使徒言行録5章12節-42節
「自由になろう」
牧師 野々川康弘
前回は、今日と同じ箇所を通して、教会にとってとても大切なことは、31節の「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」という言葉。それを噛みしめることである。そう申し上げました。
教会にとって大切なことは、神を無視して歩む罪の赦し。それを行使していく権能を発揮することです。そのためには、神を無視して日々歩んでいる自己中心の罪が、あぶり出されなければならなりません。それは、そういう罪があることを知ってこそ、主イエスの十字架の罪の赦しが、分かるようになってくるからです。
神を無視して日々歩んでいる自己中心の罪が、主イエスの十字架の罪の赦しを理解する財源です。
でも人間は、そういった罪があぶり出されることを嫌います。その理由は、神を義とするのではなくて、自分を義として歩みたいからです。だからこそ、主イエスの義の譲渡を拒むのです。神学的な言葉でいえば、主イエスの義の転嫁を拒むということです。
主イエスの義が、私たちに転嫁されるためには、自分がいつも神を無視して、歩んでいる罪人であることを認める必要があります。
でも、自分を義として歩んでいる人は、それが難しいのです。自分を義として歩んでいる人は、主イエスの救いを見つめていくこと、証をしていくことを、妨害したり、迫害したりするのです。教会は、自分を義とすることを阻むところなのです。
ということは、主イエスの救いを大切にしている教会であればある程、自分を義として、歩んでいる人たちからの妨害や迫害が、必ず起こってくるということです。
逆に言えば、妨害や迫害を受けない教会は、主イエスの救いの本質である主イエスの十字架の罪の赦しが、ちゃんと語られていないということです。
皆さん、教会に多くの人が来るようになるということと、多くの人が教会に来て、主イエスの十字架と出会うようになるということは、全く別物です。
何度も申し上げますが、主イエスの十字架と出会うことが出来る教会は、自分を義とすることを好む、この世の人たちからの妨害や迫害が、起こってくるのです。その証拠が、使徒言行録4章です。そこには、主イエスの救いを宣べ伝えていたペトロとヨハネが捕えられて、尋問を受けたことが記されています。また今日の箇所でも、使徒たち皆が捕えられて、牢獄に入れられたことが記されています。
しかし、使徒たち皆が捕えられて、牢獄に入れられたからこそ、多くの人たちが、主イエスの救いという福音と出会うことが出来たのです。
今日の箇所で起こったこと。それは、神に遣わされた天使が、夜中に使徒たちを牢獄から解放したということです。その出来事の中で大切なことは、20節です。そこには、天使が使徒たちを牢獄から解放して、天使が語った言葉が記されています。それが、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」という言葉です。
確かに迫害にあった使徒たちは、神によって遣わされた天使によって、助けられました。でもそれは、単に彼らが、危険から守られたということでは無かったのです。彼らは、使徒としての使命を果たすために解放されたのです。彼らが牢獄から解放されたのは、何処か安全な場所に、彼らが身を隠すことが出来るためでは無かったのです。そうではなくて、神殿の境内に立って、多くの人たちが集まる場所で、主イエスの救いを、余すところなく民衆に宣べ伝えるために、彼らは解放されたのです。20節の「命の言葉」という言葉は、原文を見るならば、「救いの言葉」そう訳すことが出来る言葉なのです。
つまり神は、主イエスの救いを多くの人たちに宣べ伝えるために、使徒たちを牢獄から助け出したのです。その結果、彼らは再び捕まることになって、最高法院の尋問を受けることになったのです。でもそこでも、主イエスの救いを、力強く宣べ伝えたのです。
そんな使徒たちが語っていたことと、彼らを尋問していた大祭司が語っていたことは、対照的です。28節で大祭司は使徒たちに、「おまえたちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」そう語っています。この言葉には、真理を求める思いも、神の御心を問う思いもありません。あるのは、大祭司という自分の立場を、守ろうとする思いだけです。
大祭司は、「あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」そう言っています。しかし、大祭司を始めとするユダヤ教の指導者たちが、主イエスに有罪を宣言したのです。彼らが、主イエスを死刑にしてもらうために、ポンテオ・ピラトに引き渡したのです。
