使徒言行録1章6-11節
2024.2021.Shyuuhou今日、注目したいことは、主イエスの昇天です。昇天は、復活して死なない命を生きはじめた主イエスが、生きた体のまま、天に昇られたことです。
主イエスがおられる場所が、神の右の座に変わったということ。それが昇天です。
今日の9節-11節には、主イエスが昇天した時の様子。そのことが記されています。実はこのことは、ルカによる福音書の最後でも述べられています。それが、ルカによる福音書24章50節―51節です。そこを見ますと、「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」そう記されています。
でも今日の箇所には、主イエスが昇天された場所のことは記されていません。でも、ルカによる福音書24章50節―51節の証言によると、どうもベタニア辺りで、昇天されたことが分かります。ベタニアは、「エルサレムの東側のオリーブ山にあった」そう言われています。このことは、使徒言行録1章12節の、「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」その証言と繋がります。
ルカは、ルカによる福音書の最後と、使徒言行録の最初に、主イエスの昇天のことを書き記しました。その主イエスの昇天が、ルカによる福音書と、使徒言行録を結び付ける役割を、はたしているのです。
じゃあルカが、主イエスの昇天を通して、私たちに伝えたいことは一体何だったのでしょうか。そのことを知る鍵が、6節―8節です。そこを見ますと、復活した主イエスと、使徒たちとの問答が記されています。
そこで使徒たちは、主イエスにこういう質問をしています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」それに対して主イエスは、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」そう答えています。その答を受けた後に起こったこと。それが、「イエスは彼らの見ているうちに天に上げられ…」という9節の出来事なのです。
この門答の中で、使徒たちは主イエスに、「イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか」そう聴いています。そのことを聴いた時、使徒たちは、「ようやく旧約聖書で預言されていた救い主が現れた!今こそ、イスラエルの国を建て直すことが実現する!」そう期待していたのです。実はそれこそが、イスラエルの民が、思い描いていた救いだったのです。つまり、ローマ帝国の支配下にあったイスラエルが、救い主の出現により、力を盛り返して、ローマ帝国の支配から脱すること。自分たちの国がちゃんと築かれること。それが使徒たちにとっての、救いだったのです。
使徒たちは、「そういう救いが実現する。」そう期待していたのです。その理由は、主イエスの復活を見たからです。十字架に架けられて、葬られた主イエスが復活して生きておられた。その主イエスとの出会いが与えられた。だからこそ、そういう大きな期待を持っていたのです。
「主イエスは、死に勝利し、復活された救い主だ。この御方であれば、イスラエルの国を再興することが出来る。」そう使徒たちは思ったのです。それは、復活した主イエスが、「まもなくあなた方に、父が約束して下さった聖霊が降る」そう言われたからです。だから使徒たちは、「やったぁ!聖霊が与えられて、人智を超えた力が与えられる。主イエスを中心とするイスラエルの国の建て直しを、いよいよスタートすることが出来る。」そう思ったのです。
主イエスは、使徒たちがそういう期待を、彼らの問いの中に込めていたことを知っておられたのです。だからこそ、7節に記されていることを言われたのです。そこには、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」そう記されています。この答えは、使徒たちの期待を否定する答えです。主イエスのこの答は、「救いの完成の時期は、神がお決めになる。救いの完成が、今すぐとか、もうすぐ起るなんて思うことは、父なる神の権威を、侵害することになる。だからそういったことは、考えるべきではない。」そういう答だったのです。つまり、「イスラエルという国家の立て直しが、いつ実現するのか」そういうことを考えること自体、正しいあり方ではないということです。「いつ」ということは、父なる神にお委ねして、今与えられている生活を、黙々と主イエスに従っていくこと。それが大事なのです。
