2024年12月8日 仙台青葉荘教会礼拝説教

「男性の愛・女性の愛・そして神の愛」

酒田暁星教会 関戸直子伝道師

2024.1208.Shyuuhou-1

今日は、聖書の中から、「愛について」、特に女性の愛の表現はどんなもの
か、男性の愛の表現はどんなものか、そして神様の愛とはなにか?いう角度か
らお話させていただきます。
聖書に登場する人物が、男性か女性かで、イエス様を愛する表現がちょっと
違う。今日は、そんなことを、感じていただきながら、
① 女性の愛 ②男性の愛 ③神の愛 の 3 つに分けてお話します。
① 女性の愛
ルカ7:36~
「あるときファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イ
エスはその家に入って食事の席につかれた。」

ファリサイ派とは、律法を厳しく守っている一派人たちの事です。
この時のイエス様の状況を少し説明させていただきますと 7:34 にありますよ
うに、イエス様は「大食漢で大酒のみだ」「徴税人や罪人の仲間だ」「悪霊に取
りつかれている」と思われている状況でした。
ですから、このときファリサイ派の人がイエス様を招いたのは、イエス様の
教えに感動したからではありません。食事に招いて、イエスの弱点を見つけ、
化けの皮をはがしてやるというような目的からでありました。
そのときです
37 節
「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人 の家に入って
食事の席についておられるのを知り、香油の入った石膏のツボをもってき
て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙で濡らし始め、
自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」
「罪深い女」とありますが、当時男女の関係で姦淫を犯したときは、一方
的に女性に罪があるとされました。男性には罪はなく女が責められた時代で
す。当然男性も罪を犯しているわけですが、そこは罪とみなされないという
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時代です。 そしてこの女は、この町でも有名な罪深い女とされていたので
しょう。
この人は、イエス様の足元にひざまづき、涙を流してイエス様の足をぬら
し、自分の長い髪でそれをふいて、香油といういい香りのする油を足に塗り
ました。
当時、尊敬する人を迎えるときは、その家の人がお客さんの体に塗るので
すが、ファリサイ派はイエスを尊敬すべき客として迎えていませんでしたの
で、足を洗う水も、香油も注ぐことはしなかったことがわかります。
でも、この女性は足を洗い、香油を塗るという尊敬する人のための愛の行
為をいたしました。しかも自分の内側からこみ上げてくる愛の涙で、イエス
様の足に口づけし自分の髪の毛でぬぐったのです。イエス様を慕う彼女はそ
うせずにはいられない気持ちでありました。
女性というのはしばしば、愛している相手に対して愛の感情があふれると
近づいて抱きしめたり、相手に触れようとしますね。これは女性にはわかる
感情じゃないでしょうか。
これを読みますと思いだす、同じような状況が聖書のほかのところにも書
いてありますね。それはマルコ福音書 14:3 に出てくる女性であります。
マルコ14:3
「イエスがベタニアで思い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に ついて
おられたとき、一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の
ツボをもってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」
この女性も、イエス様に対して愛があふれて、自分の持っている大変高価な
ナルドの香油を、頭に注ぎかけたのでした。
ナルドの香油というのは、300 デナリオン以上と書いてありますので、日本
