2024年6月23日 仙台青葉荘教会弾圧記念礼拝 

2024.0623.Shyuuhou-1

Ⅱテモテ1章3―14節

「耐え忍ぶ」

今日は弾圧記念礼拝です。

1942年6月26日。ホーリネス系の教会の教師が、一斉検挙されました。検挙の理由は、裁判の、検事の論告文によるとこうです。「三位一体の神は宇宙万物を創造し、これを永遠に支配する唯一の生ける神なりとし、この神による新生、聖化、神癒、再臨の、四重の福音を力説し、特に再臨を、神の我らに対する約束にして必至なりと強調し、人類は、その始祖たるアダム、エバ以来、悪魔の誘惑により、神より離れ罪悪を重ね来たりたるが、神はこれを救済せんとして独り子なるキリストを地上につかわし、キリストは十字架の磔刑により、人類の罪を贖い、昇天したるも、その後における人類の堕落は、神意に背くこと甚だしく、暴虐と罪悪とが世に満つるに至るをもって、神は再びキリストを有形肉体の姿にて顕現せしめ、義の審判を開始すべく、キリストは近き将来まず空中に再臨し、すでに死せる聖徒を甦らしめ、聖化したる信者と共に、空中に携挙し、しかる後、神は地上に飢饉、疫病、戦争等の災厄の蜂起する艱難時代を現出せしめて、神を認むる者のみを、地上に生存せしめたる上、キリストを地上に再臨せしめ、わが国を含む、世界各国の統治権を摂取せしめ、キリストを統治者、神の選民と称するユダヤ人を国民の中核となす、千年王国なる地上の神の国を建設し、天皇統治が千年王国の建設により、廃止せらるものとなす。」

この検事の論告文は間違っている。そうホーリネス教会の先達たちは証言しています。当時、主イエスの再臨を、聖書に書かれていることとして、力強くメッセージをしていたみたいです。でも、天皇統治が廃止されるなど、礼拝の中で語られたことはなかった。そう先達たちは証言しているのです。

でも特高警察は、そのように考えていなかったのです。特高警察は、「主イエスが地上に再臨して、世界の統治権を掌握したなら、天皇の統治権が廃止されてしまう。」そのように本気で考えていたのです。

つまり特高警察がそう解釈するぐらい、ホーリネス教会は、再臨信仰を宣べ伝えることが出来ていたのです。

でも、特高警察のそういった思い込みが、ホーリネス教会弾圧に向かっていったのです。

当時、天皇の統治権の否定は、日本の国の国体を、否定することと同じでした。だから、改正治安維持法第七条を犯している。そういった理由で、ホーリネス教会は、弾圧を受けることになったのです。

当時の日本の時代背景。それを少々御紹介します。

1939年7月、日本軍が、中国の盧溝橋を襲撃したことがきっかけとなって、日中戦争が始まりました。すぐに終わると思っていた戦争でした。しかし、中国の必死な抵抗により、日本の国力は疲弊しました。そんな中、1941年12月、太平洋戦争に突入しました。どんどん日本が不利な状況になっていく中で、政府は国の力を一つにするために、言論思想の統制をかけ始めたのです。

そのために作られたのが治安維持法です。これは、共産主義者を無くすことを目的にして作られた法律でした。でも、戦局が悪くなっていくにつれて、政府に少しでもたてつく思想であれば、宗教にも遠慮なく適用できるように変えられていったのです。治安維持法の適用の範囲を、広げるように変更されてしばらくした後、ホーリネス教会の弾圧が起こったのです。

そのホーリネス教会の弾圧を忘れないために、ホーリネスの群れは、毎年6月の第4日曜日を、弾圧されたことを心に覚えながら、礼拝を捧げているのです。

でも、誤解しないで頂きたいことがあります。それは、ホーリネス弾圧を覚えるのは、ホーリネス教会が、国に何をされたのかとか、日本基督教団に切り捨てられたことを、忘れないようにしようということではないのです。

太平洋戦争が終わった時、中田重治先生の側近だった森五郎先生は、マッカーサー元帥に「損害賠償をするから、取り調べの調書を出してください」そう言われた時、先生は「調書は持って来ましたが、損害賠償は要求いたしません。それより、もっと素晴らしい恵みを、神様から頂いて、今はこうして、敗戦という愛のむちを頂いたけれど、こうして喜びをもって伝道が出来るようになりました。こんな幸いなことはありません。他の教師たちも皆同じです。要求はいたしません。」そう言ったそうです。

その先生の発言に、マッカーサー元帥は感動して、アメリカでそのことを語り伝えたというのです。

ホーリネス教会の先達たちは、弾圧を受けたことを誇りに思っていたのです。

ある時、島先生がこのようなことをおっしゃっていました。「誰も日本基督教団が、ホーリネス教会にしたことや、国がホーリネス教会にしたことに対して、不平不満を言う人はいなかった。むしろ、信仰者らしく歩めたこと、十字架の苦難を肌身で知ったこと。そのことを神にあって感謝していた。」