そのことが正しいと信じたのなら、その責任を負わなければならないのです。でも彼らは、自分たちのしたことに対して責任を負うどころか、自分たちの立場を守るための言葉、更には、人々からの批判を避けるための言葉。それを使徒たちに語ったのです。
でも使徒たちは、主イエスの死の責任を、彼らに追求するために語ったのではないのです。そうではなくて、「あなたがたが木につけて殺したイエスを、復活させられました」という30節のことを、大祭司を始めとするユダヤ教の指導者たちに語りたかっただけなのです。
30節の言葉は、「あなたがたの罪を越えて、あなたがたの罪を用いて、神は御自分の救いの御計画を、実現したのです。そのことを信じて悔い改めて、罪の赦しを受けて、命の道を歩んで下さい。」そのことを伝えている言葉なのです。
でも彼らは、使徒たちのその言葉を聴かなかったのです。彼らは、自分たちが主イエスを十字架につけた罪を、神の御前で悔い改めるどころか、ユダヤ教の指導者という立場を守ることに固執していたのです。だからこそ、人の評判や批判を受けないようにすることばかり、考えていたのです。
でも使徒たちは、大祭司をはじめとするユダヤ教の指導者たちの妨害や迫害にあっても、そんなことは気にせずに、主イエスの義が、みんなに与えられるための言葉、つまり、主イエスの救い。それを宣べ伝えていたのです。
使徒たちが宣べ伝えていた主イエスの十字架・復活・昇天という救いの御業は、人間が、自分を義とすることを否定するのです。それを否定して、人間には全く義が無いことや、主イエスの義を譲り受けなければ、神に義と認められないことを悟らせるのです。
主イエスは、私たちと違って100パーセント父なる神に忠実に歩まれた御方です。主イエスには、何の罪も無いのです。そんな主イエスが、私たちの罪の身代わりとなって、十字架に架かって死んで下さったからこそ、そのことを信じるだけで、主イエスの義が私たちに譲渡されるのです。
主イエスの義は、私たちの力で獲得出来ません。主イエスの義は、主イエスが、神を無視して歩む、私たちの罪の身代わりとなって、十字架架かって死んで下さったことを信じてのみ、与えられる義なのです。
父なる神が、主イエスの義を使徒たちに与えたからこそ、その義によって、神の子として生きることが出来ていたのです。
使徒たちは、自分たちの力で神に認められる義を、獲得出来るような人たちでは無かったのです。
その証拠に、使徒たちは、主イエスの弟子であったにもかかわらず、かつて、主イエスを見捨てて逃げ去ったのです。
もし使徒たちが、自分たちの力で、神に認められる義を獲得することが主イエスの救いを宣べ伝える必須条件だったとすれば、到底、主イエスの救いを宣べ伝えることは出来なかったのです。
でもそのことは、使徒たちに限った話ではないのです。私たちもそうなのです。私たちにしても、自分の力で神に認められる義を獲得することが、主イエスの救いを宣べ伝える必須条件だったとすれば、誰一人、主イエスの救いを宣べ伝えることも、証することも出来ません。
使徒たちも、私たちも、主イエスの義が譲渡されて、その譲渡された義故に、神の子にされているにすぎないのです。
父なる神が、御子主イエスの義を、主イエスの十字架の死を通して私たちに与えて下さったのです。だからこそ、日々罪を犯してしまうよう私たちであっても、父なる神の目から見れば、義なる神の子なのです。
主イエスが、十字架で流された血が、私たちの罪を覆い隠していて、父なる神の怒りのなだめとなっているからこそ、罪人である私たちが、父なる神の目から見て、義と認められているのです。
そのことが明らかになったのは、主イエスが復活したことによるのです。主イエスの復活がなかったなら、主イエスの十字架は、ただの主イエスの敗北でしかなかったのです。
主イエスの復活が無かったなら、主イエスの十字架は、罪に対する勝利であるとは到底言えなかったのです。更にいえば、主イエスの義が与えられたとか、神の子主イエスが復活したように、神の子となった私たちも、復活出来るなんてことも到底言えなくなるのです。
でも、そうではなかったのです。現に使徒たちが、復活の主イエスと出会って、40日間、復活の主イエスと共に生活をしたのです。さらには、40日後に、主イエスは生きたまま天に昇られて、そこから10日後に、主イエスの救いを信じた人たちに、聖霊が与えられたのです。
今の時代は聖霊時代です。今の時代は聖霊を通してのみ、復活の主イエスと出会うことが出来る時代です。
