コリント信徒への手紙Ⅰの15章35節-41節
「再臨」
今日は、再臨につて皆さんと共に学びます。
四重の福音の「再臨」は、私たち側が、主イエスが「再臨」なさった時、私たち側が、一体どうなるのかを教えているものです。
それを知るには、コリントの信徒への手紙一の15章を学ぶのが良いと思います。コリントの信徒への手紙一の15章の主題は、キリスト者が復活するということです。
主イエスの救いを信じて洗礼を受けた者は、主イエスがもう一度来られる再臨の時に、復活して、永遠の命を生きる新しい体を与えられることを教えているのが、今日の箇所です。
そして、私たちの復活と、主イエスの復活が結びつくのは、主イエスの十字架の死が、私たちの原罪のためであったという信仰によります。
主イエスの復活は、父なる神が、死の力を打ち破って、主イエスに新しい命を与えられた御業です。そんな父なる神の御業が指し示しているのは、神の子となった私たちにも、死の力に対する勝利を与えて、新しい命を与えて下さるということです。
主イエスは、私たちの復活の初穂なのです。つまり、主イエスは、私たちの復活の先駆けとして、父なる神によって復活させられたのです。
私たちが、自分の復活を信じて、そこに希望を置くことができるのは、父なる神が、神の子主イエスを、復活させたことを信じているからです。
神の子主イエスの復活は、神の子となった、私たちの復活の保証であり、根拠なのです。
そんな主イエスの復活は、魂のみの復活ではなくて、目に見える肉体の復活でもありました。ということは、私たちの復活は、魂のみの話ではないということになります。
神の子となった私たちは、神の子主イエスの復活故に、霊肉共なる復活の約束が与えられているのです。
つまり、キリスト教の教えは、霊魂不滅の教えではないということです。霊魂不滅の教えは、死んでも魂だけは永遠に生きて、救いにあずかることが出来るという教えです。でも、キリスト教の教えは、目に見えるこの体が復活する。今のこの体が、新しい体に造り変えられるということです。
私たちは人生の終わりに、今のこの体は一旦死ぬのです。一旦死んで、魂が、神のみもとに抱き止められて、深い眠りにつくのです。でもそれが、救いの完成ではないのです。主イエスが再臨なさった時に、私たちの魂は目覚めて、新しい体が与えられて、魂と体を持つ存在として、永遠に、三位一体の神と、神を信じた人たちと、愛の交わり共同体として、共に生きるようになるのです。それが、私たちの救いの到達点なのです。
でも、私たちの体の復活について、疑問になることがあります。それが35節の「どんな体で来るのか」という疑問です。
私たちが復活した時、私たちの体は、どんな体なのでしょうか。何を食べるのでしょうか。呼吸はするのでしょうか。何歳ぐらいの姿で、復活するのでしょうか。
ある人は、「年をとって死んだ時の、よぼよぼ姿のままで復活するならば、あまり有難くない。もっと若い元気な時の姿で、復活させてもらいたい。」そう思うでしょう。逆に考えれば、「胎児の時や、赤ん坊の時に死んだ人は、胎児のままで、あるいは、赤ん坊のままで復活するのでしょうか。」そういった疑問も生まれてきます。さらに考えれば、「体に障害がある人はどうなるのか。この世を生きていた時、自分が持っていた障害が、復活の体においてもなお残るのか…。」そういう疑問も生まれてきます。
そういったことを考えていくならば、だんだんと、「体の復活は、非科学的であり、馬鹿げている。」そう思えてきてしまうのです。でもそれは、現代に生きている私たちだけが、そう思うのではないのです。
古い時代から、そういう思いを持っていて、「体の復活なんかない。」そう言っていた人たちがいたのです。それが、サドカイ派の人たちです。その証拠に、彼らは体の復活が、いかに馬鹿げた教えであるかを示すために、主イエスに質問をしたのです。
それがマルコによる福音書12章18節-23節です。そこを見ますと、「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」そう記されています。
つまりサドカイ派の人たちは、「旧約聖書の律法に、長男が子どもを残さずに死んだ場合、その妻は次男と結婚して、家の子孫を残すという掟がある。だとすれば、7人の兄弟が、上から順番に、一人の女性と結婚をして、誰も子を残さずに死んだならば、復活した際、その女性は誰の妻になるのか。」そういう質問をしたのです。この質問は、純粋な質問ではありません。主イエスを落としめることを目的とした、質問だったのです。
サドカイ派の人たちが質問を通して言いたかったことは、「体の復活を信じるなら、現実的に考えれば、おかしな問題が出て来る。だから復活なんかない。律法を知らないド素人め。」そういうことだったのです。
確かにサドカイ派の人たちが言っている通り、この世の現実的なところから想像したならば、いろいろなおかしな問題が出て来るのです。
先程ご紹介した問題以外にも、夫や妻と死に別れたり、離婚したりして、再婚するなんてことが多々あります。復活したらその人たちの関係はどうなるのでしょうか。この世の現実的なところから想像すれば、体の復活の教えは、困った事態を引き起こすものでしかありません。
この世の現実から想像するならば、夫婦問題に限らず、今の体に、苦しみや絶望を抱いている人は、「復活は迷惑!そんなことは勘弁してもらいたい!自分は死んだら消滅したい!」そう思うかもしれません。
因みに藍先生は、「復活するよりも消滅したい。」付き合っていた当時、そう言っていました。ある人たちにとっては、復活の教えは希望どころか、苦痛をすらもたらすものに思えてしまうのです。