つまり、私たちが弾圧を風化させてしまうことなく、心に刻もうとする理由は、そういう先達たちの信仰を受け継ぐためです。

つまり、牢獄に入れられても、それが、主イエスの十字架を思う契機となって、主イエスの十字架に対する感謝が溢れ出して、パウロとシラスが牢獄の中で心から神を賛美したような信仰を、先達たちが歩んでおられたことを覚えて、その信仰の歩みに続きたいと思うからこそ、毎年、ホーリネス弾圧記念礼拝を、神にお捧げしているのです。

今日の箇所を見ますと、牢獄にいたパウロは、苦しみを恥としない信仰、苦しみを主イエスの十字架を知る喜びとする信仰、それをテモテに委ねようとしています。

自分の信仰のバトン、それをテモテに渡そうとしているのです。パウロは5節で、テモテの信仰のことを、「純真な信仰」そう表現しています。「純真な信仰」とは、偽りのない信仰という意味です。

テモテが、偽りのない信仰の持ち主であるからこそ、パウロは自分の信仰を、テモテに委ねようとしているのです。

島先生は、「ホーリネス信仰は、純粋な信仰だからこそ、かつて日本基督教団から、私たちの信仰とは違う!そのように疎まれていた。」そういったことをおっしゃっていました。

再臨を待ち望んで、主イエス以外、神ではないと言い切る純粋な信仰は、社会の状況に合った御言葉を語り、自分たちを守ろうとしていた人たちにとっては、狂信的で迷惑なものなのです。

社会の状況に翻弄されることなく、純粋に聖書を説くことは、敵を多くつくることになります。先達たちは蛇のような聡い知恵がなかったといわれれば、そうでしょう。でも、蛇のような聡い知恵を用いなかったからこそ、先達たちは、主イエスの十字架の苦しみに与る信仰。それを神から特別に与えられたのです。

中田重治先生と共に聖書学校を担った五教授の一人、小原十三仕司先生も、弾圧の時に投獄されました。昭和18年9月22日の手紙で、こんなことを書かれています。「我も、今の要するものは活ける信仰なりと感じ、信仰とは胸に燃える火なりと答え、独り微笑み致しし候。いと奇しき神の摂理に守られて、今ぞ味わわん神のみ恵と歌い候」

小原十三仕司先生は、試練の時に必要になるのは、生きた信仰だと言うのです。過酷な状況の中だからこそ、主イエスの十字架の恵みを深く知らされる。そういう思いが、胸に燃える火となって、独り微笑んだというのです。神の摂理に守られて、今こそ味わわん神のみ恵み。そう賛美したというのです。

さらに小原先生は、手紙の中で、こう続けています。「重ね重ねの苦難にあった時、『どんな事があってもやけだけになりたくない』~20日の牢での感想!人生は苦しみの戦場なり、しばしばこの事さえなければと思うような事あれば、しかし、それよりもこの事さえあればというものを所有すべきはずであると、独り勇気をふるい申候。十字架の黙想!聖書は無くてもガラテヤ書にて、かしこに我を見、我が内に彼見る、信仰によりて生くる也」

獄中の狭く汚く惨めでひもじい、何とも堪え難い中だからこそ、主イエスが、自ら進み、十字架に架かられたことを覚えて、「どんな事があってもやけだけになりたくない」そう小原先生は、思われたのだと思います。「どんな事があってもやけだけになりたくない」これは後々でも、折にふれて、先生が口にしていた言葉だそうです。「しばしばこの事さえなければと思うような事あれば、しかし、それよりもこの事さえあればというものを所有すべきはずである」

おそらく小原先生は、主イエスも、一時は十字架の杯は取り去って欲しい。そのように父なる神に懇願したが、それ以上に、父なる神のみ旨である十字架を背負う事が、最善の道であるとして、主イエスが奮起されたことを思い起こされていたのだと思います。そして、小原先生は、「もはや、われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」という、ガラテヤ書2章20節の文語訳を、思われたのだと思います。ガラテヤ書2章20節は、新共同訳聖書では、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」そうなっています。

テモテへの手紙Ⅱの2章8節以下で、パウロもこのように語っています。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方はダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリストによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に誠実であられる。」

つまりパウロは、「私は牢獄の中にあっても、鎖に繋がれている者でない。主イエスに繋がれている者である。だからこそ、神に選ばれている人たちであることを信じて、まだ主イエスの福音を知らない牢獄の中にいる囚人たちのために、また、牢獄の番人たちのために、ありとあらゆることを耐え忍び、神の救いを宣べ伝える。それは彼らが、永遠の命を得るためである。私たちが、いつも主イエスを追随しないならば、主イエスの十字架の恵みは、私たちを追ってこなくなる。私たちは自分都合で主イエスの十字架を見上げるような不誠実な者である。でも、主イエスは、私たちの応答に対して誠実である。私たちの応答に対して、不誠実になることが出来ない御方なのである。」

