使徒言行録3章1-10節
「主イエスの御名の力」
牧師 野々川康弘
今日の箇所は、ペトロとヨハネが、生まれつき足の不自由な男性を癒したことが記されています。
今日の癒しの御業を成したからこそ、後にペトロは、エルサレム神殿の境内で、説教をすることになったのです。
でもそれをしたことが、逮捕されて、投獄されて、ユダヤ人議会の取り調べを受けることに繋がっていったのです。
つまり、ペトロが癒しの御業を成したことが、教会への最初の迫害に繋がっていったのです。そのことは、3章11節-4章を読めば分かります。
この世の社会と摩擦が生じる発端となった今日の癒しの御業は、ペトロたちが、特別にそういった能力を、持っていたからではありません。聖霊の働きによるのです。そのことは、2章との繋がりから分かります。
じゃあ、今日の癒しの御業を成した彼らの信仰生活や、教会生活は、一体どういうものだったのでしょうか。そのことが記されていたのが、2章42節です。そこには、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」そう記されていました。
当時、「パンを裂く」ことは、「家ごとに集まって」していたのです。でも、それだけではありません。2章46節を見ますと、「神殿に参り。」そう記されています。此処でいう神殿とは、エルサレム神殿のことです。
最初の教会の人たちは、そこでも神を礼拝していたのです。
教会が誕生した時、キリスト者たちは、今のユダヤ教の中に身を置いていました。それは、キリスト教が信じる神は、旧約聖書が語っている神だったからです。教会は、旧約の神の民イスラエルの歴史を引き継いでいる、新しいイスラエルとして誕生したのです。
主イエスの救いを信じた人たちは、今までとは違った神に、仕えるようになったのではないのです。そうではなくて、これまで信じていて、礼拝をしていた神が、独り子主イエスを、救い主として、この世に遣わして下さったことを信じたのです。だから、最初の教会の人たちは、ユダヤ教の人たちと共に、エルサレム神殿の礼拝に参加していたのです。ところが、多くのユダヤ教の人たちは、主イエスを救い主として受け入れなかったのです。受け入れないどころか、キリスト教会を迫害するようになったのです。それが原因で、ユダヤ教と袂を分かつようになっていったのです。
更に言うと、ただ一度の、主イエスの十字架の死によって、罪の贖いを成し遂げて下さったことを信じる信仰故に、神殿での動物犠牲や祭儀が、必要なくなったのです。
だからこそ、各地で生まれた教会は、次第にエルサレム神殿には行かなくなって、自分たちの家に集まって、礼拝を捧げるようになっていったのです。その結果、キリスト教会は、ユダヤ教や、エルサレム神殿と、訣別することになっていったのです。でもそれは後の話です。
最初の教会の人たちは、神殿でも礼拝をして、神に祈りを捧げていました。そのことが、2章の終わりに記されています。
ということは、1節に記されている通り、ペトロとヨハネが、「午後3時の祈りの時に神殿に上って行った」のは、普通の信仰生活の一環だったのです。
つまり、日常的な信仰生活の中で、今日の箇所に出て来る、癒しの御業がなされたのです。
今日の癒しの御業は、使徒たちが、特別な奇跡を起こした話ではありません。そうではなくて、聖霊の力によって歩んでいた教会の伝道の姿。それが、今日の箇所に記されているのです。
聖霊の力によって、歩んでいた教会の伝道の姿ということは、今日の話は、私たちの今の教会の歩みに、深く関わっているということです。
聖書に話を戻します。施しを乞う「生まれながら足の不自由な男性」が、「神殿の境内に入る人に、施しを乞うため」に、「美しい門」と呼ばれていた、神殿の門の傍らに、毎日運ばれて来ていたのです。
4章22節を見るならば、その男性が「四十歳を過ぎていた」ことが分かります。「生まれながらに」ということは、四十年以上も、一度も自分の足で立って、歩いたことがなかったということになります。
当時、そういう障害を持った人は、自立した生活をすることが出来なかったのです。物乞いとなって、神殿礼拝に来る人たちから施しを受けて、生きていくしかなかったのです。
当時、そういう人に施しをすることが、立派な信仰の行為として、賞賛されていました。
足の不自由な男性は、神殿の境内に入ろうとするペトロとヨハネを「見て」、いつも通り施しを乞うことをしたのです。
その時、ペトロとヨハネは、4節に記されている通り、「わたしたちを見なさい」そう言ったのです。その時、足の不自由な男性は、何かもらえると思って期待をしながら、ペトロトヨハネを見つめていたのです。
今日の箇所で大切な言葉は、「見る」という言葉です。「見る」という言葉が、3節-5節の中で、4回も出てきています。でも、「見る」という言葉を原文で見ますと、4つとも違う言葉が使われています。その違いから、今日の話に込められているメッセージが見えてきます。
特に注目したいのは、4節の「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」という言葉です。4節の「じっと見て」という言葉は、「焦点を合わせる」という意味があります。
ペトロとヨハネが、生まれつき足の不自由な男性に、焦点を合わせてじっと見つめたことが、癒しの御業に繋がったのです。
1節を見ますと、「午後3時の祈りの時」そう記されています。このことから分かることは、神殿には多くの人が集まって来ていたということです。
