聖 書 ルカによる福音書11章1~4節
説 教 御名を崇めさせたまえ
信仰の道に入るには、いろいろな入り方があろうと思います。信仰とは、言うまでもなく神を信じるこころの決断をいいます。聖書的には、信仰告白と申します。そうして、洗礼を受ける。キリスト者、クリスチャンとなるのです。そこから、信仰生活が始まります。
信じることで終わりではなく、信じることで始まるのです。何が始まるのか?
自覚的に、神との生きた関係がはじまり、神を知ることが深められ、神との交わりが強化されます。強化されるとは、深められ、関係が強くなるということです。
夫婦の関係、家族の関係も同じようにいえるでしょう。
教会の皆さん、ご自分がどのようなところから教会に通うようになり、神を信じるようになったか?
単純に申しますと、信仰に入る道には二通りの道があるのではないかと思います。
生き方を求めて、聖書を読み、教会に通うようになった。真理探究的ですね。哲学的、文学的探求ということもあります。音楽的アプローチもあろうかと思います。合唱団に入って、聖歌や讃美歌、古今の名曲を歌っているうちに、神を信じるようになった。そういうかたもおられると思います。
人生の問題を追及していく。これには、病気になり、試練や忍耐を経験していくというあり方も含まれています。人生の諸問題、生き方に神の導きを受け入れ、信じるのです。
クリスチャン家庭に育った。幼稚園、CSに出席していた。ミッション系の高校、大学に通っていて、そこから教会に導かれた。
伝道集会にチラシ受け取り、教会に来た。友人に紹介されて・・・
ある面では、大多数の人がここに入るのだと思います。
もう一つの道とは何かと申しますと、神を見るという体験です。見るというか、幻、夢で神が現れる体験です。神体験ですね。こういう体験をして信仰の道に入る。今まで、こういう経験で信仰生活に入ったという人は少ないですね。でも、少数でありながら、いるのです。
そういう体験をした人物。聖書では、モーセ(出エジプト記3章)、パウロ(使徒言行録9章)がいます。とくにパウロは、教会を迫害していた人物です。そのパウロに復活のイエス様が現れた。どのように現れたかというと、「天からの光が彼の周りを照らした」と聖書は記しています。そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。
モーセは荒れ野で羊を飼ってと、神の山ホレブにやって来た。その時、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。そこで、柴に近寄ったところ、神は柴の間から声をかけられたというのですね。
わたしたちは、信仰の世界に入った以上は、声でもいいから神様もしくは御使いと話したい、できればお会いしたいと願います。信仰がいっそう深くなり、感情的にもより豊かになると考えるからです。
これは神体験とか神秘体験というように呼ばれます。そういう経験をされた方もいらっしゃると思います。そういうことを危険視する教派もあります。
私自身は、神のなさることは全能ですし、人によって違うのは当たり前だと考えております。ご自身を顕される、その方法は神がお決めになることだと信じております。人間が神の主権をとやかく言ったり、制限をすることは傲慢だと思います。
さて、今日の説教題は、「御名を崇めさせたまえ」です。主の祈りの講解説教の2回目です。
1.第一番目に祈る祈り
主の祈りの第一番目の祈りの項目です。最初ですね。
ルカ11章2節 「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」です。
御名が崇められるように。神が第一として信じ、告白される。それが主の祈りです。イエス様は、主の祈りにおいて、第一番目にこの祈りをわたしたちに教えられたのです。
それに対して、キリスト教以外では一般に、キリスト教以外の神様に祈る人たちのことですが、どのように祈るのでしょうか。神社、仏教などですね。そこには商売繁盛、家内安全と祈願します。病気がよくなりますように。大学受験、高校受験で合格できますように。
祈りにおいて、願いにおいて、神が第一とされないのです。自分のこと、家族のこと、もちろん、それは悪くはないのですが・・・人間の出来事、営みが第一とされる。神を差し置いて、人間が第一とされる。それは、神を聖とすることではないのですね。むしろ、神は人間に仕える神です。効き目がある神、そうでない神と神が人間によって差別され、ランク付けされるのです。