そうテモテに教えたのです。つまりパウロは、いついかなる時であろうと、主イエスの十字架に目をむけて、しっかり主イエスに繋がっていることの大切さ。それをテモテに教えたかったのです。

小原先生が獄中から、奥様であった鈴子先生に宛てた昭和18年11月29日の手紙には、こういうくだりがあります。「私もいよいよ単純に信ずる事を学びたく念願致し候。お互いただ神のみを当にする深い信仰に徹したきもの」

小原先生は、まだまだ自分の信仰は浅い。だからもっと深い信仰に徹していきたいものだと言うのです。

 ホーリネス信仰は、端的に言えば、主イエスの十字架のみを真実として、そこに知(知識)・情(感情)・意(意志)で持って、最後まで留まることです。

十字架に架かられた主イエスの愛を真実として、それを自分の全てとした時にこそ、私たちは主イエスの真の恵みに生かされていくようになるのです。

パウロはテモテに、信仰の内実とは何であるのか。それを8節で教えています。そこを見ますと、「だから、わたしたちの主を証することも、主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」そう記されています。此処でパウロが言わんとしていることは、「私はたとえ牢獄の中にいようとも、囚われの身だからといって、わたしたちの主を証することを止めないし、主の囚人であることも恥じることもない。むしろ、神の力に支えられて、福音のために苦しみを喜んでいる。だからテモテも、わたしと共に、私の苦しみを喜んでほしい。」ということです。

此処の箇所は、「むしろ」という言葉にこそ、パウロの深い思いが込められています。どのような状況、どのような問題課題、どのような弱さの中にあっても、それこそが、十字架の恵みを深く知る契機となって、神の力に支えられて、神の方へ向いていくようになるということです。

パウロはしばしば、信仰の戦いを立派に戦い抜く大切さを語っています。その証拠に、テモテへの手紙1の6章12節では、「信仰の戦いを立派に戦い抜く」ことをテモテに勧めています。また、テモテへの手紙2の4章7節では、「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」そう語っています。

パウロのいう戦いは、主イエスの十字架の恵みに支えられて、苦しみを喜び、たとえ牢獄に繋がれていたとしても、主イエスを証することを止めない戦い。いついかなる時も、主イエスの囚人であることを恥じないようになる戦いです。実は、テモテへの手紙2には、繰り返し使われている用語がいくつかあります。それは「苦しむ」、「耐え忍ぶ」、「苦難」という言葉です。これらの言葉は、各章で何回も出て来ている言葉です。

何故、テモテへの手紙2で、それらの言葉が何回も出てきているのでしょうか。それは、この手紙を書いたパウロ自身が、度重なる苦難、度重なる苦しみ、それを耐え忍んでいたからです。でも同時に、その度に、主イエスの十字架の恵みを深く知らされて、神に感謝をささげていたのです。

嘘偽りなく、神の力に支えられて、たとえ牢獄の中にいようとも、神の恵みの中を喜んで生きることが出来ていたのです。

テモテへの手紙2の4章17節で、パウロはこう語っています。「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。」

