2025年2月9日仙台青葉荘教会礼拝説教

使徒言行録7章1節-16節
「キリストを宿す人」

牧師 野々川康弘

前回、申し上げました通り、最初の教会が、使徒たちに御言葉を語らせることに専念出来るようにしたこと。それが、ステファノの信仰を養い育てて、最高法院の人たちの前で、堂々と説教する人にまでなったのです。
そんなステファノの説教内容は殆どが、イスラエルの民の歴史です。
彼が最初に語ったことは、アブラハムのことです。イスラエルの民の歴史は、アブラハムから始まっています。2節~3節を見ますと、「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。」そう記されています。
此処で大事なことは、アブラハムが神の御言葉を受けて、神の示す地に旅立ったということです。
「あなたの土地と親族を離れ」そう3節に記されている通り、アブラハムは、慣れ親しんだ土地や、親しい人たちから離れて、神の示す地に旅立ったのです。そこに、聖書が教える信仰の本質があるのです。
信仰とは、安住の地を離れて、神の民として、この世を旅人として、寄留者として歩んでいくことなのです。
ステファノは、アブラハムのそのような歩みを、4節後半~5節前半で、こう語っています。「神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産を何もお与えになりませんでした。一歩の幅の土地さえも。」
この世を寄留者として歩むということは、何の財産も持つことなく、この世で旅人として歩むということです。
ということは、この世で、「これは自分のものだ!」そう言えるものを一切持つことなく、生きていくということです。
寄留者は、自分の持っているものに一切依り頼むことなく、生きているのです。
アブラハムは、そういう歩みをこの世でしている中で、神から一つだけ与えられたものがありました。それは、神の言葉です。5節後半を見ますと、「しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。」そう記されています。
アブラハムは、この神の言葉を信じて、安住の地を離れて旅立ったのです。実は、5節後半の神の言葉は、今はまだアブラハムの目には、目に見える現実となっていないのです。彼の目に見える現実は、一歩の幅の土地さえも与えられていないのです。しかも、アブラハムも、アブラハムの妻も、旅立った時には子供がおらず高齢だったのです。
そういった現実の只中で、「この地をあなたに与え、あなたの子孫に相続させる。」そういう言葉が神から与えられて、その言葉を信じて、安住の地を離れて旅立ったのです。しかも神は、アブラハムの子孫がエジプトに移住して、そこで四百年間、奴隷として虐げられること。その後、神が彼らをそこから導き出して、モーセによって出エジプトを起こして、カナンの地へ定住させること。それらのことをアブラハムに予告していたのです。
そんな予告をされたとしたら、皆さんは旅立つことが出来るでしょうか。私がアブラハムなら、「それは嫌です!」そう叫びたくなると思います。何故なら、人間側からすれば、到底祝福とは思えない旅だからです。
でも、嫌なことはそれだけでは無いのです。神はアブラハムに、「カナンの地へ定住させる」なんてことを言っていますが、カナンの地には、カナンの民が住んでいたのです。そういった現実があることを考えたなら、全く現実味のない話なのです。
そうであるにも関わらず、アブラハムは、神が言ったことだからその言葉を信じて、そこにたどり着くまでの苦難を受け入れることを決めたのです。だからこそ、安住の地を離れて、カナンの地を目指して旅立ったのです。それが、アブラハムの信仰なのです。
ステファノは大祭司に、そういうアブラハムの信仰を語ることで、こう言いたかったのです。「あなたがたは律法や神殿を拠り所としている。自分が神の民である目に見える保証を、そこに求めている。でも、イスラエルの最初の先祖であるアブラハムの時代は、まだ律法もなければ、神殿もなかった。アブラハムは、それらの目に見える拠り所や保証は何もない中で、ただ神の言葉のみに依り頼み旅立った。だからアブラハムは、信仰の父と呼ばれるようになった。イスラエルの民を神の民らしくするのは、そういう信仰である。律法や神殿なんかでは、イスラエルの民を神の民らしくすることは不可能である。真のイスラエルの民は、アブラハムと同じように、目に見える保証が一切ないところで、ただ神の言葉のみを信じて生きている人である。」
今言ったことを要約すれば、「目に見える保証に頼るのではなくて、神の言葉をちゃんと聴いて、生きていくことが大事である。」そう言っているということです。
