2022年5月26日 仙台青葉荘教会礼拝
説教メッセージ
今日の箇所は、聖霊を受けたペトロが、ペンテコステの日に語った説教が記されています。その説教は、教会時代の幕開けの説教です。その説教で、主イエスの十字架の死をペトロは語っています。ということは、教会は聖霊の働きによって歩み出したその時から、主イエスの十字架の苦しみと死を語っていたということです。
それが指し示していることは、主イエスの十字架の苦しみと死は、教会が第一に宣べ伝えるべき中心的な事柄であったということです。
教会時代の幕開けの説教には、弱い隣人を愛しましょう、弱い隣人を守りましょうといった教訓はありません。ペトロが語ったことは、主イエスの十字架の死と復活だけです。
教会は聖霊により、主イエスの十字架・復活を宣べ伝える力が与えられて歩み出したのです。
その説教の語り出しの14節を見てみますと、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」そう記されています。でもペトロは、22節では「エルサレムに住むすべての人たち」とは言っていません。「イスラエルの人たち」そう言っています。
つまりペトロは、「エルサレムに住むすべての人たち」という14節の言葉とわざと区別をして、「イスラエルの人たち」という22節の言葉を使っているのです。
つまりペトロは、語りかけている相手が同じでありながらも、22節からは、「イスラエルの民」であることをはっきり意識させるように述べているのです。
「イスラエルの民」であることを明確に意識させる目的は、神に選ばれて神の民になっていることを、意識させるだめだったのです。
つまり、「あなたがたは、神との契約の恵みが与えられて、神との特別な関係に、既に入れられている人たちである。救い主を遣わされる約束が、既に与えられていた人たちである。」
そのことを意識させる目的でペトロは22節で、「イスラエルの人たち」そう述べたのです。そんなペトロは続く22節で、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」そう述べています。
この言葉は、主イエスが救い主であることを言い表しています。主イエスが救い主であることは、この世で沢山の奇跡を行われたことで既に証明されています。
だからこそペトロは22節後半で、「あなたがた自身が既に知っている通りです。」そう述べたのです。
主イエスがなさった色々な奇跡は、父なる神が主イエスを通してなさったことなのです。つまり、主イエスが父なる神が遣わした救い主であることを、父なる神御自身が示された出来事だったのです。
イスラエルの民ならば、神の民として主イエスをしっかり迎えて、主イエスに聴き従わなければならなかったのです。でも彼らは、主イエスを受け入れなかったのです。23節後半に記されている通り、「律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」
「律法を知らない者たち」とは、ユダヤ人でない異邦人たちのことです。具体的に言うえば、ローマ帝国の総督ピラトやその手下たちです。ユダヤ人たちは主イエスを、神をけがす者として有罪を宣告した後、ローマ総督ピラトに引き渡して、ローマに反逆する者として処刑してもらったのです。
十字架刑はユダヤ人の死刑方法ではありません。十字架刑は、ローマ帝国が奴隷を処刑する方法です。
神の民イスラエルであるユダヤ人たちが、神から自分たちに遣わされた救い主を、神の民でないと蔑んでいた異邦人たちの手に引き渡して、彼らのやり方で、しかも、最も残酷で屈辱的な処刑に処したのです。
ペトロは、主イエスの十字架の死はそういう出来事だったと言っているのです。
そんなペトロの説教は、神の民イスラエルであるユダヤ人たちが、自分たち自ら神の民である根底を覆した大きな罪を指摘して、断罪しているのです。
教会が説教で主イエスの十字架の死を語るのは、罪の赦しという側面も勿論ありますが、それと同時に、罪を指摘して断罪するという側面もあるのです。それは、罪が浮き彫りにならなければ、罪の赦しの宣言は意味を持たないからです。