円で 300 万円ぐらいですね。聖書巻末の 54 ページを見ていただくと分かるの
ですが、デナリオンというお金の単位はローマの銀貨で、一日の賃金に当たる
とあります。ですからだいたい、300 デナリオンというと、人が約一年間働い
たお金くらいの価値のある香油でした。それをおしみなく注ぎかけたというの
ですから、どのくらい大きな愛でしょうか。それくらい女性は愛する人に尽く
す愛情をもっているのです。
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香油を注ぐ愛という行為は、わたしたちにはよくわかりませんが、たとえば
日本人でいうなら、お母さんが家族の朝昼晩のご飯を作ることに置き換えたら
わかるかもしれませんね。
母親というのは、一年 365 日どころか、何十年も家族のために、朝昼晩と、
毎日毎日食事の支度をするじゃないですか。「今日はご飯なしだからね。」とか
言わないじゃないですか。自分がどんなに疲れても、子どもと夫、お年寄りが
いたらその分まで、毎日温かいご飯を作りますよね。これは当たり前のようで
すが、とても大きな愛だと思いませんか?
女性は子育ての時は、自分よりも子供の事を優先にして、やれ学校だ、習い
事だ、部活だと世話をし、子どもが大きくなって家を出て独り立ちするまで
に、たくさんの愛と労力を家族に注ぐわけです。これはまさに 300 万円以上の
愛といえるのではないでしょうか。女性の愛というのは、情緒的な無償の愛を
相手に注ごうとします。
47 節
「この人が多くの罪をゆるされたことは、私に示した愛の大きさでわかる」
そしてイエスは女に「あなたの罪はゆるされた、あなたの信仰があなたを救っ
た。安心していきなさい」と言われた。
この女性の示した最大の捧げものの愛の香油は、自分の罪がゆるされ、心の
傷が癒されるという最高の実を結びました。
② 男性の愛
では男性の愛はどのような愛でしょうか?見ていきたいと思います。
このときイエス様の周りにいたのは、ほぼ男性だけだったと思います。彼等
には、この女性が示した愛はほとんど理解できませんでした。彼らの目にはい
ったのは、この女はこの辺でも有名な罪深い女だ。呼ばれてもいないのに突然
入ってきた非常識な女だ。そのうえ泣き崩れてお客にすがっている。なんて愚
かな女だろう・・・ということでした。
そして、それを赦している主イエスにたいしても、「この女がどんな素性なの
か、預言者ならわかりそうなもんだ。わからないところを見ると、これはやっ
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ぱり預言者ではないな。偽物でいい加減な徴税人の仲間だ。罪人だ。やはり自
分たちの方が正しい。」とそんなふうに思ってたのでしょう。
ただ、この言い分は、男性の視点から言うと間違ってはいないのです。 男性
というのは、社会的に正しいかどうか、責任を果たし、契約や秩序が守られて
いるかどうかが、愛を感じる力点でもあるからです。
そこでイエス様は、男性たちに向かって説明を始めました。
「シモン、あなたに言いたいことがある」このシモンというのは、イエス様
の弟子のシモンペトロですね。そうと言われると、
40節
シモンは、「先生、おっしゃってください。」といった。イエスはお話になっ
た。「ある金貸しから」二人の人が金を借りていた、一人は 500 デナリオン、
もう一人は 50 デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両
方の借金を帳消しにしてやった。二人の内、どちらが多くその金貸しを愛する
だろうか」シモンは帳消しにしてもらった額の多い方だと思います。と答え
た。イエスは「その通りだといわれた。
そして女のほうを振り向いて、シモンに言われた、この人を見ないか、私が
あなたの家に入った時、あなたは足を洗う 水もくれなかったが、この人は涙で
私の足を濡らし、髪の毛で拭ってくれた。あなた私に接吻のあいさつもしなか
ったがこの人は入ってきて私の足に接吻してやまなかった・・・」と続きま
す。

