使徒言行録2章1節―13節
牧師 野々川康弘
今日から2章に入ります。今日の箇所は、弟子たちに聖霊が降って、福音を宣べ伝えていく準備が終わり、福音を宣べ伝えていく戦いが、いよいよ始まった時のことが述べられています。
1節の「五旬祭」とは、「過越の祭」から、50日目になされた「祭」のことです。その日に、主イエスが約束していた聖霊が、弟子たちに降ったのです。
その時に一体何が起ったのでしょうか。そのことが2節以下に記されています。そこを見ますと「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」そう記されています。「激しい風が吹いて来るような音。」これは、聖霊の働きを示しています。聖霊は、よく風にたとえられています。ヨハネによる福音書3章8節には、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」そう記されています。
つまり、聖霊は風のようで、私たちの目には見えないということです。私たちはしばしば、「風向きが変わってきた。」そう口にすることがあります。まさに聖霊も、私たちが感じ取ることが出来る形で、新しいことを起こされる御方なのです。
では、聖霊が起こす新しいこととは、一体何でしょうか?
それは、弟子たちを新しくすることです。実はそれが、ペンテコステで起こったことです。
そうすると、疑問になることがあります。それは、弟子たちを一体どのように、新しくしたのかということです。そのことを紐解く鍵になる言葉が3節です。そこを見ますと、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」そう記されています。「炎のような舌。」これは、聖霊が人間と関わって、炎で焼き尽くすということです。人間は、神の炎に焼かれる体験を通して、神と出会うことが出来るのです。
出エジプト記3章を見ますと、モーセが神の山ホレブで、燃え上がる柴(しば)の炎の中から、神の御声を聴いた時のことが記されています。その時、神は炎の中から、「ここに近づいてはならない」そうモーセに言われたのです。その時モーセは、「罪人である自分が、これ以上近づいたら焼き尽くされる。」そう感じ取ったのです。モーセは、罪を焼き尽くす聖なる御方と出会って、罪を焼き尽くす聖なる御方によって、遣わされたのです。
炎のような舌。それが、弟子たち一人一人の上にとどまったことが象徴していることは、聖なる神御自身が、弟子たち一人一人と出会って、彼らの内に留まって、罪を焼き尽くし、新しく生かすということです。
でもそれだけではありません。「ほかの国々の言葉で話し出した」そう4節に記されている通り、炎のような「舌」は、語ることと関連して、出てきてもいます。
つまり、人の罪を焼き尽くす神の聖なる炎が、弟子たち一人一人の舌に、「語る」力として与えられたということです。
これから福音を宣べ伝えていく弟子たちに、風のように吹いてきた聖霊が、彼らに留まって、彼らの罪を焼き尽くし、神の子らしく整えて、罪を焼き尽くす言葉をも与えたのです。それがペンテコステで起こったことなのです。
でも誤解しないで頂きたいことがあります。罪を焼き尽くす聖霊が、弟子たちに語らせた言葉は、人を恐怖に陥れる怖い言葉ではなかったのです。罪を焼き尽くす聖霊が語らせたのは、神の救いの御業だったのです。つまり、罪の赦しの宣言を、聖霊が弟子たちに語らせたのです。
そんな聖霊に弟子たちが満たされた時、4節に記されている通り、彼らは罪の赦しの宣言を、「ほかの国々の言葉」で語り出したのです。何故、外の国々の言葉で、救いの宣言を語りだしたのでしょうか。その理由が5節に記されています。そこを見ますと、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、」そう記されています。
今もそうですが、この当時も、多くのユダヤ人たちは、あらゆる国に住んでいたのです。バビロニア帝国に国が滅ぼされて以来、彼らは国が無い歩みをしていたのです。そういった中で、自分たちの国の在り方に、縛られない生活を身につけていたのです。自分たちが移り住んでいた土地の人たちと交わりを持ち、その言葉を語って、神の民イスラエル人として、ユダヤ人の共同体を維持しながら生きていたのです。
9節以下のリストを見ますと、あらゆる地域に住んでいたことが分かります。当時でいえば、全世界に及んでいたと言えます。
つまり、罪を焼き尽くす聖霊の働きを受けた弟子たちによって、全世界の言葉で、罪の赦しの宣言がなされたのです。
でも彼らは、外国語を学んだことがある人たちではありません。だから、7節に記されていることが起こったのです。そこを見て見ますと、「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか』」そう記されています。
