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2024.1006.Syuuhou-2使徒言行録5章1節~11節
「貧しくない私たち」
今日の箇所では、アナニアとサフィラという夫婦が、登場しています。彼らは自分たちの土地を売って、その代金を使徒たちのもとに持って来て、献金を献げたのです。そこまでは良かったのです。でも彼らは、土地を売って得た、全てのお金を献金したと嘘をついたのです。土地を売って得た、一部のお金、それを自分たちの懐に入れたのです。
何故、嘘をついたのでしょうか。
それは、利得を得るためです。彼らにとっての利得。それは、より少ない献金で、神や人々の賞賛を得ることです。
アナニアとサフィラは、バルナバのように、神や人々から、模範の神の子として賞賛されたかったのです。だから、「畑を売り、売ったお金全部を献金した。」そう言ったのです。その証拠が使徒言行録4章36節~37節です。そこにはこう記されています。「徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」
アナニアとサフィラは、このようなことをしたバルナバの存在が気になっていたのです。その理由は、バルナバが畑を売り、売ったお金を全部、献金したことが評判になっていたからです。しかし、神や人々から賞賛を受けるために、神に偽った献金報告をすれば、それは大事になるのです。新共同訳聖書を見ますと、2節は「妻の承知の上で、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足元に置いた。」そう記されています。此処で言う、「ごまかす」という言葉は、ギリシャ語で「ノスフィゾー」と言います。「ノスフィゾー」とは、「着服する」そう訳すことが出来る言葉です。
つまり、アナニアとサフィラは、神に嘘の報告をしたが故に、神のお金を「着服」したことになってしまったのです。
そこで考えなければならないことがあります。普段、私たちは、神に嘘をついているなんてことはないでしょうか。例えば神の御前で、「~さんの罪を赦します。」そう言ったとすれば、本当に赦さないといけません。赦すということは、忘れるということです。
ある教会で、おばあさんが、主日礼拝が来るたびに、「夢でイエス様に会いました。とても私は幸せです。」そう牧師に話しかけてくるらしいのです。なので牧師がある時、おばあさんに「じゃあ、今度イエス様に会ったら、イエス様から見て、私が罪深い人か、従順な人か聞いておいて下さい。きっと従順な人と言って下さると思います。」そう言ったのです。その時、おばあさんは、「分かりました。会った時に聞いてみます。」そう答えたそうです。その時、牧師は、「どうせおばあさんの夢だ。仮に本当に、夢の中で、イエス様と会っていたとしても、罪赦されているから、従順な人といってくれるだろう。」そういう軽い気持ちでいたらしいのです。でも、次の日曜日が迫ってくる中で、段々不安になってきたというのです。「本当に、おばあさんがイエス様に会っていたとしたら、自分の罪を暴露されるのではないだろうか。。。おばあさんに、人に言えないような自分の罪を暴露されたらどうしよう。。。」そう思えてきたらしいのです。そんな中、とうとう日曜日がやってきて、恐る恐るおばあさんに、「イエス様は私のことを、どのように言っていましたか。」そう聞いたところ、おばあさんはにこやかに「あなたの教会の牧師は、私にとても従順ですよ。彼の罪は全て忘れました。そのようにイエス様は言っていました。」そう答えたそうです。その時、そこの教会の牧師は、「自分の罪は既に赦されていると知っていたはずなのに、心から知れていなかった。おばあさんのイエス様の話を聞いて、本当に罪が赦されていることを実感出来た。」そう思ったというのです。
人間は、神に「~さんの罪を赦します」そう言いながらも、あるいは、人に「~さんの罪を赦します」そう言いながらも、以前、罪を赦したはずの人から嫌な目にあわされた時、「おまえ、かつてこういうことを自分にしてくれたよな。」そう思わず言ってしまうのです。赦したはずのことを芋ずる式に思い出すのです。つまり赦せていないのです。神の御前で、あるいは人の前で、赦すと言う言葉を発したとしても、自分の負の感情を抑圧していただけでしかなかったなんてことが、実に多いのです。
アナニアとサフィラの問題は、土地を売って得た一部のお金。それを残しておいたことではありません。そうではなくて、神や人々の顔色を伺って、神に嘘をついたことなのです。神や人々からちやほやされたい。でも、神にそんなに献金したくない。そういう自己中心な思いが、彼らにあったからです。神なんか、彼らの眼中にはなかったのです。
彼らは、神が恵み深い御方であるということ。神がとても美しい愛の持ち主であるということ。そのことを、ちゃんと知っていなかったのです。