でも罪を指摘するのは、他人を責めるためではありません。主イエスの十字架の罪の赦の恵みが増し加わるために、罪が指摘されるのです。
その証拠に、ペトロは今日の箇所で、神の民じゃない人たちの罪を指摘して断罪してはいません。神の恵みを既に知っている人たちの罪を指摘して、断罪しています。
自分を含めたユダヤ人たちが、神の民イスラエルであるにもかかわらず、神から遣わされた主イエスを拒んで殺してしまった自分たちの罪を見つめているのです。他人ではなくて自分たちの罪を見つめる。それが、主イエスの十字架の恵みが増し加わるためにとても大切なことなのです。
ペトロを含む12弟子は、イスラエルの民であったユダヤ人たち以上に、主イエスの近いところにいたのです。それにも関わらず、主イエスが捕えられた時、主イエスを見捨てて逃げ去ったのです。もっと言えば、ペトロは逃げ去ったのみならず、三度も主イエスのことを知らないと言ったのです。
12弟子は、主イエスを拒んだ以上に主イエスを裏切ったのです。その罪は、イスラエルの民ユダヤ人たち以上に重いのです。ペトロが主イエスの十字架の死を語った時、他人の罪ではなくて自分自身の罪を見つめていたのです。
ペトロは自分が神の民であること。神の救いに既に与っていること。その土台を根底から覆す重大な罪を犯していること。そのことを心に刻んで主イエスの十字架の死を語ったのです。
でもペトロは、自分の説教で「私たち」とは言いませんでした。「イスラエルの人々」そう言ったのです。何故なのでしょうか。
それは、自分の同胞であるイスラエルの民ユダヤ人を責めるためではなくて、自分の説教を聴く一人一人が自分の罪を発見して、その罪を重く受け止めて欲しかったからです。
他の誰でもない自分が主イエスを拒んで、十字架につけて殺したことをちゃんと知って欲しかったからです。
教会が主イエスの十字架を語るのは、それを聴く一人一人が、「十字架は、自分の罪がもたらした」ということを、深く心に刻み込むためです。自分が主イエスを受け入れず、十字架に架けて殺したことを知るために十字架が語られるのです。
ペトロははっきり、イスラエルの民であったユダヤ人たちの罪を、23節後半で指摘しています。そこを見ますと、「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」そう記されています。
このことは、異邦人である私たちには、関係がないことです。でも、23節の話に繋がっている22節の「イスラエルの人たち」という呼びかけは、「私は神に従っている」と思っている人たちに対しての呼びかけなのです。
ということは、私たちが「自分は主イエスを十字架に架けていない。」そう思って此処を読んでいたとしたら、それが、私たちが主イエスを断罪したイスラエルの人たちの一人と言わざるを得ないのです。主イエスは、主イエスを神と認めない人たちの手によって、つまり、神に背を向けていた神の民の手によって、十字架に架けられて殺されたのです。
実は、22節の「イスラエルの人たち」という呼び掛けで、ペトロが見つめていることがもう一つあります。
それはペトロをはじめとする12弟子が、聖霊によって遣わされて、彼らを中心に新しいイスラエルなる教会が、形成されていくということです。
22節の「イスラエルの人たち」という呼びかけは、旧いイスラエルであるユダヤ人たちと、新しいイスラエルである教会の両方を視野に置いて述べられている言葉です。
私たちは、新しいイスラエルである教会の礼拝に集っています。新しいイスラエルはユダヤ人たちだけではなくて、全ての国の人たちがそこに招かれていて、教会の一員とされているのです。
そんな新しいイスラエルである教会は、旧いイスラエルと無関係ではありません。新しいイスラエルである教会は、旧約聖書時代に神に選ばれた民として歩んでいた、旧いイスラエルの歴史をも受け継いでいます。
だからこそ、かつてのイスラエルの民が、主イエスの十字架・復活を信じさえすれば、神と神を信じる者たちと永遠に生きることが出来る恵みを、受け継ぐことが出来るのです。