つまりお金に換算してこの女性の愛を通訳したわけです。男性は、数字やお
金に言い換えると理解しやすいんですね。イエス様は男性の性質もよくわかっ
ていらっしゃいました。
ベタニアの女がナルドの香油をイエス様の頭に注いだ時も、その行為は まわ
りの男性には理解できませんでした。香油を注いだ女に対して、男性たちは憤
慨して怒り出したとあります。
マルコ14:4
「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は 300 デナリオン以上
に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに。」そして彼女を厳しくとがめ
た。
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男性たちは、ナルドの香油を 300 デナリオンで売ってお金に換えて貧しい
人に施すほうがいいのに何をするんだ、と怒ったわけです。これは極めて男性
らしい感覚なのです。社会的に貧しい人を救うことが自分たちイエスの弟子の
仕事だ、責任だと思っていますから、高価なものを、ただ流して無駄遣いする
のは許せないという理論なわけです。
男性の愛というのは、社会性を持っています。ですから理屈で処理できない
感情が優先することはありません。
また男性にとって場をわきまえるということは結構大切です。
今日のルカ 7 章の場面で言いますと、女性は、感情が高まってイエス様にす
がりたくなる気持ちは、わかるわ~、となるのですが、
男性はよそのお宅に招かれているわけでもないのに、いきなり罪深い女が入
ってきて、イエス様の足にすがりついて泣く、なんてことは、もう男性にとっ
ては驚きの行動なわけなのです。彼らの脳には理解できないことがおこってい
るんですね。
夢中になると女性というのは空間認知が弱くなるんですね。周りの事を考え
ないで、おばさんたちが、大きな声でべちゃくちゃしゃべるのはそのせいで
す。空間を認知できない。
以前、こういうことがありました。市役所の喫茶コーナーで、4 人掛けのテ
ーブルに座って中年の女性 3 人が、たぶんどこかのパートの方でしょう、上司
の悪口を大きい声でしゃべってるんですよ。まわりには、たくさんの人がいて
ね。みんな聞きたくなくても聞こえちゃってるんですよ。誰も言いませんけ
ど。スマホ見てるふりしてね、みんな聞こえてます。わたしもそれをみて、自
分も気をつけなきゃいけないと認知しました。
聖書に戻ります。
そういう男性の批判に対して、イエス様は「何を言っているんだ!」と怒っ
たわけではないのです。イエス様はこういわれました。
マルコ14:6
「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いこと
をしてくれたのだ。」
主イエスは、ただ「この人を困らせるな」とだけ言われたのです。
6
「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるから、したいときに良いことをし
てやれるよ。この人はできる限りのことをしたんだ。困らせなくてもいいのだ
よ。」と。
イエス様は、男性たちの使命感も否定しませんでしたし、女性の深い愛もその
まま受け取ってくださったのです。
こういう風に、男性、女性と断定しますと、「じゃあ、わたしは女性っぽくな
いわ、いや、俺は男っぽくないわ」と、型にはまった女性論、男性論では通用
しない部分もあるわけですよね。現代は多様性の時代と言われていますから。
でも、あなたが、男っぽくても女っぽくても、それはそれでいいのです。何
が言いたいかというと、イエス様はあなたの示すどんな愛の形も否定しませ
ん。
むしろわからなくてはいけないのは、私たち人間同士ですね。男性も女性も
もっとお互いの愛の表現の違いを理解し合わなければなりません。 たとえば夫
婦もそうですし、牧師と信徒もそうです。
たとえば、男性の牧師の愛情が、女性信徒に理解できなかったり、女性牧師
の愛情が、男性信徒には居心地が悪くて、非難したくなったりということも実
際起こります。
愛の表現の違いを理解しないと、教会の中であっても、責めあう結果になっ
てしまうことになります。お互いの愛の違いを認め合い理解することが大切で
すね。
③ 神の愛
では神様の愛とはどのような愛なのでしょうか。
神様は、私たちを男と女に創造されました。創世記の 1 章 2 章に書いてあり
ますね。これまで話したように、男性も女性もそれぞれ特徴が違うのです。し
かし、神様はそのどちらも深く理解しておられます。ご自身がそう造られたわ
けですから。当然でしょうね。
神の愛とはここにある形であります。
7:41、42にこうあります。
「ある金貸しから二人の人が金を借りていた。ひとりは 500 デナリオン。も
う一人は 50 デナリオン。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金
を帳消しにしてやった。」
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500 デナリオンは 500 万円。50 デナリオンは 50 万円ですね。これを返せな
いからと言って、子の金貸しは両方を帳消しにしてやった。というのです。こ
んな金貸しっているでしょうか?いませんよね。
この「帳消しにしてやる金貸し」これは神様の事です。
神の愛とは、私たちの罪の借金を帳消しにしてやる愛なのです。つまり 「赦
し」です。
神様は私たちを愛し、私たちの罪の借金を身代わりに支払うために、イエス
様をこの世に送られました。
あなたが自分では返すことのできない 500 デナリオンの罪の借金を、憐れま
れた神様は、ご自身がこの地上に来てくださいました。それがイエス様です。
このイエス様があなたの罪を身代わりに受けて、十字架で死んでくださ った
のです。
これを「十字架の贖い」といいます。「贖い」とは、ギリシャ語の意味で「借
金を身代わりに支払う」ことを言います。
罪を身代わりに引き受け帳消しにしてくださった愛、これが「神の愛」で
す。神の愛とは「赦しの愛」のことなのです。
ですから帳消しにしてもらった額の多いほど、金貸しを愛するのです。私も
あなたもは、多額の借金を帳消しにしてもらった罪人であります。
みなさん、恐れずに、どんな罪であってもイエス様に「お許しください」
と、悔い改めて告白してまいりましょう。必ずあなたの罪は帳消しにされ、清
められて、代わりに「神の愛」で満たされた人生を送ることが出来るのです。
最後にまとめますと、
① 女性的な愛は情緒的で、愛すること愛されることを第一に求めます
② 男性的な愛は社会的で、契約と責任を第一にします。
③ 神の愛は、支払えない人間の罪という借金を赦し、帳消しにしてくださる愛
なのです。
今週もまた罪を告白し、赦され、「神の愛」を受け取ってまいりましょう。
そして、男性も女性もそれぞれの愛の形を理解しあって、愛し合う一週間と
させていただきましょう。
お祈りいたします。