2024年12月15日 仙台青葉荘教会礼拝

ヨハネによる福音書3章16節

「サンタクロースはイエス様」

牧師 野々川康弘

皆さんサンタクロースはいます。厳密に言えば、サンタクロースはイエス様です。

1897年9月21日に、ニューヨーク・ザ・サン新聞の社説に掲載されたことを、紹介させて頂きます。

ある時、ニューヨーク・ザ・サン新聞の新聞記者に、ヴァージニア・オハンロンという少女から、このような質問が投げかけられたのです。

「こんにちは、しんぶんのおじさん。わたしは八さいのおんなのこです。じつは、ともだちがサンタクロースはいないというのです。パパは、わからないことがあったら、ザ・サン新聞に聞いたらというので、ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースはいるのですか?」

この質問の答えが、1897年9月21日のニューヨーク・ザ・サン新聞の社説に掲載されました。それを読ませて頂きます。

「ヴァージニア、それは友だちのほうが間違っているよ。きっと何でも疑いたがる年頃で、見たことがないものは信じられないんだ。自分のわかることだけが全部だと思っているんだね。

でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでもわかっていることは少ないんだよ。この広い世界で、人間はアリと同じような小さな存在で、私たちは、この世界についてほんの少しのことしかわかっていないし、本当のことを全部わかっているわけじゃないんだ。

実はね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか、思いやりとか、いたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、それらがあふれているおかげで、人の毎日は夢があふれ、豊かで楽しいんだ。

もしサンタクロースがいなかったら、どんなに寂しいことだろう! ヴァージニアみたいな子が、この世にいなくなるくらい、とても寂しいことだと思うよ。

サンタクロースがいないということは、子どもの素直な心も、ものごとを楽しむ心も、人を好きになる心も、みんな無いことになる。

見たり、聞いたり、触ったりすることでしか楽しめなくなるし、世界をいつも温かくしてくれる、子供たちのまぶしい輝きも、消えてなくなってしまうだろう。

サンタクロースを信じられなかったら、妖精も信じられないだろうね。だったらパパに頼んで、クリスマスイブの日、煙突という煙突を全部見張ってもらって、サンタクロースを待ち伏せしてごらん。

サンタクロースが入ってくるのが見られなかったとしても、それで何がわかるというんだろう?

サンタクロースは人の目には見えない。けれども、それでサンタクロースがいないことにもならない。本当に大切なものは子供にも大人にも、誰の目にも見えないものなんだ。

妖精が原っぱで遊んでいるところを見た人がいるかな? そう、いないよね。でも、それでいないと決まったわけじゃないよね。世界で誰も見たことがない、見ることができない不思議なことは、誰にもはっきりとはわからないんだ。

赤ちゃんをあやすガラガラっていうおもちゃは、中を開けると、玉が音を鳴らしていることがわかるよね。

でも目に見えない世界には、どんなに力自慢の人でも、開けることができないカーテンみたいなもので、おおわれているんだ。

信頼、空想、詩、愛、ロマンスだけが、そのカーテンを開けることが出来て、その向こうにある、美しく素敵なものを、見たり描いたりすることができるんだ。

ウソじゃないかって? ヴァージニア、これは本当のことなんだよ。サンタクロースはいない? いや、今もこれからもずっといる。ヴァージニア、何千年、何十万年たっても、サンタクロースはいつまでも、子供たちの心をわくわくさせてくれると思うよ。」

ヴァージニアは大人になった時、ニューヨークの学校の先生になって、四七年間、子供たちを教え続けたそうです。ザ・サン新聞の、自分の質問に対する答えを聞いたヴァージニアは、本当に大切なものは「目に見えない」ものであるということを、学校で子供たちに教えたに違いありません。

ザ・サン新聞の記者の答から分かるのは、サンタクロースは目に見えないということです。目に見えないサンタクロースは、クリスマスの日のために、そっとクリスマスプレゼントを、皆さんの親に預けて、親を通してくれることもあるでしょう。また、直接、プレゼントを皆さんの家に届けてくれることもあるでしょう。

でも、「サンタなんか、目に見えないからいない!」とか、サンタクロースが、プレゼントを親に預けているのにも関わらず、「サンタではなくて、クリスマスプレゼントは、親が準備してくれたんだ!」そう思った瞬間から、サンタクロースは消えます。それは、目に見えないサンタクロースがいるという信仰が無いからです。信仰とは、目に見えない事柄を確信することです。

