちとの間で、聖霊はして下さっているのです。父なる神と私たちの関係は、別の言葉でいえば、父なる神と私たちの交わりは、パウロが言っている、祈りにおいてこそ成立するのです。
そうは言っても私たちは、神の御前に立って、礼拝して、御言葉に耳を傾けて、神と共に生きるという広い意味での「祈り」によって、神との関係を、築いていくことが、なかなか出来ない弱い者です。
弱い私たちは、目に見えない神や、神の約束をすぐに疑うのです。なかなか神を信頼することが出来ないのです。すぐに目に見えるものに、より頼もうとするのです。そんな弱い私たちを、聖霊が助けて下さって、父なる神と交わりを持って生きることが出来るように、執り成して下さっているのです。
27節を見ますと、こう記されています。「人の心を見抜く方は、〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます。〝霊〟は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」。
「人の心を見抜く方」とは、父なる神のことです。父なる神は、私たちが心の奥に隠している全ての思いを見抜き、知っておられるのです。私たちは、自分の思いを、人に対しては、隠しておくことが出来ます。でも、神に対しては、隠しておくことは出来ないのです。
実はそれこそが、罪深い私たちにとっては、とても恐ろしいことなのです。
その理由は、私たちの心の内には、色々な罪の思いがあるからです。私たちは、大なり小なり、人には見せていない色々な弱さがあるのです。その弱さの中心に、「どう祈るべきかを知らない」弱さ、神との関係を築くことが出来ない弱さがあるのです。そんな私たちの弱さを、神は全て見抜いておられるのです。
でも興味深いことに、パウロは27節で、「人の心を見抜く方は、人の思いが何であるかを知っておられる」そうは言っていないのです。そうではなくて、「人の心を見抜く方は、〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます」そう言っているのです。
つまり、パウロがここで言わんとしていることは、神は私たちの心を、全てお見通しだから、何も隠しごとが出来ないということではないのです。そうではなくて、全てをお見通しである神は、私たちの心を見つめる時、私たちの内に宿らせて下さった聖霊の思いを、見つめて下さっているということなのです。
では、聖霊の思いとは一体何でしょうか。
それは、私たちと、父なる神との関係を、良いものにしようとする思いです。父なる神は、いつでも、その聖霊の思いを見つめて下さっているのです。
27節後半に、「〝霊〟は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださる」そう記されています。
聖霊が、私たちと父なる神との関係が、良くなるように執り成すこと。それが父なる神の御心なのです。私たちと御自分との関係を執り成すため、父なる神は、聖霊を私たちの内に宿らせて下さったのです。
その聖霊の執り成しによって、私たちは、主イエスの十字架・復活・昇天による救いの恵みを、知ることが出来ているのです。
聖霊によって、主イエスの救いの恵みを、日々深く知って、日々主イエスと、深く結び合わさっていくようになっていくこと。それが「霊の思い」なのです。神はその「霊の思い」を通して、私たちを見つめて下さっているのです。
だから私たちは、「人の心を見抜く」神を、怖がる必要は全くないのです。主イエスの救いに信頼して、安心して、神の御前に立って、礼拝して、御言葉に耳を傾けて、神と共に生きる祈りをすれば良いのです。
聖霊が、私たちのためにして下さる執り成しは、言葉に表せない、うめきをもっての執り成しです。
聖霊が私たちと共に、私たちに代って祈る祈りは、「言葉に表せないうめき」です。それが意味していることは、聖霊は、弱い私たちと同じ場所に立って、共に歩んで下さっているということです。
では、「言葉に表せないうめき」とは、一体何でしょうか。それは、言葉に出来ない程の、苦しみのことです。