それはそうと、主イエスは、サドカイ派の人たちのマルコによる福音書12章18節-23節の問いに対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らない」という、マルコによる福音書12章24節の答えを言われたのです。更には、マルコによる福音書12章25節に記されている通り、「復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」そう言われたのです。つまり、主イエスが、サドカイ派の人たちの質問に対して言われたことは、「私たちが復活した時、神の力によって、今とは違う新しい者にされる。」ということです。
先程からの体の復活についての疑問は、今のこの体や生活が、そのまま復活して再開するという前提に立っています。だからこそ、「何歳ぐらいの体で復活するのか」とか、「夫婦の関係はどうなるのか」とか、「復活など迷惑」という話になるのです。
でも、神が、私たちに与えようとしておられる復活は、この世の生活の再開ではありません。私たちが、復活の体が与えられる主イエスの再臨の時、神の力によって、全く新しい者にされるのです。
今のこの体の延長上に、私たちの体の復活を考えてしまってはならないのです。私たちが復活する時、神によって新しく創造されるのです。私たちの体の復活は、父なる神の第二創造の業なのです。天地の全てと、私たちをお造りになった創造主としての父なる神の力が、私たちを復活させる時、再び発揮されて、私たちは新しい者にされるのです。
パウロはそのことを36節-38節で、種とそれによって実る実というたとえを用いて語っています。そこを見ますと「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」そう記されています。
蒔かれた種が育っていって実を実らせた時、当然ながら、蒔かれた種の時と、形も大きさも全く違っています。蒔かれた時は小さな種なのです。でもその種が、地面の中で芽を出して、花を咲かせて、実を実らせるのです。種は種の形を失い、全く違う実となるのです。そのことをパウロは、種が死んで、神によって、実という新しい体が与えられることとして語っているのです。
現代では、種の中に、後に実を実らせていくための、全ての遺伝子情報が入っていることが知られています。でも、そういったことを知らなかった昔の人たちにとっては、種が育ち、種とは形も大きさも全く違う実が実るなんてことは、とても神秘的なことだったのです。現代の私たち以上に、そこに、神の大きな力が働いていることを感じていたはずです。パウロは、種が育って、種とは形も大きさも全く違う実が実ることを、15章38節で、「神は、御心のままに、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる」そう表現しています。此処でパウロが言わんとしていることは、「種の実は、種が地面の中で死んだ後で、神によって新しく造られて、与えられた体なのだ。」ということです。そしてそれこそが、私たちの復活の体のたとえなのです。
私たちが死んで、今の肉体が地に埋められた後、神によって、今のこの体と全く違う新しい体が与えられるのです。私たちの今のこの体と、復活の後の体では、種と実ほど違いがあるのです。
つまり私たちが、体の復活について、色々な疑問が思い浮かんできて、それは困るなんて思うことは、種という自分の今の姿から、将来の実りの姿をあれこれ勝手に想像をして、疑問に思ったり、それは困ると言ったりしているようなものなのです。
主イエスが再臨なさった時、父なる神が、与えて下さるという約束をして下さっている復活の体は、今のこの体から、想像もできないような素晴らしいものなのです。
パウロは、今日の箇所を通して、今のこの体と、復活の体との非連続性を強調しているのです。私たちは今のこの体から、復活の体のことを、おしはかってはならないのです。
私たちが、今の体をもって生きているこの世の生活では、色々な問題があります。生まれもって体の障害を持っていたり、事故や病気故に、体の障害を持っていたりします。また、死別や、人間関係の破れ故に、再婚をしている場合もあります。あるいは、生きていることに意味が見出せなくなる苦しみ故に、消滅してしまいたいと願っていたりもします。
でも、主イエスが再臨なさった時、父なる神が、与えるという約束をして下さっている復活の体は、この世の歩みの延長線上ではない新しい体であり、新しい命なのです。
この世の苦しみや障害を持ったまま復活するわけではないのです。死別や、離婚という不幸なことが影響する形で、復活するわけでもないのです。父なる神の新しい創造の力によって、それらのことから解放された、新しい命と体が与えられるのです。
だからこそ復活は、私たちが今抱えている全ての問題が解決して、悩み、苦しみ、悲しみの全てが取り去られる希望なのです。復活は、喜びをもって待ち望むべきことなのです。
私たちの今の体と復活の体は、連続しているものではなくて、非連続なのです。でも、私たちが復活した時、別の人になってしまうのではないのです。自分が自分で、なくなってしまうわけではないのです。「私が私であること」は、ちゃんと残るのです。難しい言い方をすれば、自己同一性は、残るのです。そういう意味では、今の自分と、復活する自分は連続しているのです。実は、パウロは種と実のたとえでも、そのことを意識しています。その証拠に38節で、パウロは「一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」そう語っています。つまり、神は御心のままに、一つ一つの種に、それぞれ体をお与えになるということです。