皆さん、人ごみの中で、ただ茫然と眺めているだけでは、施しを求めて、自分を見つめくる人の本質は見抜けません。本質を見抜けないどころか、自分に施しを求めてきていることすら気付けません。
ひょっとしたら、ペトロたちも、これまで何回も、足の不自由な男性の前を、通り過ぎていたかもしれません。
でもペンテコステの時に聖霊が降り、聖霊という賜物があたえられて以降、ペトロとヨハネは聖霊に導かれて、足の不自由な男性に、焦点を合わせて見ることが出来るようになっていたのです。その結果、彼の本質を見抜くことが出来たのです。
足の不自由な男性は、本当は自分の足で立って、歩いて、いろいろ出来るようになりたかったのです。でも、「足が不自由なことはもう仕方が無い。自分の足でこの世で歩んでいくことは不可能だ。」そう思って、自分の今の必要が満たされることだけを考えて生きていたのです。足の不自由さ故に、今を生き生きと生きることがどうしても出来なくて、死んだように物乞いとして生きていたのです。彼の中心には神が不在でした。彼は自分のことだけしか考えない罪故に、死の力に飲み込まれて、将来への希望が死に、死んだように生きていたのです。
ペトロとヨハネが、足の不自由な男性に焦点を当てて見た時、神不在の罪故に、死の支配の中におかれていて、死んだように生きている彼の本質が、はっきり見えたのです。
皆さん、相手の本質が、はっきり見えなければ、実りある豊かな伝道は出来ません。別の言葉でいうと、ちゃんと相手に関心を持てないなら、実りある豊かな伝道は出来ないのです。
とはいえ、罪深い私たちは、誰でも自分のことばかり見つめているのです。自分のことに焦点を合わせて生きているのです。それが生まれながらの人間の罪です。
生れながらの私たちは、自分のことばかりで、神や、隣人のことをちゃんと見ないのです。そんな私たちは、自分が楽になるためや、自分が問題なく生きていくためや、自分の生活が、今日よりも明日、良い生活になっていくためには、神を無視したり、人間関係を終わらせたりすることを喜んでするのです。そこには、死で全ては終わるという世界観に支配されている罪深い私たちの姿があります。
でも、キリスト者は、自分のことに焦点を合わせて生きるところから目が離れて、主イエスに焦点を合わせて見ることが出来るようになっているのです。主イエスの罪と死の支配からの救い。別の言葉でいえば、自分に焦点を合わせる所から外れて、神や隣人に焦点を合わせて、ちゃんと見ることが出来る人になっているのです。
何故ならキリスト者は、救われて、聖霊という賜物が与えられている人たちだからです。
もし、キリスト者であったとしても、神に焦点を当てて、生きられていないならば、その原因は、自分にばかり、焦点を当てて見ている私たちの罪です。自分が楽に生きることが出来るようになるためには、神や隣人との関係を抹殺しても良い。つまり、死で全てが終わるという世界観に縛られて、生きてしまっている私たちの罪です。
皆さん、ペトロとヨハネは、聖霊が与えられて、自分目線からではなく、神目線から、生まれつき足の不自由な男性を見つめることが出来るようになっていたのです。だからこそ、足が不自由であるが故に、希望が死んだ自分の生活に支配されて、物乞いという自分の力に頼って、生きている彼の視線に気付くことが出来たのです。
ペトロたちは、神目線から、生まれつき足の不自由な男性を見つめることが出来る程、彼らは聖霊によって変えられていたのです。彼らは、自分に焦点を当てて生きていた生き方から、解放されていたのです。別の言葉で言えば、彼らは、罪と死の支配から解放されていたのです。
実はそれが、大いなる神の癒しの御業であったのです。彼らにそういう癒しが与えられていたからこそ、足の不自由な男性に、神の大いなる御業が及んだのです。
皆さん、力強い伝道の秘訣は、聖霊の賜物が与えられていることを自覚して、聖霊の力によって、自分自身が、罪と死の支配から解放されることです。
聖霊の力のよって、罪と死の支配から解放されている人が、人が、死や罪に支配されていることを見抜いて、その人を裁くことなく、罪や死の支配から、その人が救われることが出来るように、その人に仕えていくことが出来るようになるのです。
人を救いに導くためには、相手をじっと見つめて、罪と死に支配されて、生きてしまっている相手のポイントを見抜く必要があります。更には私たちが、罪や死の支配から解放されている自分の姿を、相手に見せていくことがとても大切なのです。
4節の「わたしたちを見なさい。」という言葉は、ペトロたちが、足の不自由な男性を見つめている視点から、しっかり見つめることを要求しています。それと同時に、ペトロやヨハネを、しっかり見てもらうことを求めている言葉でもあります。
とはいえ、伝道において、「わたしたちをみなさい。」そう語りたくないのが私たちです。「あまり見つめられたら困る。自分にも、教会にも、いろいろと欠けがある。問題だらけだ。あまり見られたらみんなつまずく。」そう思ってしまうのです。
でも誤解しないで下さい。「私たちを見なさい」と語る時、人に見られても、恥ずかしくない立派なキリスト者になっている姿。それを見せることではないのです。