パウロの言う祈りを失っている私たちは、自分の弱さや罪の中で、言葉を失い、うめくことしか出来ていないのです。でも、父なる神が、私たちの内に宿らせて下さった聖霊が、私たちと共に、私たちに代わって、「言葉に表せないうめき」をもって、執り成して下さっているのです。
聖霊は、私たちのうめきを、御自分のうめきとして、神に届けて下さっているのです。そういう聖霊の執り成しによって、どう祈るべきか知らない、私たちのうめきが、神への祈りとなって、神との交わりが築かれているのです。
26節の冒頭を見ますと、「同様に」という言葉が記されています。一体、何と何が同様なのでしょうか。それは、22節と、23節のことと同様に、という意味です。
22節には、被造物全体がうめいて、産みの苦しみを味わっていることが記されています。
また23節には、霊の初穂を与えられている私たちキリスト者も、神の子とされて、体が贖われることを、うめきながら待ち望んでいることが記されています。つまり、この世が終わる再臨の時に、復活と永遠の命にあずかることを、うめきながら待ち望んでいることが記されているということです。
つまり、全ての被造物も、私たちも、そして私たちの内に宿る聖霊も、みんなうめいているのです。みんなうめきつつ、神による救いの完成を、待ち望んでいるのです。
「そこに、うめきにおける繋がりがある。」そうパウロは言っているのです。
でも私たちが、全ての被造物と繋がって、生きる者になるために、先ず聴き取らなければならないうめきは、聖霊が、私たちのうめきを、御自分のうめきとして、父なる神に届けて下さっているうめきです。
父なる神が、私たちの内に宿らせて下さった聖霊が、私たちのうめきを、御自分のうめきとして、私たちと、父なる神との間を、執り成して下さっている事実を知ること。それが大事なのです。
私たちがうめいていても、聖霊のうめきによる執り成しがあるからこそ、私たちは、父なる神と繋がっていられるのです。それを知っているとすれば、私たちのうめきに、希望を持つことが出来るようになるのです。
何故でしょうか。それは、私たちがうめいていることが、聖霊のうめきの執り成しの祈りに繋がっていて、その執り成しの祈り故に、父なる神と繋がっている私たちは、希望を持って、この世の終わりに来るであろう主イエスの再臨を、待ち望むことが出来るのです。父なる神と繋がっている私たちは、主イエスの再臨の時に、主イエスと同じ復活と、同じ永遠の命が与えられることが約束されているのです。
つまり、私たちのうめきは、復活と、永遠の命が与えられるための、産みの苦しみなのです。そのことをちゃんと知っているならば、自分のうめきを、希望のある苦しみとして、受け止めることが出来ているはずです。
そして、自分のうめきを、希望のある苦しみとして、受け止めることが出来ている人は、他の人たちのうめきも、人間以外の全ての被造物のうめきも、希望がある産みの苦しみとして、聴き取っていくことが出来るはずなのです。
でももし、他の人たちのうめきや、人間以外の全ての被造物のうめきを、聴くことが苦痛であるとすれば、うめきを産みの苦しみとして、聴けていない証拠です。
自分の力で生きていこうとしている人は、うめきを自分の自己啓発を妨げる不快分子にしか思えないのです。その結果、他の人たちのうめきや、人間以外の全ての被造物のうめきを聴くことを避けるのです。自分の力に頼って生きている人は、いつもうめきから逃避して、生きているのです。そう生きざるを得ない。
自分のうめきを、希望ある産みの苦しみとして受け止めることが出来てこそ、自分のうめきに埋没することなく、他の人たちや、人間以外の全ての被造物のうめきを聴き取って、うめきを共有して、うめきの先にある、希望に生きる交わりが、築かれていくようになるのです。
私たちはうめきを避けるのではなくて、うめきは、完全な神の子になる、新しい命が生まれる、希望のうめきであることを、心に刻み込んで、今週一週間も、皆さんと共に、豊かに歩んでいければと思います。
父なる神は、うめきが生みの苦しみになるように、つまり、万事が益となるように、私たちをいつも導いて下さっている御方なのです。
最後に一言お祈りさせて頂きます。