でも疑問になることがあるのです。それは、目に見えないサンタクロースは、どうしてクリスマスの日に、みんなにクリスマスプレゼントを届けるのかということです。

その謎を解く鍵は、目に見えないサンタクロースに遣わされた、祭司・ニコラウスを知ることです。祭司とは、牧師のことです。祭司ニコラウスは、ある時、貧しくて、生活が出来ないある家族のために、窓から金貨を投げ入れて、その家族を救いました。その家族の父親は、とても喜んで、なんとか御礼を言いたいと思って、誰が金貨を窓から投げ入れたのか、必死に調べたのです。そうしたところ、祭司・ニコラウスであったことを知ったのです。当然ながら、祭司・ニコラウスの足元にひれ伏して、泣きながら感謝しました。その時、祭司・ニコラウスは、「自分が金貨を窓から投げ入れた事を、誰にも言わないで欲しい。」そう言ったのです。

それは、自分がしたことではなくて、サンタクロースに押し出されて、祭司・ニコラウスがしたことだったからです。

此処まで言えば分かると思います。目に見えないサンタクロースとは、イエス様のことです。ザ・サン新聞の記者は、クリスチャンではありませんでした。だから、妖精のことも話しています。でも、妖精はいません。

それはそうと。何故、貧しい人に、金貨を与えるように、祭司・ニコラウスは、イエス様に示されたのでしょうか。その理由が、イザヤ書61章1節にあります。そこには、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知するために。」そう記されています。

簡単にいうと、祭司・ニコラウスは、貧しい人を、金貨で救う行いを通して、イエス様の罪からの救いを、目に見える形で現わしたかったのです。

ルカによる福音書5章31節~32節を見ますと、こう記されています。「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなくて病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』」

イエス様が生きておられた時、人間ではどうすることも出来ない病気。それを癒す業をなさいました。その癒しの業が指し示しているのは、神様にあっちむいてほいになる罪という病気を抱えている人を、イエス様が救うということです。祭司・ニコラウスが、貧しい人に、金貨を与えるという行為も、神様に、あっちむいてほいになる罪という貧しさがある人を、イエス様が救って下さることを示すためだったのです。そのイエス様の救いは、祭司・ニコラウスから出るものではないのです。イエス様から出るものなのです。だから、祭司・ニコラウスは、自分が金貨を、窓から投げ入れて救ったことを、誰にも言わないで欲しいと言ったのです。それは、自分がしたことではなくて、イエス様がしたことだったからです。

世の中では、祭司・ニコラウスがしたことが、「サンタクロースが、夜中にこっそり家に忍び込んで、プレゼントを置いていく」という伝説になって、サンタクロースが誕生したことになっています。でも、それは違います。目に見えないイエス様が、祭司・ニコラウスに働いて、「夜中にこっそり家に忍び込んで、プレゼントを置いていく」という伝説を造られたのです。それは、クリスマスの時に、目に見えないイエス様に押し出されて、プレゼントを配る人たちを、沢山起こすためです。何故、イエス様はそんなことをしたのでしょうか。

目には見えないイエス様は、クリスマスプレゼントを通して、一体私たちに何を伝えたかったのでしょうか。

それは、神の御子、イエス様が、私たちが神様に、いつもあっちむいてほいになってしまう罪の身代わりとなって、十字架に架かって死んで下さったことを信じる者が、一人も滅びないで永遠の命を得るために、この世にお生まれになられたことが、クリスマスの最大のプレゼントであるということです。

目には見えないサンタクロースであるイエス様から、直接的に、あるいは、お父さんやお母さんを通して、皆さんは、クリスマスプレゼントを受けとっています。その時に、皆さんが感じ取らなければならないことは、皆さんが神様に、いつもあっちむいてほいになってしまう罪があるから、イエス様が、御自分の命を私たちにプレゼントするために、この世にお生まれになられたということです。

イエス様は、御自分の命を私たちにプレゼントするために、この世にお生まれになられたのです。そんなクリスマスを、心から感謝して迎えることが出来ればと思っています。

今日は、アドベント第三週です。今日は、羊飼いの蝋燭に火が灯っています。この蝋燭は、羊飼いたちが、救い主を見出した喜びのピンクの蝋燭です。私たちは、羊飼いたちのように、救い主なるイエス様を見出して、心から喜べているでしょうか。

そのことを、今週一週間、皆さんと共に自己吟味していくことが出来ればと、心から願っています。

最後に一言お祈りさせて頂きます。