これは、決して他人事ではありません。私たちはどうでしょうか。本当に、「神は恵深い御方である。」、「神はとても美しい愛の持ち主である。」そう心から思えているでしょうか。もし本当に、心からそう思えていたとすれば、神に嘘をつくことは無いのです。
皮肉なことに、アナニアというギリシャ語の意味は、「恵深い」という意味です。そしてサフィラというギリシャ語の意味は「美しい」という意味です。
でも彼らは、「主は恵深い。」、「主は美しい。」そう心から思えていなかった。だから気持ちが、ちゃんと神に向いていなかったのです。自分たちに、気持ちが向いていたのです。
私たちはどうでしょうか。私たちは本当に、主イエスの十字架の救いの御業は恵深い。主イエスの十字架の愛は美しい。そう思えているでしょうか。
主イエスは、神や人々の評判ばかり気にして生きている私たちの罪のために、別の言い方で言えば、人格を持った神を、無視して生きている私たちの自己中心の罪のために、命を捨てて十字架に架かって下さったのです。そのことを、心から「恵深い」と思えているでしょうか。心から「美しい愛」と思えているでしょうか。頭で思い込もうとしているのと、心から思えているのでは、行動が変わってきます。
心から思えている人は、信仰が与えられ、聖霊が与えられています。でも、頭で思い込もうとしている人は、信仰は無いが故に、聖霊が与えられていないのです。
私がカナダの神学校で教えられたことは、聖霊が与えられるとは、心臓移植されたようなものなのであるということです。
ハワイで本当にあった話を、これからお話します。
ある中年女性が、若い男性の心臓を移植しました。彼女は術後、嫌いだったピーマンや、チキンナゲットが大好きになりました。それだけではありません。時々、若い男性のように振舞うようになったり、夢の中で若い男性が現れて、自分の名前を告げてくるようになったりしたのです。そんな一連のことに戸惑った彼女は、自分の移植手術の日に起きた、死亡記事をチェックしたのです。若い男性の名前を、夢の中で告げられていた彼女は、死亡記事から、心臓のドナーが誰であったかに目星をつけて、その家族に会いに行ったのです。そうしたところ、心臓のドナーが、ピーマンとチキンナゲットが大好きだったことを知ったのです。
皆さん、私たちに聖霊が与えられるとは、心臓移植されたようなものなのです。主イエスの救いを信じて、聖霊が与えられた人は、肉に属することではなく、霊に属することを考えるようになるのです。それが聖書の道理です。
話を聖書に戻します。献金は、主イエスの十字架の救いに感謝している人がするものです。決して強制ではありません。
献金は、自分が痛むぐらいのお金を献げることに、大きな意義があるのです。献金とは、主イエスの十字架の痛みを積極的に自分のものにしようとしていることを、神の御前に私たちが表明することなのです。
だから仙台青葉荘教会は、コロナ以前は、主イエスの罪の赦しの宣言(説教)の後に、罪の赦しの宣言(説教)に対する応答として、献金を献げていたのです。
アナニアとサフィラが、「全てのお金を献金した」そう偽ったということは、主イエスの罪の赦しである十字架に対しての、喜びの表明になっていないのです。それどころか、自分の評判をあげるために、主イエスを利用したのです。献金に求められることと真逆のことを、彼らはしたのです。つまり、神を冒涜したのです。
これは、決して他人事ではありません。私たちも、十一献金をしなかったり、席上献金を惜しんだりしているならば、神に対する冒涜とまではいかなくとも、主イエスの十字架の罪の赦しに対する、喜びの表明になっていないのです。
十一献金をしなかったり、席上献金を惜しんだりしているとすれば、主イエスの十字架の罪の赦しに対する感謝が、極めて薄いと言わざるを得ないのです。
でも、感謝が極めて薄くても良いのです。主イエスの十字架の罪の赦しが、自分があまり分かっていないならば、神に嘘を言わず、そのことを正直に言えば良いのです。
そうであるにも関わらず、アナニアとサフィラは、自分たちが良いキリスト者として認められるために、主イエスの十字架の愛を、さも深く分かっているかのように振舞ったのです。その結果、主イエスの十字架の罪の赦しという愛に、背を向けたのです。もっと正確に言えば、主イエスに敵対したのです。
アナニアとサフィラは、土地を売って得た一部のお金を、全てのお金と偽って、献金をする行為を通して、神の栄光ではなくて、自分の栄光を現そうと思ったのです。神の栄光は眼中に無かったのです。
そんな献金は、神は受け取りません。神は献金が無くても平気な御方です。神は献金する人の心を見ておられるのです。神に自分が痛むことを喜びとする程の感謝があるかどうか、そのことを献金に見ておられるのです。
ファーストバプテスト教会での献金の話
献金は、神に対する気持ちの現れであることを知っていたペトロは、アナニアとサフィラに4節に記されている通り、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」そう言ったのです。