それはそうと、使徒たちは、復活の主イエスに実際に出会って、聖霊をも与えられたからこそ、大胆に、力強く、罪に対する勝利の十字架と、死に対する勝利の復活を、宣べ伝えることが出来たのです。
父なる神に100パーセント従順に歩まれて、何の罪も見出すことが出来なかった主イエスが、流された血、裂かれた肉が土台となっている神の義は、人間が自分の主義や主張を放棄するように導くと共に、神・隣人・自分の、暖かい三位一体の愛の交わりに生きる方向に、私たちを導くのです。
でも、そういう素晴らしい神の救いを聴いたユダヤ教の指導者たちは、33節に記されている通り、「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」のです。
自分の力で、神に認められる義を掴み取ることが出来ると考えていたユダヤ教の指導者たちは、自分の力では、神に認められる義は獲得出来ないということを、宣べ伝えていた使徒たちに対して、激しい怒りを覚えて、殺意まで抱くようになったのです。
でもこの度は、ガマリエルという律法学者の言葉によって、使徒たちは、殺されずに済んだのです。ガマリエルが言ったことは、「彼らの活動が人間から出たものならそのうち自滅する。でも、もし神から出たものならば、誰もそれを止めることはできない。下手をすれば神に逆らうことになってしまう。」そういうことです。そのガマリエルの発言によって、使徒たちは殺されることなく、釈放されたのです。
でも、怒った人たちの腹いせのために、更には、人々に対する見せしめのために、使徒たちは鞭で打たれたのです。そして、4章と同じく、主イエスの名によって語ることを、禁じられたのです。
使徒言行録を良く見ますと、使徒たちは、今日の箇所に来て初めて、肉体的な暴力や、辱めを受けたのです。そのことを使徒たちは、どう受け止めていたのでしょうか。
そのことが41節に記されています。そこを見ますと、「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び。」そう記されています。「イエスのために辱めを受けるほどの者にされた。」という言葉。それを口語訳聖書見ますと、「御名のために恥を加ええられるに足る者とされたことを喜びながら」そう記されています。この部分を原文から訳しますと、「主イエスのみ名のために、辱めを受けるに相応しい者とされたことを喜び」そう訳すことが出来ます。
「イエスのために辱めを受けるほどの者にされた。」、「御名のために恥を加ええられるに足る者とされたことを喜び」、「主イエスのみ名のために、辱めを受けるに相応しい者とされたことを喜び。」それが、使徒たちの受け止め方だったのです。何故、使徒たちは、そう受けとめることが出来たのでしょうか。
それは、主イエスの救いを宣べ伝えることで、自分が受ける苦しみや辱めは、私たちが神を無視して歩む罪の赦しのために苦しんで、十字架に架かって下さった主イエスの愛を、深く知ることが出来る財源だからです。
教会は、確かに敷居が高い側面があるのです。その理由は、人間は、「自分の義を、自分の力で獲得していくことが人間らしい歩みである。」そう思っているからです。何でも自分の力で獲得すること。それが大切なことだと思っているのです。そういう人たちからすれば、何でも自分の力で獲得することを放棄するなんてことは、ナンセンスなのです。そういう人たちにとっては、教会は、自分の価値観が打ち壊されるところでしかないのです。だから、反発したくなるのです。
でも、いつも神を無視して歩む自己中心の罪を認める人たちにとっては、教会は敷居が高いところではないのです。敷居が高いどころか、神・隣人・自分の三位一体の愛の交わり共同体に、豊かに生かされ生きる命がある場所なのです。
教会は、自分の主義や主張を放棄する愛の交わり共同体だからこそ、神・隣人・自分の三位一体の愛の交わりが不協和音にはならず、見事に調和するのです。
自分の主義や主張を放棄する先に、そういう三位一体の愛の交わり共同体の命があるからこそ、教会はとても魅力的な場所なのです。
キリスト者にとっての自由は、自分を義とするために、色々なものを獲得していく自由ではなくて、主イエスの義を纏った者らしく、自分の主義や主張を放棄していく自由なのです。私たちは、自分を義とするために日々聖書を読んで、祈っているのではないのです。そうではなくて、主イエスの義を纏った者らしくなっていくために、日々聖書を読んで、祈っているのです。
神が私たちに与えたいと思っている自由は、自分の力で握りしめる自由ではなくて、自分の力で握りしめることを放棄していく自由なのです。
そのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。