そういうステファノの言い分を、現代の私たちに当てはめていえば、自分に安心感を保証してくれそうな目に見える何かに頼るのではなくて、目に見えない神の言葉をちゃんと傾聴して、生きていくことが大事であるということです。
私たちキリスト者は、口では主イエスの十字架・復活・昇天の救いを信じていると告白しています。
十字架に関して言えば、神の独り子である主イエスが、十字架の御業によって、神に背を向ける私たちの罪を引き受けられたことを信じていると告白しています。
また、復活に関して言えば、父なる神が、主イエスを死者の中から復活させたことを通して、私たちも、主イエスのように復活して、永遠の命を生きる約束が与えられたことを信じていると告白しています。
また、昇天に関して言えば、主イエスの十字架・復活を信じて生きているとしても、いつもそのことを信じ切れない弱い私たちであるが故に、主イエスの昇天の御業によって、聖霊が与えられたことを信じていると告白しています。
でも、それらの救いに拠り頼むよりも、自分に安心感を保証してくれそうな、目に見える何かに頼ってしまう現実が、私たちにはあるのではないでしょうか。
それは丁度、目に見えて、神の民であると、周りから認められる神殿や律法にはより頼むことはしても、目には見えない本当の神の民の保証である、主イエスの十字架・復活・昇天という救いに、拠り頼むことをしなかったギリシャ語を話すユダヤ人たちみたいにです。
私たちが、ギリシャ語を話すユダヤ人たちみたいになりやすい理由は、主イエスの救いの御業が、真実であることを証明する目に見える証拠や、保証は、何処にも無いからです。
主イエスの救いは、主イエスの救いを信じている人のみが、与えられている真実であって、この世の人たちが思っている普遍的な真実ではありません。
この世の多くの人たちは、主イエスの罪の身代わりの十字架も、主イエスの復活も、主イエスの昇天も、信じていないのです。また、キリスト教の三位一体の神が、本当の神であるということも受け入れないのです。
この世の多くの人たちは、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を信じなくても、天の御国に行ける。そう信じているのです。それが、この世の人たちが思っている普遍的な真実です。
主イエスの十字架が、私たちの罪の赦しのためだったという100パーセント確かな証拠も、主イエスの復活が、私たちの復活の希望であるという100パーセント確かな証拠もないのです。
私たちに求められているのは、100パーセント確かな証拠がない神の救いを信じて受け入れて、それによって、天に国籍があることを信じて、この世で寄留者として神と共に生きることなのです。信仰とは本来そういうものなのです。
この世で、目に見える心の拠り所となる安住の地を離れて、寄留者として生きるということは、何が起るかわからない未知の世界へ、冒険の旅に出るようなものなのです。
それが意味していることは、自分が安心出来る生き方を捨てて、主イエスのみを頼って生きていきなさいということです。それが信仰です。
実はステファノが、アブラハムの話の中で見つめていることがもう一つあります。それは7章8節の「割礼による契約」です。アブラハムは、目に見える保証や証拠は何一つ持たず、ただ神の約束の御言葉だけに頼って、歩んだのです。そんな彼に、神がご自身の約束の印として与えたのが割礼です。割礼は、神と共に歩む関係契約を結んでいること。神の民として歩んでいること。そういったことを、自分の体に刻みつけるためになされていたのです。
今風に言うと、好きな人の名前を、自分の体にタトゥーとして刻みつけて、好きな人とこの後ずっと、共に歩んでいく宣言を公にするようなものです。
でも、残念ながら割礼は、律法や神殿と同様に、目に見える拠り所となってしまっていたのです。たとえるならば、割礼が、アブラハムが心の拠り所にしていた故郷のようなものになりさがっていたのです。割礼が本来の意義から離れて、ユダヤ人が、自らを誇るためのものになり下がってしまっていたのです。そういったことを言っているのが新約聖書です。
そういったことから、新約時代に入って以降、割礼の本来の意義は、洗礼へと受け継がれていったのです。
ということは、洗礼が、神の民であることの拠り所となっているとすれば、洗礼も、アブラハムが心の拠り所にしていた、故郷のようなものになりさがっているといわざるを得ないのです。
もしそうであれば、神の言葉にのみより頼んで、神と共に、カナンの地のみを目指して、旅立っているキリスト者とは言えなくなるのです。
洗礼は、洗礼を受ければそれで大丈夫という目に見える保証なんかではないのです。