逆に言えば、新しいイスラエルに加えられた私たちは、かつてのイスラエルの民が、主イエスの十字架・復活を受け入れることなく殺してしまった罪を、自分の罪として引き継ぎでいるのです。でも同時に、主イエスの十字架の罪の赦しと、復活という死に対する勝利をも引き継いでいるのです。それが、教会に加えられた者なのです。
新しいイスラエルである教会に加えられた私たちは、主イエスを十字架につけて殺したかつてのイスラエル民の罪が、自分の罪であることを受け入れなければならないのです。そうでなければ、新しいイスラエルである教会に加えられた者とはいえないのです。それと同時に、新しいイスラエルである教会に加えられた私たちは、主イエスの十字架の罪の赦しと復活の死に対する勝利の恵み。それが自分に与えられていることを信じなければならないのです。
23節の「十字架につけて殺してしまったのです。」という言葉は、22節冒頭の「イスラエルの人たち」のことを指しています。つまり、「新しいイスラエルに加えられた者であれば、かつてのイスラエルの罪が、自分の罪であることを受け入れなければならない。」そういった意味を込めて、23節で、「十字架につけて殺してしまったのです」そうペトロは述べたのです。
十字架につけて殺した罪が赦されて、神と神を信じる人たちと永遠に生きる恵みが与えられていくのは、24節以下に記されている主イエスの復活によるのです。
今日の箇所では、主に主イエスの十字架がみつめられています。それが23節前半の、「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが」という言葉です。
此処に出て来る「お定めになった計画」という言葉は、とても重要な言葉です。この言葉が指し示していることは、「主イエスの十字架の死は、かつてのイスラエルの民が関与している。でもそれは、神の御計画であり、御意志だった。」そういうことです。
神は人が犯す罪を、御自分の救いに導き入れるためにお用いになるのです。
御自分の救いという祝福に招き入れるために、人の罪を用いられる全能なる御方。その御方が父なる神なのです。
確かに主イエスの十字架は、人間の罪によって齎されました。でも、その人間のとんでもない罪が、父なる神の、私たちの救いの御計画中に既に置かれていたのです。
神は人間の罪を全てご存じの上で、独り子を十字架の死に引き渡して下さったのです。
つまり、ペトロが23節後半で、「あなたがたは、律法を知らない者たちの手を借りて、主イエスを十字架につけて殺した。」と、かつてのイスラエルの人たちの罪を断罪した理由は、「そういうあなたがたの罪が、父なる神の救いの御計画の中に、既に置かれていた。それは、あなたがたのその罪が赦されるためだった。そういう父なる神の恵みが用意されていた。だからこそ、罪を悔い改めて、主イエスの十字架・復活を信じ、既に新しいイスラエルに結集(けっしゅう)されている私たちと、主イエスの罪の赦しの恵みの中で生きよう。」そう語りかけるためだったのです。
ペトロは教会時代の幕開けの説教で、主イエスの十字架の死を語りました。彼が説教出来たのは聖霊の働きのおかげです。
14節を見ますと、「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」そう記されています。
ペトロの説教はペトロ個人の言葉ではありません。
他の11人と共に立って説教をしたのです。つまり、十二使徒の一人として主イエスの教会という立場から、説教を語ったのです。聖霊が12使徒を満たしたことで、主イエスの救いを信じた人たちの群れである教会は、今日の箇所に記されている鋭い言葉が与えられたのです。
それは単に「こう語りなさい」そう示されたとか、大胆に語る勇気が与えられたということではありません。
そうではなくて、主イエスの十字架は一体何だったのか。そこに、神のどのような救いの御計画や御意志があったのか。それは自分たちや、人々にとって、どういう恵みを齎す出来事だったのか。そういったことを、聖霊が12使徒に働いたことで、教会ははっきり知ることができたのです。