実はこれは、決して他人ごとではないのです。使徒たちが、主イエスの御思いを聴くことを第一とせず、すぐに自己都合に合わせて、主イエスのことを考えたように、私たちも、神が御言葉に託しておられる御思い以上に、御言葉を自己都合に合わせて、神のことを捉えてしまいがちなのです。
そういったことが起こった時、主イエスは、「そうではない」そう言われるのです。
じゃあ、主イエスは、自己都合に合わせて、主イエスを誤解した使徒たちに示した道は、一体どういう道だったのでしょうか。
それは、主イエスが使命を与えて、主イエスに遣わされていく道です。
使徒とは、前回も申し上げました通り、「遣わされた者」という意味です。復活した主イエスと出会った使徒たちは、主イエスから使命を与えられて、遣わされていったのです。その使命を述べているのが8節です。そこを見ますと「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」そう記されています。使徒たちに与えられた使命は、主イエスの復活を、証しする使命だったのです。主イエスの、十字架・復活・昇天の救いの御業を証する使命が与えられて、使徒たちは派遣されていったのです。
これは、使徒たちが思い描いていたことと、かなり違っています。使徒たちは、「主イエスが復活した!かつて栄華を極めたあのイスラエル王国が、いよいよ復活する。主イエスが、イスラエル王国の国王になって下さる。」そう思っていたのです。でも、主イエスが示されたことは、主イエスの救いを宣べ伝える証し人の群れが、つまりは教会が、次々おこされていくことだったのです。使徒たち一人一人が、証し人として強められて、教会が造られていくことだったのです。それが、使徒たちの上に聖霊が降り、実現したのです。それが使徒言行録2章のペンテコステです。8節の「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」この御言葉は、ペンテコステを通して、教会が誕生することを予告しているのです。
主イエスの復活により、実現したのは、イスラエル王国の復活ではなくて、主イエスの救いを証していく人たちの誕生、そういう人たちが集まる教会の誕生だったのです。でも使徒たちは、「神の救いを証していくことは、復活した主イエスがして下さること。」そう思っていたのです。でも、主イエスは、神の救いを証していくことを、使徒たちに使命として与えて、委ねられたのです。
何度も申し上げますが、弟子たちが、主イエスの救いの完成として、思い描いていたことは、かつて栄華を極めた、イスラエル王国の復活だったのです。
彼らは、主イエスの救いの範囲を、イスラエルの民、ユダヤ人に限定して考えていたのです。でも主イエスは、8節に記されている通り、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」そう言っておられたのです。
主イエスは、ユダヤ人たちも、ユダヤ人たちと敵対関係にあったサマリア人(びと)たちも、全世界の異邦人たちも、主イエスの救いが宣べ伝えられて、みんなが主イエスの救いに与って、教会に加えられていくことを教えていたのです。
でも、そのような素晴らしいことが起こるためには、主イエスが、目に見える姿では共におられなくなることが、必要だったのです。主イエスが、共におられなくなったからこそ、使徒たちが聖霊の力を受けて、主イエスの証し人として、遣わされていくことが出来たのです。遣わされていくことを通して、新しいイスラエルである教会。それが造られていったのです。教会は、復活した主イエスが陣頭指揮を取って、造っていったわけではないのです。聖霊が、救われた全ての使徒たちの内に内住して、新しいイスラエルである教会。それを造っていったのです。
証し人とは、そこにいない人のことを証しする人のことです。つまり、地上に既におられない主イエスの教え、主イエスが成した救いの御業、それを証言する人。それが証人です。
使徒たちが、そういう証人となる出来事として、9節は、昇天のことを述べているのです。そんな9節を見てみますと、こう記されています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」
此処で注目すべき言葉は、「彼らが見ているうちに」という言葉と、「雲に覆われて、彼らの目から見えなくなった」という言葉です。
弟子たちは主イエスを見ていたのです。すると、主イエスが天に上(のぼ)っていかれて、雲が、そのお姿を覆(おお)ってしまって、弟子たちが、主イエスを、目で見ることができなくなったのです。それが、主イエスの昇天で起ったことです。
