使徒言行録5章12節-42節
「苦しみは信仰の宝」
2024.1013.Shyuuhou今日の12節-14節を見ますとこう記されています。「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」
実はこれと同じようなことが、4章32節-33節にも記されていました。そこを見ますとこう記されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」
さらには、2章43節-47節でも、似たようなことが記されています。そこを見ますとこう記されています。「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
今の三つの箇所に共通していることは、キリスト者たちが、心を一つにしていたということです。共に集まり、祈り、礼拝をしていた教会は、そういう群れだったのです。
だからこそ、12節に記されているような、多くのしるしや、奇跡的な業を、成すことが出来たのです。
でも、人智を超えた奇跡的な業のみが、使徒言行録に記されている訳ではありません。4章32節-37節に記されていた分かち合いも、一つの素晴らしい奇跡的な業なのです。
それら全ての奇跡的な業が生まれたのは、最初の教会の人たちが、心を一つにしていたからです。
でも、みんなが心を合わせれば、素晴らしい奇跡的な業が生まれるわけではないのです。人間がどれだけ心を合わせて、集まったとしても、16節に記されているような、病人や汚れた霊に悩まされている人が、一人残らず癒されるなんてことは起こり得ないのです。
奇跡的な業が可能となるのは、聖霊の力が働いてこそです。
キリスト者たちは、自分たちの力を一つにするために集まっていたのではありません。みんなが一つになって、神の働きを祈り求めるために集まっていたのです。
つまり、彼らが集まっていた目的は、「自分たちの病気を癒す力を与えてください」と、祈り求めることではなかったのです。そうではなくて、4章29節-30節に記されていることが、なされることを目的として、集まっていたのです。そこを見ますとこう記されています。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
確かに後半部分では、「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」そう祈っています。でもそれは、「聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と、祈っているのです。つまり、主イエスの御名の力が発揮されるように、祈っているのです。3章6節でも、ペトロとヨハネは、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」そう言っていました。
つまり、主イエスの御名の力が発揮された時に、色々な素晴らしい神の軌跡の業がなされるのです。
だから御言葉を語る前に、主イエスの御名によって、「思い切って大胆に御言葉を語る」ことを祈り求めるのです。「自分は罪深いから御言葉を語れない。」「自分はまだまだ御言葉を語る資格が無い。」そういう人間的な思いは、一切関係ないのです。主イエスの御名によって語ったならば、聖霊が御言葉を通して、主イエスの御名が発揮されるように働いて下さるのです。
では、御言葉とは一体何でしょうか。簡単に言えば、御言葉とは、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの恵みを伝える言葉です。
使徒たちは、教会の主イエスの御名による祈りの力に支えられて、聖霊によって力が与えられて、彼らを捕えたユダヤ人の最高法院の前で、御言葉を大胆に語ることが出来たのです。その時に語ったことが、29節-32節です。そこを見ますとこう記されています。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
使徒たちが、このようなことを証言出来たのは、教会の人たちも、使徒たちも、主イエスの御名の力が発揮されるように、祈っていたからです。みんなの心が一つになって、その心を、主イエスに向けていたからです。
みんなの心が、主イエスに向いている証言にこそ、神の奇跡的な業が、成されてく力があるのです。
心を一つにして、主イエスに向かって生きていた最初の教会は、他の人たちと一線を画する群れとして、成長していきました。それが13節に記されていることです。そこを見ますと、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。」そう記されています。つまり、キリスト者でない人たちは、「教会は、自分たちとは明らかに違う人たちの集まりだ。教会には容易に入っていくことはできない。」そういう思いを抱いたということです。
つまり教会には、ある種の敷居の高さがあるのです。
これは、前回のアナニアとサフィラの記述とも関係しています。彼らは、土地を売った代金の一部を、全部だと嘘をいって献げたが故に、神の怒りを受けて死んだのです。そのことは、11節に記されている通り、教会全体や、そのことを聞いた人たちを、非常に恐れさせたのです。
教会に加えられて、キリスト者になるということは、生ける神と、交わるようになるということです。神と交わる人になるということは、神の裁きを受けて、死ぬこともありうるということです。そのことを、アナニアとサフィラの出来事を通して、教会は勿論のこと、周囲の人たちも実感したのです。
ですから当然、「そういった群れだから気軽に近づけない」そう感じる人が出て来ることは、至極当然なことです。でも不思議なことに、「民衆は彼らを賞賛していた。」そう13節に記されている通り、まだキリスト者でない人たちの中に、教会を称賛する人たちもいたのです。
そして驚くべきことは14節です。そこを見ますと、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」そう記されています。教会に対する恐れを乗り越えた人たちが、教会の高い敷居を越えて、キリスト者になる人が増えていったのです。このことは、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」という言葉と、矛盾しているように感じるかもしれません。でも、神の軌跡的な業が起こった時、両方のことが、同時に起るのです。
先程も申し上げました。神の軌跡的な業は、不思議な神の業だけではありません。主イエスに向いている証言、つまり、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業が語られることも、神の軌跡的な業です。
