聖 書 ルカによる福音書11章1~4節
説 教 御国を来たらせたまえ
信仰の世界に入るに際して一番困惑し、また入ってからも一番戸惑い、かつ慣れ親しむことの少ないものに、祈りがあります。祈ることに習熟することは信仰の長い、短いに関係あるようには思えません。祈りに幼稚も成熟もありませんが、言葉でもって祈る以上、祈りの言葉の端々に信仰の香り、神への情熱、燃えるような信仰の昂まり、み言葉への深い沈潜が祈りの心、態度、言葉ににじみ出ることがあるように思います。祈られる祈りによって励まされ、慰められることもありますし、力が与えられることもあります。本当にアーメンだなあと感動することもあります。祈りによって教えられ、祈りによって信仰が与えられる。
人の祈りを聞く機会は、礼拝の場ではそんなにありません。祈祷会で祈られる祈りは、教えられ、信仰の香りを持ちます。祈りは蓄積でもあるのです。
祈りは同時に忍耐でもあります。すぐに聞き届けられることは少ないのです。神のみこころをたずね求め、同時にみこころにかなった祈りをしているかどうか。それが大切です。魔術ではない。チチンププイと呪文を唱えて、それが有効となる。そんなパスワードでもないのです。
主の祈りを連続講解説教しています。本日は、「御国が来たらせたまえ」です。
ルカによる福音書11章2節ですね。お読みしましょう。
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
最後の言葉「御国が来ますように」です。御国とは、「神の国」のことです。神がおられるところです。国とは、住民・領土・主権及び外交能力(他国からの承認)を備えた地球上の地域のことを指す。そのように辞書には書いてあります。一般的には、政治的な支配の領域ですね。そして国境という線引きがあり、その内側が国家の支配領域であるということです。日本国、韓国、中国と国境があり、それぞれの政府の支配領域を確保しています。
では、神の国とは、どんな国でしょうか。神の国はいわば架空の領域です。具体的な政治的権力を有しません。税金もとりません。軍隊も持ちません。
神様のご支配が行き渡っている領域ですね。そして、神の支配とは力ではなく、愛と義が及んでいるところです。
イエス様の言葉にみる「神の国」
ルカによる福音書では、33か所「神の国」の言葉があります。
神の国の到来
1.イエス様が遣わされた理由
4章 43節
しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
2.貧しい人たちが入る国
イエス様は「心の貧しい人たちは幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5章3節)と言われました。ルカでは、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」です。(ルカ6章20節)
マタイとルカではちょっとニュアンスが違うのですね。
マタイは「心の貧しい人々」、「天の国」です。ルカは「貧しい人々」、「神の国」です。
3.神の国はいつ来るのか
ルカ17章20節から
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(口語訳)と言われました。神の国とは、神のみこころが天で完全に行われるように、地上で行われている社会でもあります。神の国に入るとは、神のみこころである意志に従うことです。
日本国という現実に国にいる者は、その国の法律に従う義務があります。神の国もまた、同じです。神の国の法律、神の国の義務は難しいことではありません。
愛であり、謙遜であり、柔和であり、親切であり、喜びなのです。
4.すでに神の国は来ている
11章 20節
しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
イエス様が来られた時、すでに神の国が来ている。イエス様自体が福音であるから。
そのイエス様が十字架に架かられ、死なれた。しかし、復活された。そして、昇天された。
再臨によって、すべてのキリスト者と被造物に神の国が現実のものとしてもたらされる。
神の国に入る者の資格、条件
1.こどもと神の国
8章 16、17節
しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
2.神の国と極楽の違い
仏教における極楽、そのイメージを思い浮かべるとどうでしょうか。日本国語大辞典
① (sukhāvatī の訳語) 仏語。阿彌陀仏の浄土。この世界の西方、一〇万億の仏土を経たかなたにあるという、一切の苦患を離れた、諸事が円満具足している安楽の世界。心配や悩みなどがなく安楽であること、非常におちついた楽しい境遇であること、
阿弥陀仏の浄土であり、サンスクリッド「スカーヴァティー」とは「幸福のあるところ」
極楽、安楽と訳されるようです。
極楽に対して地獄があります。これについて、詳しくは語りません。
2.ラザロと金持ち
ルカ16章19~31節 ラザロと金持ちのたとえに聞く。
ここでは金持ち、栄耀栄華、食べ物を飽きるほど食べる人たちがいます。
現代的に言えば、グルメの世界ですね。格差社会。
ニュースでは、北海道のニセコ。スキー場。一泊170万円のホテル代。贅をつくした部屋。ラーメン2,000円です。「それでも高くない」という外国人客。
一方では飢えて明日、今日の食べ物がない。
貧しい人たち、誰にも顧みられない人たち、虐げられた人たちが天国に行く。
金持ち、グルメ、飽食、貴金属、装飾が地獄
逆転する。
3.財産のある者
18章 24、25節
イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
神の気前よさ
アウグスティヌス 「神の国」のこと。
永遠のいのち 永遠に生きるのではない。死ぬのを期待する。
神がともにおられる世界。恐怖、裁きの世界ではない。
喜び、感謝、希望が成就している世界。愛の世界。
善意、悪意ではない。
親切、意地悪、
感謝、
健康、病、障害、目が見える、耳が聞こえない。足が不自由、
神が与えられた機能の回復、癒し イザヤ35章の世界
1.求める人に与えられる
2章 31節
ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
2.神の国の宴会
13章 29節
そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
3.神の国への招き
14章 15節
食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
4.十字架と神の国
22章 16節
言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
22章 18節
言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
23章 51節
同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
イエス様の再臨によって、神の国は実現する。