弟子たちは、貧しいガリラヤ出身の人が多かったのです。そんな弟子たちが、学んだこともない外国語で、罪の赦しの宣言をし出すという奇跡が起ったのです。
でも外国語で話すという奇跡は、この時だけのものだったのです。何故そう言えるのでしょうか。それはこの後、聖霊によってしゃべれるようになった外国語を駆使して、弟子たちが、福音を宣べ伝えていったということは、聖書の何処にも記されていないからです。
全世界に福音を宣べ伝えていく手段として、神がお用いになられたのは、御自身の直接的な奇跡の業以上に、弟子たちの地道な歩みを用いられたのです。
ということは、ペンテコステで覚えなければならない大切なことは、神のダイナミックな直接的な働きを、自分が受けることを願うことではなくて、ダイナミックな神の奇跡を通して、使徒言行録は何を示そうとしているかということです。
弟子たちが知らない外国語で、罪を焼き尽くす主イエスの救いが語られたのは一回きりのことだったとしても、主イエスの救いの宣言が、罪を焼き尽くす聖霊の働きによって弟子たちが支えられて、全世界に神の救いが宣言されていくこと。それが示されたのです。でも、それがすぐに実現していったのではありません。
まずは、過去の捕囚(ほしゅう)によって、外国で生まれ育ったユダヤ人たちが、五旬祭のために、エルサレムに帰っていた時に、自分の生まれた故郷の言葉で、罪を焼き尽くす主イエスの救いの宣言を聴いたのです。つまりこの時は、まだユダヤ人たちだけしか、主イエスの救いの宣言を聴いていなかったのです。例外は、11節に記されている「ユダヤ教への改宗者」だけです。聖霊の働きによって、まず主イエスの福音のもとに一つに集められたのは、イスラエルの民ユダヤ人だけだったのです。つまり1章6節が述べていた「イスラエルのために国を建て直す」という、神の民イスラエルの再結集は、五旬祭のことだったのです。
聖霊が降り、主イエスの救いの宣言がなされた所に、最初に、かつての神の民、イスラエルが呼び集められたのです。
教会は最初、ユダヤ人たちの群れだったのです。
でも、その最初の教会が誕生した時に、色々な世界の国の言葉で、主イエスの救いの宣言が成されたことは、新しいイスラエルなる教会は、ユダヤ人たちだけのものではないことが、指し示されています。
新しいイスラエルなる教会は、異邦人たちや、全世界の人たちにも、開かれていくことが示されているのです。
教会の誕生の時に起こったペンテコステは、そのことの先取りなのです。
そして、聖霊を受けた弟子たちが、色々な国の言葉で主イエスの救いを宣言することを通して、新しいイスラエルが結集されることは、旧約聖書、創世記11章の「バベルの塔」で起こったことと、反対のことが起こったということです。つまり「バベルの塔」で起ったことの解決が、ペンテコステです。
バベルの塔の話では、世界中の人たちが、皆同じ言葉を使って話していたところから始まっています。でも人間たちが、自分たちの力で、天にまで届くような塔を建て始めたのです。
自分たちの力で、神の領域まで、踏み込もうとしたのです。人間たちが自分たちを高めて、自分たちの力を、神の領域にまで及ぼそうとすることは、人間が神にとって代わろうとすることを意味します。
現代社会でも、バベルの塔を建てるようなことを行っています。生命科学、遺伝子工学などがそうだと言えます。でも、科学や技術の最先端の話だけではありません。
もし私たちが、「自分の命と体は、自分のもの。だからそれをどのように使おうと、自分の勝手。」そう思って生きていたとすれば、それは、バベルの塔を建てることと全く同じです。
神は、人間のそんな傲慢さをご覧になったが故に、人間の言葉を混乱させて、互いの言葉が分からないようにされたのです。そのことによって、人間は全地に散らされて、それぞれ異なる言葉を語って生きるようになったのです。
バベルの塔の話は、「自分の命と体は、自分のもの。だからそれをどのように使おうと、自分の勝手。」そういう人間の、神に対する不遜(ふそん)な態度。それが、この世界に色々な違う言葉が存在するようになったことを教えているのです。
この世に、色々な言葉が存在しているのは、人間が神にとって代ろうとしたり、人間がこの世界の主人になろうとしたりすることに対しての、神の裁きだったのです。
私たちが、自分が神のようになっている時、自分が自分の人生の主人になっている時、隣人と言葉が通じなくなります。意思疎通が、つまりは交わりが、失われるのです。
自分が神のようになっている時、自分の人生の主人になっている時、素直に隣人の話に耳を傾けて、話を親身に聴ことが出来なくなっているのです。傾聴が失われている状態は、本人は対話しているつもりであっても、独りごとになっているのです。
(例:国会議員の話し合いのテレビ中継。)