ある種にはある体を、そういった一つ一つの対応を、神がなさるということです。分かりやすく言えば、大根の種を蒔けば、大根ができるのであって、大根の種を蒔いて、人参ができるわけではないということです。種は蒔いた種と、全く別の筋の実になるなんてことはないのです。
つまり、私たちが復活した時、復活前の体と、全く違った筋の体が与えられるわけではないということです。つまり、全く新しい命と体を与えられたとしても、私たちは、私たちである続けるのです。
実はパウロは、39節-40節前半まで、神がそれぞれに相応しい体を与えられることを語っています。彼は、人間、獣、鳥、魚では、与えられる体が違うということを語っています。それに加えて、「天上の体」と「地上の体」との違いがあることも語っています。
「天上の体」は、41節に出て来ている「太陽」、「月」、「星」のことだと言われています。そして「地上の体」は、この地上に存在する、あらゆるもののこと言われています。
更に言えば、「天上の体」は、私たちの復活の体を指し示していると思われます。そして、「地上の体」は、今の私たちの体を指し示していると思われます。
父なる神は、「天上の体」も、「地上の体」も、全て、御自分の御心のままに造られたのです。そんな父なる神は、「天上の体」にも、「地上の体」にも、それぞれに、輝きを持つ体としてお造りになられたのです。つまり、復活前は復活前の、復活の後には復活の後の、別の輝きがあるということです。そこにこそ、復活の体が与えられる希望の根拠があるのです。更に細かいことを言えば、パウロが41節で語っている通り、「天上の体」の中にも、「太陽」、「月」、「星」では、輝きに違いがあります。また「星」と「星」を比べても、輝きに違いがあるのです。つまり、一人一人が、この世で生きている時も、復活をした後でも、とてもユニーク性を持った、大切な人であるということです。
つまりパウロが、40節-41節を通して言わんとしていることは、「今の私たちの体は、今ならばの輝きがあり、復活をしてからも、復活したからこその体の輝きがある。そして、私たちは、一人一人の輝きが違っている。その違いがあってこそ、神の創造の業を称えている歩み、神の栄光を現す歩みになる。」そういうことです。
今申し上げました通り、「今の私たちの体は、今ならばの輝きがある」のです。私たちの復活を考える時、そのことを忘れてはいけません。今のこの世の歩みも、神が与えて下さっているものであり、神が大切に思って下さっているのです。今の私たちの歩みも、神にそれぞれの輝きが与えられているのです。
つまり、主イエスが再臨なさった時に、私たちが復活するという信仰は、今のこの世の苦しい生活を、ひたすら忍耐して、それを待ち望み、生きていくだけであってはならないということです。
父なる神が与えて下さる、復活の体を待ち望むことが出来るのは、父なる神の、創造の力を信じていればこそです。最の方で申しあげました通り、神の第一創造の業は、この世の万物の創造です。そして、神の第二創造の業は、私たちを神の子らしく再創造していくことです。そして、神の再創造の業を信じている私たちならば、今私たちが生きているこの世の歩みにおいても、神の子とされた私たちらしい輝きが、与えられることを信じて、今を大切に歩んでいけるはずなのです。
主イエスの再臨を待ち望む信仰は、今の歩みも、神のみもとに召された後の歩みも、父なる神の再創造の業に支えられて、神の子として、輝きに満ちるであろうことを、信じる信仰なのです。それ故に、再臨信仰は、この世の歩みを軽んじるような信仰には、決して陥らないのです。むしろ、この世の歩みを大切にする延長線上に、神のみもとに召された後の歩みがあることを心に留めて、今この時を、神にあって大切に生きるようになるのです。
今の私たちの歩みにおいて、聖霊を私たちの内に内住させて、日々再創造の業を施して下さっていることが、神が今の私たちの歩みも、大切にして下さろうとしている何よりの証拠です。
私たちは、主イエスが命を懸けて救って下さり、三位一体の神と、隣人との関係に生きることが出来るように、別の言い方で言えば、愛の交わり共同体である三位一体の神の輝きを、私たちが日々放って生きていけるようになるために、聖霊をも、私たちの内に内住させて下さったのです。
それ程まで、神は私たちを愛して下さっているのです。更にいえば、いつも主イエスの罪の贖い、聖霊の内住を与えたい。そう神が思っている程、神から愛されている私たちの隣人なのです。
そのことを知らされている私たちだからこそ、私たちが、また私たちの隣人が、三位一体の神の栄光、つまり、三位一体の神、自分、隣人が、ちゃんと三位一体の愛の交わり共同体になれるように、日々取り組んでいく必要があるのです。
四重の福音で、再臨のことを栄化と言います。栄化とは、三位一体の神の栄光、つまり、愛の交わり共同体である三位一体の神の輝きを、三位一体の神、自分、隣人の間に映し出していくことなのです。
そのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に豊かに歩んでいければと願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。