彼らは売った代金の一部を、「一部です。」そう言って献金することもできたのです。でも神に嘘をついたのです。その結果、アナニアとサフィラは、その場に倒れて息絶えたのです。
新約時代に入っても、そういうことが起こったことは特質すべきことです。
キリスト者じゃない人ではなくて、キリスト者の中に、神から命を絶たれて、死んだ人が出たということは特質すべきことです。
神が与えて下さる十字架の罪の赦しは定かです。でも、誰が十字架の罪の赦しを得ているのか。そのことは、私たちの目には定かではないのです。私たちの信仰を握って下さっているのは神です。そのことが、私たちに安心を与えています。でもその一方で、ある種の緊張感を、私たちに与えていることもまた事実です。
マタイによる福音書13章24節~30節を見ますと、こう記されています。
「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
天の御国の雛型である教会には、主イエスの十字架の罪の赦しを、知らされている麦もあれば、主イエスの十字架の罪の赦しを、知らされたつもりでいる毒麦もあるのです。
だからこそ、いつも緊張感をもって主イエスを、別の言葉で言えば聖書を、探究する人である必要があるのです。
心理学ですら、ある心理学者が、「ストレスは人生のスパイスである。」そう言っています。
程よいストレスとなる緊張感を持って、今この時を歩むことが、充実したクリスチャン人生を過ごすことが出来る秘訣です。
私たちが忘れてはいけないことは、教会は、主イエスの十字架の痛みを、喜んで共有している信仰共同体であるということです。教会はそういう所であるが故に、神の愛の暖かさに触れることが出来る場所なのです。
ジェイムス・フーストン先生の小グループの話
自己中心で、罪深い私たちは、自分の必要を満たしてもらえなければ、ピンチの中にある自分を受け入れてもらえなければ、教会は必要ない。そう思ったり、そう感じたりしてしまうのです。
自分が満たされることばかり考えているような、罪深い私たちであるが故に、自分の居心地が良い場所ばかり求めているような、罪深い私たちであるが故に、神が願っておられる神と隣人との交わりに、自分を積極的に分かち合って生きることが出来ないのです。喜んで自分を犠牲にして、神や隣人に仕えていくことが出来ないのです。
でも、教会に集っている信仰者全員が、自分のことを横に置いといて、神が願っておられる神と隣人との交わりに、自分を積極的に分かち合って生きることが出来るようになれば、教会は神の栄光が現れる、とても暖かい場所になるのです。
教会は、主イエスが自分の命を差し出した十字架という具体的な愛によって、育まれている信仰共同体です。
自分を犠牲にするよりも、自分の癒しを求める人は、心理カウンセリングや、コーチングを受ければ良いのです。
でも、一つ気を付けなければならないことがあります。それは、あるクリスチャン心理学者が言っている通り、自分の癒しばかりを求めている人は、カウンセリング依存症になって、神から離れていく危険性があるのです。そのことを頭の片隅に置いておかなければならないと思います。
私たちのニーズや、私たちの心の癒しに、神が適合するかどうか。それを上から目線で吟味して、神の救いを選び取るのではないのです。
もし私たちが、神を吟味して、自分が神を選んで、自分が神の救いを信じることが出来るならば、神は私たちよりも下の存在になります。そんな神は、本当の神ではありません。本当の神は、私たちが、解かり切ることが出来ない御方なのです。神は、私たちよりも遥かに上の存在なのです。
神が、自己中心で、神を無視して生きている罪を認める人を選んで、御自分の救いに与らせるのです。神への応答責任は私たちにありますが、私たちに主導権があるのではありません。神に主導権があるのです。
ちょっと過激なことを言います。教会は、人々の弱さを、担い合っていくことを目的としていません。教会が目的としているのは、主イエスが命を捨ててまで、御自分が痛んでまで、私たちを救って下さった喜びが、人々に伝わっていって、その救いにみんなが与って、愛されることよりも、愛することを求めていくようになることです。
そうなっていってこそ、教会は自然に、人々のニーズや、心の癒しが与えられる場になっていくのです。
私たち一人一人が、自分の命を捨てて、人に仕えていく交わりに生きてこそ、みんなが貧しくない、天の御国にまで繋がっている歩み。それを生み出していくことが出来るようになるのです。
自己中心な罪深い私たちに、そんな歩みを与えるために、主イエスは、十字架・復活・昇天の救いの御業を、成し遂げて下さったのです。
そのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと思います。
最後に一言お祈りさせて頂きます。