ルカによる福音書24章50節―51節の、「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」この言葉と、使徒言行録1章9節の「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」という言葉。それを比較してみたいと思います。
ルカによる福音書は、「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」そう述べています。此処では、主イエスの姿が見えなくなったことは、書き記されていません。その代わりに述べていることは、「主イエスは、弟子たちを祝福した姿のまま、天に上げられた。」ということです。
ルカによる福音書は、弟子たちへの祝福に強調点を置いて、昇天のことを述べているのです。そんなルカによる福音書は、最後の方で主イエスの昇天を述べています。そうなっている理由は、主イエスの生涯の締めくくりに、弟子たちへの祝福として昇天したことを、指し示すためです。
その一方で、使徒言行録は最初の方で、主イエスの昇天を述べています。その理由は、ルカによる福音書の帰結として、聖霊が与えられたことを指し示すためです。つまり、主イエスの昇天の祝福は、聖霊降臨であるということです。
でも、聖霊降臨の条件は、復活した主イエスが、神の救いを宣べ伝える使命を使徒たちに与えて、彼らのもとを去って、目に見えない存在になることだったのです。
主イエスが去って目に見えなくなるということは、使徒たちにとっては、とても心細いことで、不安なことだったのです。でも、主イエスに代わる御方が与えられたのです。それが聖霊です。天に昇り、去っていく主イエスに代わり、聖霊が使徒たちに内住したのです。その聖霊が、使徒たちに力を与えて、彼らを全世界に主イエスの証人として、遣わしていったのです。その結果、教会生がうまれて成長していったのです。
今の時代も聖霊時代です。聖霊によって、力が与えられてこそ、教会が次々に生まれて、成長していく歩みになるのです。
今の時代、教会のみが、天の門の鍵を、手渡す権能が与えられているのです。何故そういえるのでしょうか。その根拠が、マタイによる福音書16章18節-19節に記されています。そこを見ますと、「「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てる(オイコドメオ)。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」そう記されています。
此処で言っている「教会を建てる」という言葉は、ギリシャ語で、「オイコドメオ」と言います。普通教会は、「エクレシア」と言います。でも此処では「オイコドメオ」という言葉が、「教会を建てる」という言葉になっているのです。「オイコドメオ」というのは、「オイコス」という言葉と、「ドメオ」という言葉の合成語なのです。
「オイコス」は、家という意味です。そして、「ドメオ」とは、「建てる」という意味です。実は、「ドメオ」という言葉は、単に建てるという意味ではないのです。「家」という建物を、具体的に立て上げて行くという意味。それが含まれているのです。
聖書の中で、教会を建てることを、この箇所のみが、「オイコドメオ」という言葉を使っているのです。つまり、主イエスの救いの御業を信じる信仰共同体の上に、具体的に、神の救いを信じる教会を建て上げていくということなのです。
教会時代の今、私たちは、復活した主イエスの姿を目で見たり、手で触れたりすることはできません。その理由は、主イエスが昇天されたからです。
その主イエスに代わり、私たちに働いてくださっているのが聖霊です。聖霊は、主イエスの復活を見た使徒たちに降って、力を注いで、主イエスの救いの証人として全世界に遣わしたのです。その聖霊が、今現在、私たちにも働いていて、力を注いで、主イエスの救いの証人として立てて、遣わして下さっているのです。
そんな私たちを通して、新しいイスラエルである教会を興して、主イエスの福音宣教が前進していくことを、御旨として下さっているのです。
前回も申し上げましたが、使徒言行録は今も続いています。教会時代は、主イエスの昇天から始まったのです。主イエスが天に昇られ、見えない御方(おかた)になられたからこそ、使徒たちに聖霊が与えられて、神の力が注がれて、見には見えない主イエスの救いを証しする人として、立てられるようになったのです。
そのおかげで、私たちはいつでもどこでも、復活した主イエスと共に歩むことが出来るようになったのです。仕事をしている時も、学校へ行っている時も、家庭にいる時も、外出している時も、起きている時も、寝ている時も、目に見えない主イエスが、聖霊の働き故に共におられるのです。