死と罪から解放されている私たちの姿。それを見せるのです。罪と死から解放されている私たちの姿とは、主イエスの救いを信じていたとしても、罪と死に、いつも支配されている私たちの姿を隠すことなく見せることを意味します。罪と死にいつも支配されてしまうよう、弱い私たちであるが故に、主イエスの十字架・復活・昇天の御業によって救われて、聖霊という賜物が与えられて、主イエスと共に歩むことが出来ている今の姿を見せることが出来るのが、罪と死から解放されている私たちの姿を見せるということなのです。
それはそうと、「わたしたちを見なさい」そう言われた足の不自由な男性は、「何かもらえると思って二人を見つめていた」そう5節に記されています。
彼は、何か施しをもらえると思って、ペトロたちにじっと目を注いでいたのです。彼が求めていたのは、罪と死の支配からの解放ではなくて、不自由な今の自分の生活の必要。それを満たしてくれることだったのです。
皆さん、私たちや教会が、「私たちを見なさい」と語る時、それを聞く人たちが、期待して求めてくるのは、私たちや教会が、「与えたい」そう願っているものとは、異質なものであることの方が多いのです。
今日の箇所は、そういった現実が、しっかり直視されています。多くの人たちが、私たちや、教会に求めて来るのは、自分が欲しいと思ったり、必要だと思ったりしているものです。
教会に行けば、温かい交わりが得られる。そう期待している人たちが多いと思います。でも、そういう人たちに対して、裁かずに、「私たちを見なさい」そう呼び掛けて、福音に本質である死と罪の支配からの解放。それを説いていく必要があるのです。
教会とは異質なものを求めてくる人たちに、親身に向き合って、ペトロたちのように、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」そう語っていくことが大切なのです。
6節の「わたしには金や銀はない」そういったペトロたちの返答は、施しがもらえるという期待に、応えることはできないという返答です。
教会は、人々の必要に応える何でも屋ではありません。確かに色々な必要があって、教会に来る人たちを退けてはいけません。かといって、期待に応えようと必死になる必要もありません。私たちや教会は、教会だけが持っているものを示して、与えていくことが大切なのです。
私たちや、教会だけが持っているのは、「ナザレの人イエス・キリストの名」です。
じゃあ、「ナザレの人イエス・キリストの名」が与えられるとは、一体どういう意味なのでしょうか。それは、主イエスが成し遂げられた救い、主イエスとの交わり、それが与えられることです。
「イエス・キリストの名」こそ、生まれつき足が不自由で、立ったことも歩いたこともない彼の足を強めて、立ち上がらせて、歩けるようにする力を持っているのです。
彼は、自分が立ち上がって歩くということは諦めて、死んだように生きていたのです。死んだような自分が生きていくために、必要な施しを求めたり、必要な施しを期待したりして、生きていたのです。でも、私たちや教会は、死んだように生きていかなければならない絶望を打ち破る、喜びや希望を持っているのです。しかも、その喜びや希望は、足の不自由な男性が、自分が自分の足で立ち上がって、歩けるようになることを考えていた以上のものです。
ペトロたちが、足の不自由な男性に与えようとしていたのは、「イエス・キリストのみ名」によって立つことでした。死と罪の支配に勝利して、この世で立ち上がって、この世で歩いていくことだったのです。
「私たちや教会は、あなたが期待しているものはない。でも、それ以上の、本当にあなたにとって必要なもの、本当にあなたを生かすもの、それが此処にある。それは、罪と死の支配に勝利する「主イエスのみ名」である。」そう語っていくことが、伝道です。
足の不自由な男性は救われました。ペトロが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」そう語りかけて、手を取って立ち上がらせた時、彼は踊り上がって、立って歩きだしたのです。彼が、今まで考えていなかった癒し、期待していなかった癒しが、実現したのです。
彼の足が癒されて立ち上がった時、真っ先にしたことは、8節に記されている通り、神を賛美することでした。
これは、彼が救われたことの現れです。神の救いに与った人は、神を賛美し、礼拝する人になるのです。じゃあ何で、ペトロたちと、足の不自由な男性は、一緒に境内に入っていったのでしょうか。それは、神に感謝の祈りを捧げるためです。
しかし、それ以上に大切なことがあったから、一緒に境内に入っていったのです。
それ以上に大切なこととは、ペトロとヨハネの教えを聴くことだったのです。それが意味しているのは、足が癒された男性が、教会に属す者になったということです。
4章22節に、彼の年齢が記されていることがそれを示しています。また、2章47節を見ますと、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」そう記されています。その仲間に、足の不自由な男性も、「救われる人々」の一人として、仲間に加えられ一つにされた。そう聖書学者たちは言っています。私もそう思います。
教会の伝道は、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」このペトロの言葉に凝縮されているエッセンスを、自分のものにしていくことによってこそ、進展していくのです。
今日は、特に「見る」という言葉を通して、皆さんと共に学んだいくつかのことをかみしめながら、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。