あるいは、祈らないと祟りがくる。呪われる。神はそんなお方ではありませんね。愛の神、憐れみと慈しみに富まれる神です。
キリスト者は神を第一とします。何よりもまず、神を第一とするのです。日曜日の礼拝も同じです。神を第一とする信仰です。
2.御名を崇めさせたまえの「御名」とは・・・
御名とは、神様のお名前です。神様の名とは、何ですか? 先ほど、モーセのことを申しました。モーセが燃える柴の声に応答して、神の名を尋ねます。
その時に、柴の中から神は、御使いは神の代理ですが、ご自身を啓示されるのです。
出エジプト3章14節ですね。
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
わたしはあるという方です。ヘブライ語では、ハーヤーです。存在をもたらすという意味ですね。無から有を呼び出される神、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神(ローマ書4:17)です。
ここから神の名は、ヤーウェとかヤハウェとされています。戦前は、エホバとされていました。神聖4文字(テトラグラマトン)といいます。神の名は、ヘブライ語では次の通りです。יהוה
ただ、聖書は、神の名をみだりに唱えてはならないと十戒の第3戒で禁じられたので、ユダヤ人の間で忘れられたのです。そこで、アドナイ(主)、英語でいえば、マスター、ロードという言葉が定着したのです。
文語訳では、エホバとお名前が出ています。新共同訳、新改訳聖書、口語訳では、「主」 です。
ちなみに何故、名前を唱えることが禁じられたかといいますと、古代宗教では、神の名が呪文、呪術のように唱えられたからです。まじないや呪いとして、聖なる神の名が人間の口から発せられる。それは、聖とすることではなく、汚すこと、人間によってコントロール(支配)される神となるからです。機械仕掛けの神、人間によって操られる。操作される神として、みだりに唱えることを禁じたのです。
3.崇めること、聖別すること
ギリシャ語の言葉はハギアスセートー ト ホノマソン となっていて、<崇めさせたまえ お名前を>という順序です。この崇めさせたまえの言葉は、聖別するとか聖なるものとして他と区別するという意味です。
レビ記22章31から32節で、「わたしは主である。 あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。わたしはイスラエルの人々のうちにあって聖別されたものである。わたしはあなたたちを聖別する主である。わたしはあなたたちの神となるために、エジプトの国からあなたたちを導き出した者である。わたしは主である。」 とあります。
聖なるお名前ですね。十戒の第一戒から第四戒には、(出エジプト記20章2~8)
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ」
この聖とするということですね。
先ほど申しましたように、聖なるものして他と区別して扱う。聖と俗という言い方がありますが、神が創造されたものは、すべて清い、よしとされるものですが、神ご自身は聖なる方であると信じる。これは大切です。
崇めるとは、神以外のものを神としないという信仰です。そういう生き方をするのですね。それが日毎に確かめられうる生き方です。主の祈りを祈るたびに、信仰を新たにする。
およそ、宗教というジャンルにおいて、神の聖と聖なる力にふれたいと願わない人はいないと思います。神の聖なるご臨在に触れるということです。
わたしたちは祈るときに、「臨在が迫る」とか「濃い臨在」とか申します。そこに神がいらっしゃる。この場合、神は聖霊なる神様ですが・・・
聖霊なる神様の聖なる臨在を感じるのです。
わたしたちは毎日曜日ごとに礼拝につどい、神に礼拝を献げています。賛美、祈り、聖書のことば、そして説教を聴くのです。わたしは、礼拝において、神の臨在に触れる。そういう願いと望みを持つことは大切なことと思うのです。
触れる体験は人によって様々だと思います。感じ方、捉え方の問題があります。神の息吹に触れる。神の息に触れる。聖霊の風ですね。それをいただく。生きた信仰をもって、聖書を読み、祈り、賛美する。そこに教会を活き活きとさせ、信徒が喜びと感謝をもって礼拝を献げ、教会生活を送る。
それが教会の目標であり、ヴィジョンであり、信仰だと信じるのです。
そのように主なる神様との聖なる交わりをするように願い祈りましょう。聖霊体験です。
祈ります。