主イエスの昇天は、聖霊が降って、教会が誕生して、教会が全世界に広がっていくために必要不可欠だったのです。だからこそルカは、使徒言行録の最初の方で、昇天のことを書き記したのです。
でも、主イエスが使徒たちのもとを離れて、目に見えない存在となられた時に、10節のことが起こったのです。
そこを見ますと、「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』。」そう記されています。
弟子たちは、主イエスが昇っていって見えなくなった天を、いつまでも見上げていたのです。するとそこに、白い服を着た二人の天使が現れて、主イエスが「またおいでになる」ことを告げたのです。天に昇られた主イエスはまたおいでになるのです。まことの神として、神の権威と力をもって、主イエスが、再び天から降って来られる日がいつか来るのです。
その時にこそ、今は隠されている、父なる神の御支配があらわになって、
完全な神の国が完成するのです。それによって、今のこの世は終わるのです。
つまり昇天は、主イエスの最後の御業ではないということです。だからこそ使徒信条で、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」という文言(もんごん)の後に、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」という言葉が続いているのです。
主イエスの昇天を見つめる時、私たちは、同時にその主イエスが、また来られることを思う必要があるのです。
この世の教会の歩みは、主イエスが天に上げられてから、またおいでになるまでの、昇天と再臨との狭間の中の歩みです。そこに生きている私たちは、主イエスの姿をこの目で見ることはできません。でも私たちは、聖霊の内住が与えられて歩んでいます。そんな私たちは、聖霊の導き無しに、主イエスの救いと繋がることは出来ないのです。
つまり、今の時代、聖霊の導きに従って主イエスの救に結びついている人が、キリスト者なのです。そして、そういうキリスト者が集って、神に礼拝を捧げているところ。それが教会なのです。
でも私たちが、神の導きに素直に従えていたとすれば、聖霊が、私たちに与えられる必要は無かったのです。
すぐに神に背を向けて、神に逆らうような罪深い私たちが、すぐに自分の力に頼り、神をないがしろにしてしまう罪深い私たちが、新化、聖化、健化、栄化が与えられて、完全な御国に入ることが出来るようになるように、聖霊が、私たちを日々、神の子らしく整えて、ちゃんと栄化まで、辿りつくことが出来るように、守って下さっているのです。
四重の福音の新化は過去形です。聖化、健化は現在進行形です。栄化は未来形です。本当に救われるということは、過去の信仰義認の新化のみで終わらないのです。本当に救われるというのは、義認に加えて、聖化、健化、栄化も含まれているのです。本当に救われるというのは、過去、現在、未来まで救われることを意味しています。そして、それを成すのは、自分の力ではなくて、主イエスが、十字架・復活・昇天の御業の帰結として、与えて下さった聖霊の働きなのです。
過去から未来までの、救いを与えるために、主イエスは昇天して、聖霊を、私たちに与える必要があったのです。
今の時代、主イエスを、目で確認することが出来ないような曖昧な時代です。でもその曖昧な時代が、祝福なのです。目に見えることが、必ず良い訳ではないのです。その証拠に、目に見える主イエスが昇天されたからこそ、目に見えない聖霊の内住が完成したのです。
聖霊の内住を信じて歩んでいる私たちだからこそ、主イエスが目に見えない曖昧な今の時代を、謳歌して歩んでいくことが出来るのです。
主イエスが目に見えない曖昧の中でこそ、聖霊が働くことが出来る空間が生まれるのです。
皆さん、曖昧は大切です。物事が曖昧でなければ、私たちは自分の力にいつも頼って、すぐに神を忘れるのです。であるならば、白か黒かはっきりしない、グレーの世界を大切にしていこうではありませんか。その理由は、そこにこそ、聖霊が働く空間が生まれるからです。聖霊の働きは、私たちの想像を遥かに超える祝福を、私たちに齎して下さいます。
私たちが、はっきりしていることにも、はっきりしていないことにも、安きを覚えて歩んでいけるようになれば、私たちの人生は潤うのです。
その祝福を、神は今朝、私たちに与えたいと願っておられます。
時が良くても悪くても、私たちの内に、神の平安が、常に与えられることを願いながら、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。