2024年7月21日仙台青葉荘教会礼拝

2024.0721.Shyuuhou

使徒言行録2章37節-42節

「救われるために必要なこと」

 ペンテコステの日、ペトロの説教を聴いた人たちは、37節に記されている通り、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」そうペトロに聴きました。それは説教を聴いた人たちが、「大いに心を打たれ」たからです。

聖霊の働きにより、神の御言葉を聴くことが出来た時、私たちは大いに心を打たれます。更には、私たちの心が揺さぶられて、「どうしたらよいのでしょうか。」そういう問いが、生まれるのです。聖霊が働いた時、そういう奇跡が起こるのです。

今も尚、教会が存続している理由は、約二千年間、そういう奇跡が起り続けているからです。

聖霊が働いた時、「大いに心を打たれ、心を揺さぶられた者は、「わたしはどうしたらよいのか」そう問わずにはいられないのです。「自分は今のままでいることはできない。変わらなければならない。変えられたい。」そういう願いが生まれるのです。

ペトロの説教の結論は36節です。そこを見ますと「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」そう記されています。ペトロは、イスラエルの人たちの罪を、つまりは教会に集う人たちの罪を、指摘したのです。その罪は、主イエスを十字架につけて殺したことです。人々の罪を指摘する。実はそれが、説教の心を揺さぶる機能です。聖霊が、説教を通して働いた時、大いに心を打たれて、「わたしはどうしたらよいのでしょうか」そう問わずには、いられなくなるのです。それは、聖霊に罪が示されて、愕然とするからです。

教会は、私たちの罪があぶり出されて、その罪の赦しが宣言される場所です。

私たちは、罪があぶり出された結果、「このままではいけない。変わらなければならない。変えられたい。」そう願うようになるのです。でも、聖書のいう罪は、「自分は悪いことをした。自分に反省すべき所がある。」そういうことで、片づけることが出来ない罪なのです。自分が主イエスを十字架につけて、死に渡してしまった罪、とりかえしがつかない罪が指摘されるのです。その事実に愕然とした時、「わたしはどうしたらよいのか」そういう問いが生まれるのです。

聖霊が働いて、御言葉の意味を知らされた時、私たちは、自分の罪の重さに、愕然とするのです。

 でも幸いなことは、御言葉の解き明かしである説教は、私たちの心を揺さぶる機能だけではないことです。御言葉の解き明かしである説教は、私たちの罪の赦しを宣言する機能もあるのです。罪の赦しが宣言されることがなければ、私たちの心を揺さぶる機能は、片手落ちで終わってしまうのです。

ペトロは、決してただイスラエルの人たちの罪を指摘して、彼らの罪を断罪することを目的としていないのです。罪の赦しを宣言するために、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」そう語ったのです。ペトロの36節の「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」という言葉は、イスラエルの人たちの罪を用いて、私たちが救われる道を完成して下さった神の恵みを指し示すためなのです。

ペトロの説教は、罪を指摘すると同時に、罪の赦しを宣言しているのです。だから説教を聴く人たちは、自分の罪に絶望して終わることはないのです。

ペトロの説教を聴いた人たちは、聖霊の働きによって心を打たれて、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいですか」そのように、使徒たちに聞いたのです。37節を見ますと、ペトロの説教を聴いた人たちは、使徒たちのことを「兄弟たち」そう呼んでいることが分かります。何故、使徒たちのことを、「兄弟たち」そう呼んだのでしょうか。

それは、自分たちの罪を指摘するペトロに、兄弟愛を感じ取っていたからです。御言葉の解き明かしである説教を、自分たちを断罪する敵の言葉としてではなくて、愛の言葉として受け取っていたのです。説教を聴く人たちに、そういう姿勢があることが、聖霊が働いている何よりの証拠です。

説教を聴いた人が、罪の先にある新しく生かされる希望が与えられた時にこそ、「兄弟、わたしはどうしたらよいのか」そういった問いをすることが出来るのです。

ペトロは、「兄弟、わたしはどうしたらよいのか」そういう問いに対して、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」そう38節で教えたのです。

「悔い改めなさい。」これは、「父なる神が遣わした救い主、主イエスを、十字架につけて死に渡した罪を、悔い改めなさい。」そういう意味です。そして、悔い改めるとは、自分の犯した罪を心から悔いて、悲しんで、反省して、もう二度と同じ過ちを犯さない。そう決意することを意味しています。

でも大切なことは、「悔い改めなさい」という言葉に続いて、「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」そうペトロが語っているということです。

確かに悔い改めは、自分の罪を悔いて、嘆いて、「二度と繰り返さない。」そう決意することです。自分の心の向きを180度転換することが悔い改めです。信仰には、確かにそれが必要です。

しかし、私たちが自分の罪を悔いて、悲しんで、反省して、向き変えたら、罪の問題が解決するかといえば、そうではありません。人間の努力や、謙虚さや、誠実さで、罪の赦しが得られるわけではないのです。罪の赦しは上より与えられるものです。人格を持っておられる神から与えられるものです。罪の赦しは、自分の力で獲得出来ません。罪の赦しを与えることが出来るのは神のみです。私たちの罪を、本当に赦す権威と力を持っておられるのは神のみです。