実は、教会の洗礼の意義が弱まってきた時に、洗礼ではなくて、信仰告白という内実に、重きを置いた一派が、プロテスタントの中に現れてきたのです。それがアナバプテストだったりするのです。
洗礼が人を救うのではありません。洗礼を受けるのは、私たちが自分の中に、目に見える救いの保証を持つためではありません。洗礼を受けるのは、目に見える洗礼を、自分の心の拠り所とするためではないのです。
私たちの救いはあくまで、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業にあるのです。その救いを信じて、神の御言葉にのみ依り頼んで生きている者である印を、私たちの心と体に刻みつけることが、洗礼なのです。
それはそうと、9節からは、ヨセフのことが語られています。ヨセフは兄弟たちに妬まれて、エジプトに奴隷として売られたのです。でも、9節~10節に記されている通り、神は彼を離れることなく、あらゆる苦難から助け出して、ついにはエジプト全体を司る大臣にまでしたのです。
このことは、後に大飢饉が起った時、イスラエルの民がエジプトに逃れて、生き延びるための備えだったのです。
ヨセフの話の中で、ステファノが見つめていることは、神は、御自分が発した言葉は、必ず実現される御方であるということです。
神は、兄弟を妬んで、兄弟を奴隷として売り飛ばすような人間の罪深さをも用いて、御自分がかつてアブラハムと約束したことを、奴隷として売り飛ばされたヨセフを用いて、着実に実現される御方なのです。
でも、ヨセフにとっては、奴隷として売り飛ばされるなんてことは、神に見放されたという感覚に陥る悲惨な出来事でしかないのです。でも神は、アブラハムのラインにあるヨセフから離れることなく、彼と共にいて働いておられたのです。
つまり神は、人間の罪をも用いて、御自分が約束した言葉。それをちゃんと成就するように、働かれる御方なのです。
ステファノによるヨセフの話は、たとえ目の前に、目を覆いたくなる悲惨な現実があったとしても、目には見えない神の導きを信じて、神に自分の身を委ねて生きていくことの大切さを教えているのです。
今日の結論です。
今日のステファノの説教から教えられたことは主に3つです。
1つ目は、この世を神の御言葉にのみより頼み、この世を寄留者として、天の御国に帰るその時まで歩んでいくこと。
2つ目は、キリスト者の救いは、目に見える割礼や洗礼なんかではなくて、あくまで主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業であること。
3つ目は、たとえ、目を覆いたくなるような、悲惨な現実が目の前にあったとしても、目には見えない神の導きを信じて、神に自分の身を委ねて生きていくこと。
今言った3つのことを、ステファノは、今日の箇所を通して教えているのです。そんなステファノの顔は、「さながら天使の顔のように見えた。」そう使徒言行録6章15節は証言しているのです。
捕えられ、裁判にかけられて、今まさに死刑にされそうになっているステファノの顔は、天使の顔のように輝いていたのです。天使の顔とは、どういう顔だったのでしょうか。
おそらくそれは、神に対する信頼と、喜びと平安に満ちた顔だったのではないかと思います。
ステファノは、自分の命が危機的状況の中にあっても、天使の顔のように輝いていたのです。
そんな顔でいることが出来たのは、この世の目に見える物や、自分の中にある何かに依り頼むのではなくて、ひたすら主イエスの救いを見つめていたからだと思います。
もし私たちが、この世の地位、財産、権威を欲していたり、目に見えない神ではなくて、目に見みえる何かしらの保証に拠り頼んでいたり、今自分が置かれている危機的な状況に、振り回されていたりしたならば、ステファノのように、天使のような、輝いた顔をすることは到底できません。
私たちの周りには、私たちの顔をくもらせる現実が満ち溢れているのです。それがこの世の現実です。
でも、ステファノが置かれていた現実世界も、私たちが置かれている現実世界と、全く違はなかったのです。
そうでありながらも、ステファノは、自分の顔をくもらせる現実が、満ち溢れていた只中で、ただひたすら、主イエスの十字架。復活・昇天という救いだけを見つめていたのです。そのことによって、彼の顔は、喜びと平安に満たされていて、天使のような、輝かしい顔になっていたのです。
私たちが何を見つめて生きるのか。それによって私たちの顔は、変わるのです。
今週一週間、皆さんと共に、主イエスの十字架・復活・昇天という救いだけをひたすら見つめて、喜びと平安に満たされて、天使のように輝く顔になることが出来るように、皆さんと共に歩んでいければと心から願います。何故ならそれが、キリストを宿す人だからです。
 最後に一言お祈りさせて頂きます。