たとえどんなに苦しく感じている最中にあっても、主イエスは確かに、私たちの側にいつもいて、力づけてくださる御方なのです。

以前に、お話しをしたことを、思い起こして頂きたいと思います。それは、CNNというニュース局の上級幹部の証です。

彼は、空港から車に乗って、ベイルートに向かう最中、途中で車を止めざるを得ませんでした。それは、50人~60人の黒装束の女性が、行進をしていて、車で通り抜けることが出来なかったからです。彼は車の中で、あの人たちは何をしているのか運転手に聴きました。すると運転手は、「彼女たちは、テロリストのハマスによって、拉致されていったキリスト者の夫たちのことを追悼(ついとう)して、行進しているのだ。」そう言ったのです。そのことを聴いた時、彼は、嫌な予感がしました。その嫌な予感が的中して、彼は3日後に、テロリストに拉致されました。ダマスカの地下の牢獄に、入れられたのです。彼は牢獄の中で、全く冷暖房もないところで、鎖につなぎとめられました。かがむような姿勢で、立つこともままならず、体が痛くなるような状況に置かれたのです。トイレに行かせてもらう以外、そういう姿勢のまま、鎖につなぎとめられていたのです。彼はそこで18カ月間、過ごすことになったのです。彼が牢獄に入れられた時、彼は無神論者で、神を全く信じていない人でした。しかし、生と死の狭間にあり、心が不安に満ちて、神を求めざるを得ず、彼は神に祈りはじめたのです。拉致されて、6カ月程たった頃、牢獄の見張りの人が、彼に対して非常に優しく、「あなたの望むものを一つあげますよ。」そう彼に言ったのです。その時、彼は、聖書が欲しいと申し出たのです。驚くことに、次の日に、ギデオンの聖書が渡されたのです。何故、彼が聖書を欲したのかというと、彼が無神論者だったので、どう祈ったら良いのか分からなかったからです。ある時、彼はマタイによる福音書5章を開いたのです。そこには弟子たちが、主イエスに対して、主よ、私たちがどうやって祈ったらよいのか教えて下さいと言ったことが記されていて、そこに主の祈りが記されていたのです。彼は、「これはまさに神の導きだ!」そう思ったのです。そして、彼は主の祈りを全部暗証したのです。そんな中、彼は牢獄でとうとうクリスマスを迎えることになったのです。その時、彼は、今自分が拉致されているダマスカスは、主イエスが生まれたベツレヘムから近い。主イエスの生まれたすぐ側に自分がいる。ベツレヘムで誕生した主イエスを、此処で自分が祝えるのは、なんと幸せなことであろうか。そう思って感謝に満ち溢れて、彼は涙を流したのです。もし、自分がシカゴにずっといたとすれば、こんな経験をすることはなかった。主イエスを信じるなんてことはなかった。そう彼が思った時、拉致されたことを神に感謝します。そう彼は思わず口にしていたのです。

牢獄で、とうとうクリスマスを迎えることになった時、彼に小さなケーキと、蝋燭が与えられたのです。彼の誕生日は12月26日でした。ですから彼は、このケーキは、あなたの誕生を祝うケーキでしょうか、それとも私の誕生を祝うケーキでしょうか。そう神に祈ったのです。その時に彼が神に示されたことは、このケーキは、両方の誕生日を祝うケーキだということだったのです。そのことが示された時、彼は、死を恐れていたはずの牢獄生活が、もっと長く続けば良いのに。そう思ったのです。彼は、死を恐れていたはずの牢獄生活が、神に繋がれている牢獄に思えて、牢獄生活が愛しく感じるようになっていたのです。

皆さん、苦難の中で、「むしろ神の力に支えられて」というのは、苦難の中にこそ、確かな神の御手があることを確信させられた時に言える言葉です。

「明日がどうなろうと、今この時、確かに神が共にいて、主イエスの十字架の愛を味合わせて下さっているからそれで良い。私を愛して下さっている主が、今共にいることが、自分の一番の安らぎになっている。たとえ明日、この世の終わりがこようとも、私はリンゴの木を植えよう」

そう思えるキリスト者になることが、ホーリネス信仰に生かされることなのだと思います。

どのようなことが自分に襲いかかってこようとも、主に安きを見出して、アーメンと言うことが出来れば、怖いものは何もないのです。どんな苦難が、自分に押し寄せてきたとしても、「むしろ神の力に支えられて」と、無理矢理ではなくて、心の底からいえるキリスト者になりたいと願います。

最後に14節の御言葉を覚えて終わりたいと思います。14節を見ますと、「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」そう記されています。パウロはテモテに「内に住まわれる聖霊によって守りなさい」と語っています。「住まわれる」とか「宿る」という言葉は、もともと「家」という言葉から来ています。

私たちは、必ずしも、休養するために家にいる訳ではありません。確かに休養するために寝ている時もありますが、掃除をしたり、料理をしたり、仕事をしたり、結構忙しく活動をしていると思います。

つまり聖霊は、私たちの内を家として、時に応じた色々な活動をして下さることを通して、神の力や支配が、御自分の住まいである私たちに、及んでいくよいうにして下さっているということです。 

今日、私たちは、「パウロや、小原先生や、弾圧にあった先生方のような信仰を持つことなんか、到底無理!」そう思うかもしれません。でも大丈夫です。何故なら、聖霊が私たちの内に住んでくださっていて、私たちの状況にあった働きをして下さって、神の力や支配が、私たちの内に日々及んでいくように、つまりは、聖霊が私たちという家を、御自分の住み心地の良い場所に、聖霊自身の手で造り変えていって下さるからです。

聖霊が御自分の住まいである私たちを日々造り変えて、私たちを神の子らしく整えていって下さるのです。

私たち自身はあてにはなりません。でも私たちが信じて、従っている御方は、真実で力あるお方です。だからこそ、その御方の働きを邪魔しないように、その御方の通り良き管となって、いつも歩んでいければと願います。

その時に、私たちの想像を遥かに超えた、驚くべき信仰が与えられるようになるのです。そこに望みを置いて、今週一週間も、皆さんと共に力強く歩んでいければと思います。

 最後に一言お祈りいたします。