だから、神が定められた方法である主イエスの名によって洗礼を受けるのが、神の罪の赦しを頂けることになるのです。父なる神が、独り子主イエスを、人間としてこの世に遣わして下さって、彼に私たちの全ての罪を背負わせて、十字架にかけて下さったのです。

主イエスの十字架があったからこそ、私たちの過去から未来までの罪の赦しが、私たちに実現しているのです。

父なる神は、私たちの罪の身代わりとして、御子主イエスを十字架につけられました。その御子主イエスを復活なさいました。それを信じた者に洗礼と聖霊を与えて、罪の赦しと、新しい命を与える約束をして下さいました。

でも、誤解してはならないことがあります。それは洗礼という儀式が、罪の赦しを実現するわけではないのです。心がこもった内実が伴った洗礼が、過去から未来までの罪の赦しと、新しい命が与えられる約束になるのです。そういう洗礼と固く結びついているのが、38節の「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」というペトロの言葉です。

内実が伴った洗礼を受けて、罪の赦しを頂いてこそ、聖霊が賜物として与えられるのです。聖霊が賜物として与えられるとは、何か特別な霊的な力が与えられることを意味していません。そうではなくて、信仰共同体の群れである教会に加えられるということです。

使徒言行録2章で語られていることは、弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生したということです。ペトロは、聖霊を賜物として与えられたが故に、御言葉を大胆に語ることが出来たのです。そしてその言葉に、聖霊が働いて、人々の心を打ち、「わたしたちはどうしたらよいのですか」そういう問いが生まれたのです。

その問いに対するペトロの答は、「悔い改めて、イエス・キリストの名による洗礼を受けなさい」ということでした。

このペトロの答えは、聖霊の働きのもとにある教会への招きです。つまり「洗礼を受けて、罪の赦しと聖霊の賜物が与えられて、聖霊に導かれつつ歩んでいきなさい。」簡単に言えば、「教会の一員に加えられなさい。」そういうことです。

洗礼を受けて、聖霊の賜物が与えられて、聖霊に導かれて、絶えず主イエスを求めていく者がキリスト者です。

ペトロは、罪を悔い改めて洗礼を受けた人に、神が聖霊の賜物を与えられる約束をしたことを、39節でこう述べています。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

39節でペトロが語っている「遠く」という言葉は、物理的にも精神的にも、神の救いと距離がある人たちのことです。でも神は、その距離を乗り越えて、神の救いと距離のある人たちにも救いを、別の言葉でいえば、聖霊の賜物を、与えようとしておられるのです。そのことをペトロは39節で、「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」そういう言葉を使って、言い表しています。

ペトロの「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」という言葉にこそ、キリスト者である私たちが、神の救いの約束にあずかった最も深い根拠が示されているのです。私たちが神の救いの約束にあずかった最も深い根拠が、「主の招き」です。

キリスト者である私たちが、救いの約束にあずかった根拠。神から物理的にも精神的にも遠ざかっているすべての人たちに、神の救いが与えられる可能性がある根拠は、神が招いて下さっているという事実があるからです。「主の招き」こそが、私たちが救われる根拠です。

私たちが悔い改めて、洗礼を受けて、罪の赦しと、賜物としての聖霊が与えられて、教会の一員に加えられて生きる人になったのも、全ては神の招きによるのです。

つまり、37節の「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いに対する答えは、神の招きに応えなさいということです。御言葉によって、大いに心を打たれて、「自分はこのままではいけない。変わらなければならない。変えられたい。」そういう願いを与えられた人に求められているのは、神の招きにこたえて、聖霊に導かれて生きていくことです。

私たちが本当に変えられるために必要なことは、自分で何かをすることではないのです。神の招きに応えて、神の通りよき管となることです。そこにこそ、これまでとは違った本当に新しい歩み、本当に新しい人生が与えられるようになるのです。

しかし、神の招きに応えて、神の通りよき管となることがとても難しいのです。

40節を見ますと、「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた」そう記されています。

「邪悪なこの時代」とは、罪が支配して、悪が猛威を振るっていて、憎しみ、争い、対立、抗争が繰り広げられているこの世のことです。

私たちは、「そういったところから救われたい。」と、確かに日々願っています。でも止められないのです。これらのことを止められるのは、一体何によって可能となるのでしょうか。それは、悔い改めて洗礼を受けて、教会の一員に加えられて、賜物としての聖霊が与えられることによってこそ、可能となるのです。

神の招きを受け入れて、罪を赦して頂いて、聖霊の賜物が与えられて、聖霊の力と導きが与えられてこそ、神の求める平和、シャロームを、造り出せる者となるのです。

41節を見ますと、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」そう記されています。ペトロの説教を受け入れた人たちは洗礼を受けました。つまり主の招きに応えたのです。

では、神の招きに応えて、聖霊の賜物が与えられて、教会の仲間に加わった三千人ほどの人たちは、一体何をしたのでしょうか。そのことが記されているのが、42節です。そこには、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」そう記されています。

「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」今週一週間、私たちも、神の招きを受け入れた仙台青葉荘教会の、多くの先達たちの後に続いて、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」な者にされたいと心から願います。

その理由は、それこそが、私たちやこの世が、本当救われるためには、とても大切なことだからです。

最後に一言お祈りさせて頂きます。