自分を分かってもらいたい気持ちで一杯な時、自分が大切にされていないと思って自己主張が強くなっている時、自分の主人が、自分になっているのです。
その時、自分の心の王座には神ではなくて、自分がいるのです。そういう状態の時に、人との対話は生まれません。対話をしているつもりでも、ただの独り言になっているのです。
実は、神が自分の心の王座にいない時、神のみならず、人と共に生きることもできなくなっているのです。
逆にいえば、神が自分の心の王座にいる時、人と共に生きることがおのずと出来ているのです。
ペンテコステの時、聖霊が降って新しいイスラエルなる教会が誕生した時に、「バベルの塔」と反対の事が起こった理由は、「バベルの塔」で起こった問題の解決が示されるためだったのです。
ペンテコステの出来事は、人間の、神に背反する罪故に、互いの言葉が分からずに生きていた人たちが、神に背反する罪を焼き尽くす聖霊の働きによって、一つにされる道があることを示しているのです。
皆が一つにされるというのは、言葉が分からなかった者同士が、主イエスの十字架の罪の赦しの宣言を受けて、一つにされるということです。主イエスの十字架の罪の赦しの宣言を受けて、新しいイスラエルなる教会に、集められていくということです。
ペンテコステの日に、聖霊が降ったのは、そういった広い意味を持っているのです。
でも、そういった広い意味を持ったペンテコステの本質は、一つなのです。それは、聖霊が降った弟子たちが、罪の赦しという「神の偉大な業」を語り始めたということです。
つまりそれは、1章8節の、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主イエスの預言の成就だったのです。
聖霊が私たち人間を、主イエスの罪の赦しの証人とするということは、聖霊はただ単に、主イエスの罪の赦しを宣言するだけではないということです。聖霊は、主イエスの罪の赦しを宣言して、それを皆に理解させる御方でもあるということです。
罪の赦しが聖霊の働きによって分かるようにならなければ、主イエスの罪の赦しの証人にはなれないのです。つまり、聖霊は、主イエスの罪の赦しが、「神の偉大な業」であることを、分からせてくださる御方なのです。
また、11節後半―13節をみますと、「わたしたちの言葉で、神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか、』と互いに言った。」そう記されています。
此処を見ましても、聖霊は、主イエスの罪の赦しを、皆に理解させる御方であることが分かります。
「神の偉大な業を語っている」、「人々は皆驚き」、これらの言葉は、弟子たちが外国語で話していた言葉をちゃんと理解していたことを指し示しています。
聖霊は、語る人にも聴く人にも働かれるのです。その聖霊の働きによって、主イエスの福音が伝えられ、受け入れられるのです。
教会が生まれたというのは、そういう聖霊の働きが開始されたことを意味しているのです。
そして、そういう聖霊の働きは、使徒言行録の延長線上にある、今の時代にも与えられています。昔も今も、聖霊の働きによってこそ、教会は豊かに形成されていくのです。
聖霊が働かれなければ、どんなに聖書的な言葉を語っても、どんなに分かりやすく、どんなに面白可笑しく、聖書の言葉を語ったとしても、主イエスの十字架による罪の赦しの宣言を、「神の偉大な業」と受け入れることは出来ないのです。信仰は生まれないのです。
実際、そういったことが、ペンテコステの日にも起ったのです。その証拠が13節です。そこを見ますと、「『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」つまり、弟子の言葉を聞いた人たちの中で「神の偉大な業が語られている」そう思った人たちもいれば、「あれは酔っ払いのたわ言だ」そう思った人たちもいたのです。
私たちは聖霊の働きを、絶えず受けることが出来るように祈り求めていきたいと思います。
聖霊の働きを受けて、私たち一人一人が、神・罪・救いをちゃんと語ることが更に出来るように。また、私たち一人一人が、更に、神・罪・救いをちゃんと聴き取っていくことが出来るように。祈り求めていきたと思います。
私たちに大切なことは、罪を燃やす聖霊の罪の赦しの宣言を、ちゃんと自分のものにしていくことです。
ちゃんと、自分のものにしていくためには、自分たちの心を騒がせずに、聖霊に自分を明け渡していくことが重要です。
私たちが、罪からの救いの確証を、私たちの内に起こしていくのではありません。聖霊自らが働いて下さって、聖霊が、罪からの救いの確証を、私たちの内に越こしていって下さるのです。
そのことを覚えて、今週一週間も、聖霊の働きに、豊かに支えられて、皆さんと共に歩んでいければと、心から願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。