主イエスの救いの御業が語られた所では、自分の罪を認める必要が出てきます。でも、私たち罪人は、自分の罪を見たくないのです。自分で自分を必死に支えて生きている人は、自分で自分を支えていけるようになる言葉を欲するのです。そういう人たちにとっては、教会は、自分が壊されるところでしかないのです。自分が壊される恐れがあるからこそ、あえて仲間に加わらないのです。その一方で、教会はみんなの心が、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業に向いている場所です。みんなが自分を捨てて、人の罪を積極的に赦し合っていく場所です。でも、自分を捨てて、神に仕えないならば、人の罪を積極的に赦し合っていかないならば、神はそれを放置しないのです。
神は愛なる御方であるが故に、主イエスの十字架を無視する生き方をする人に対して、強引に十字架を信じることを押し付けません。主イエスの十字架を信じない人に対しては、自分の罪の責任は、自分で負うことになるように働くのです。
アナニアとサフィラは、主イエスの十字架の栄光が現れることを願って献金をしませんでした。彼らは自分たちの栄光が現れることを願って献金したのです。つまり、主イエスの十字架を無視したというよりも、主イエスの十字架に敵対したのです。彼らはその報いを受けて、命が取り去られたのです。
過激なことを言います。神は全ての人が救われるために、人を持ち上げるようなことはしません。神は全ての人が救われることを願って、神と共にある道を指し示すのです。
それに畏怖する群れとなった時に、教会は周囲の人たちから称賛されて見つめられ、罪を認める大きな決断をしてでも、教会に加わろうとする人が起されていくのです。そういう人たちが、神の選びの内にある人たちなのです。
もし教会が、教勢を伸ばそうとするあまり、この世の人たちに喜ばれよう。受け入れられよう。そう思って、罪の赦しという信仰の本質を曲げて、本来あるべき罪の赦しという敷居を取り払って、この世に迎合したり、同調したりすれば、一時は、教勢は伸びたとしても、いずれ教勢は落ちていきます。罪の赦しという敷居が無くなった教会は、世の人たちにとって、何の魅力もない教会、塩気を失った役に立たない教会となってしまうのです。
そうならないために、教会はこの世とは、一線を画する覚悟が必要なのです。教会は、生けるまことの神との交わりの場として、主イエスの罪の赦しの十字架の死という特質を、保っていく必要があるのです。
教会の特質は、この世の人たちのニーズに応えることではありません。教会にとってとても大切なことは、31節の言葉をしっかり噛み締めることです。そこにはこう記されています。「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」
神は独り子主イエスを、私たちの罪を悔い改めさせて、罪を赦す導き手として、救い主として、立てて下さったのです。
私たちは神によって、自分の罪を分からされた時、主イエスの十字架の死の意味を知らされるのです。
何の罪もない神の独り子主イエスが、自分の罪を全て背負って、十字架に架かって下さったこと。主イエスを十字架の死に追いやったのは、他の誰でもない自分であること。父なる神や、主イエスが、自分の罪を赦すために、御自分を犠牲にして下さったこと。そういったことを知らされるのです。そういったことを知らされるからこそ、罪を悔い改めて、御言葉に生きるようになるのです。つまりそれは、主イエスの十字架の罪の赦しに生かされ、生きるようになるということです。
御言葉にこそ、罪の奴隷から解放された、本当の命の道、本当の私たちの自由な道があるのです。その道だけが、永遠の命に繋がっているのです。永遠の命とは、未来永劫、神・隣人・自分の交わりに、生かされ生きるようになる命のことです。
でも人間は、神や隣人との交わりに、生きることを嫌うのです。罪深い世の中に生きているが故に、交わりに生きることが、自分ばかりが損をする、不自由な道のように錯覚してしまうのです。そんな私たちのために、復活した主イエスが天に昇り、父なる神の右の座につき、聖霊を私たちの内に、内住させて下さったのです。聖霊は、父なる神と、御子主イエスの御旨を遂行するために、すぐに神に反旗を翻すような、罪深い私たちを避けることなく内住して下さり、日々私たちを導いて下さっているのです。
私たちが心を一つにして御言葉に、つまりは、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業に、集中していく時に、教会は、教会らしい歩みを、していくことが出来るようになるのです。
そうなってこそ教会は、私たちの力や思いをはるかに越えた、神の恵みの御業に、与っていくことが出来るようになるのです。
15節には、ペトロの通る道に病人を連れ出して、「ペトロの影に当たりさえすれば、病気が直る。」みんながそう思うほど、めざましい救いの御業がなされたことが記されています。
このことは、ペトロが、病気を治す不思議な奇跡の業が出来たということではありません。そうではなくて、神が力強く、具体的にペトロに働いていたということです。
確かに、神が人を用いて、人智を超えた神の力によって、人間の体の病気を治すような奇跡を起こします。それは否定しません。でもそれ以上に大切なことは、神が人を用いて、罪という病気を、人智を超えた神の力によって治すという理解を持つことです。
それこそが、教会の中心的事柄なのです。
教会が心を一つにして、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を見つめて、それを証ししていくならば、罪から解放された具体的な祝福された歩みが、生活に現れてくるようになるのです。
16節に「エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。」そう記されていますが、これも15節と同じことです。
罪を認めるのは、罪深い人間にはなかなか出来ません。とても苦しいことです。でも、罪を認めて、主イエスの救いを受け入れさえすれば、聖霊が与えられて、互いの罪を赦しあって、互いが相手を大切にするために、自分を分け与えていくような、素晴らしい神の国が形成されていくのです。
そんな神の国を人々が体験をして、神を信じることが出来るようになるために、神は仙台青葉荘教会を、この世に造られたのです。神の国は既にここにあるのです。
この教会は、罪の赦しを行使していく権能を、神から与えられています。私たちは、神の国の国籍を持っている住人です。そのことを心に刻み込んで、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと心から願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。