12使徒が神を語るためには、聖霊の働きにより、主イエスの救いをはっきり知り、はっきり信じなければならないのです。聖霊の働きにより、神の救いの確信を頂いていないならば、主イエスの救いを語ることは出来ないのです。
「主イエスの十字架の死は、自分の罪のためであった。自分こそ、主イエスを十字架につけて殺した人である。でもそんな自分の罪が、全て、父なる神の御計画の中に置かれていた。それが、自分の罪の赦しに繋がった。」そのことを、聖霊を通して知らされていないならば、神・罪・救いを語ることは出来ないのです。
(聖化大会の話(3つの嫌なことを書き出した話))
それはそうと、ペトロは今日の箇所を通して、「使徒たちに起こったペンテコステの出来事は、預言者ヨエルの預言の成就である。」そう言っています。
だからこそペトロは、今日の箇所で旧約聖書ヨエル書3章1節以下を引用したのです。それが記されているのが17節-21節です。そこを見ますとこう記されています。
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」
これは聖霊が注がれれば、誰もが預言をするようになるということです。預言とは、未来のことを言い当てることではありません。そうではなくて、父なる神の御言葉を語るということです。
父なる神が、独り子主イエスによって成し遂げて下さった救いの御計画を、聖霊にはっきり知らされて、それを語る言葉が与えられるということです。それが誰もが預言をするようになるという意味です。
終わりの時にはある特定の人にだけ聖霊が注がれて、その人たちだけが御言葉を語るのではなくて、全ての人が、聖霊の働きを受けて、主イエスが成し遂げた父なる神の救いの御業を語り、証ししていくようになる。そうペトロは、説教を通して言ったのです。
聖霊が降り教会が誕生して、「終わりの時」が既に始まっています。今の時代、私たち一人一人が、皆、聖霊を受けて御言葉を宣べ伝えていく預言者として立てられているのです。
確かに教会は、御言葉を解き明かす牧師が立てられます。でもそれは、牧師だけが御言葉を宣べ伝えていくということではありません。
聖霊の働きを受けて、牧師が礼拝の中で聖書を解き明かす言葉に生かされた皆さんが、同じ聖霊の働きによって、主イエスの救いの御業を宣べ伝えて、皆さんの生活の場で証し、伝道していくことが大切なのです。礼拝の度ごとに、主イエスの救いを宣べ伝える言葉が与えられていくのです。
17節の終わりに、「若者は幻を見、老人は夢を見る」そう記されています。
聖霊の働きにより、主イエスの救いを信じる信仰が与えられて、主イエスの救いを宣べ伝える言葉が与えられた時、若者は幻を見て老人は夢を見るのです。
若者も老人も、時が良くても悪くても、神が召して下さっているその場所で、幻や夢を持って宣教や伝道をしていけるようになるのです。
今の時代、若者は幻を失っています。今は若者が幻を見るのがとても難い時代です。そんな中でも聖霊が働いて、信仰が与えられた若者は、どんなに苦しい中にあったとしても、主にあって希望という幻を見つめて、今この時を生きることができるようになるのです。
老人は、死が近づいてくる中にあっても聖霊が働いて、よい夢を見ることが出来るようになるのです。死の先にある永遠の命という夢に支えられて、慰め・喜び・平安を持って、今この時を生きることが出来るようになるのです。
高齢化が進んでいる今の時代、寿命が延びたとしても、夢を見ている老人がどれぐらいいるのでしょうか。
子供に将来の夢はと聴かれたならば、「もう先は無いから夢はないぁ。。。」そう思ってしまう老人の方が多いのではないでしょうか。
でも、聖霊が働いて、主イエスの救いを信じている老人は、死という現実が迫ってきている中にあっても、本当によい夢を見ることができるのです。
聖霊の下にある教会は、どんな苦難の中にあっても若者は幻を、どんなに死が迫ってきていても老人は夢を、見ることが出来る場所なのです。
そのことを心に刻み込んで、今週一週間、皆さんと共に歩んでいけたらと願っています。
最後に一言、お祈りさせて頂きます。