聖 書 マタイによる福音書18章10~14節
説 教 見失われた者を捜し求める神
「見失われた者を捜し求める神」という題で説教します。
ここでは「小さな者」という言葉が何度も語られます。小さな者とは、直接的には18章1節からの続きとなります。神の国で誰が一番偉いのかが問題となった時です。イエス様は一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われます。3,4節「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
この子供のようになるとは、どういうことでしょうか? それは6節以下の記事によって「小さな者」という言葉となって説明され、10節以下にたとえられていくのです。
6節は次のようになっています。
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」
ここで、子供のように自分を低くすることと小さな者が同じ意味であることが分かります。10節からのイエス様の言葉は、たとえですが、100匹の羊を飼っている羊飼いがいて、1匹が迷い出ていなくなった。羊飼いは、99匹を残して、迷い出た一匹の羊のために捜し求めるという内容です。
ここで聖書は、イエス様は何を仰りたいのだろうかと考えます。神の国とは、教会です。教会が大きくなっていく。教会が成長し、数の上でも増えていく。その過程で、教会に起こった問題として考えられるのではないかと思います。弟子の数が多くなり、人数も増えていくと、最初期のことが薄れてくることがあります。家庭的な雰囲気であった教会。みんなで食事を持ち寄って、礼拝後に分け合って食べる。楽しい交わりです。
人数が増えてくると、組織が生まれる。青葉荘教会なら伝道部、財務部、教育部、奉仕部、総務部と部会ができ、その部会の中で、班会が編成されます。教会が組織化され、機能的な活動をするようになります。
人数が増えて、教会の活動は盛んになると、活気ができていきます。とても素晴らしいことです。教会の宣教活動が順調に進んでいるのです。しかし、組織というのは人数が増え、活動が盛んになったからと言って、すべての人がそれに当てはまるかというと、必ずしもそうでないのですね。
落っこちる人が出てくる。ついていけない人。同じ能力、同じ性格、同じレベルの人たち、そういうグループになじまない人たちが出てくる。学校もそうですね。
教会も同じではないかと思います。神の恵みによって、救われ、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちをいただく恵みに与っている。それでも、教会という現実の組織についていけない。そういうこともあるのですね。
社会で地位があり尊敬されている、言わば有力な人が教会でも重要な働きを担い、指導的な役割を果たしている。それはそれでいいのですが、逆に疎外されている人、脇に追いやられている人にも神の恵みが豊かに注がれている。そのことを聖書は語っているように思います。そのような人が疎かにされないように、これが教会の働きの大きなひとつです。
神の前ではどんな人でも貴い、かけがえのない人であると、イエス様は宣言されているのです。
1.誰を守るのか?
イエス様は、聖書のいたるところで述べておられます。「わたしが来たのは、失われた者を捜し求め救うためである」(ルカ19章10節)と。本日のマタイ18章10節
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。人の子は、失われたものを救うために来た。」
教会は、一人のために建てられ、存在することがあってもよいと思います。失われた魂、傷ついた魂、弱い魂、躓きやすい心のために。そこに愛と情熱をかけてともに福音に聴き、従う教会です。
そう言ったら反論があるかもしれません。「教会は聖なる公同の教会であり、一人のためにあるのではなく、全体のためにあるのだ」と。
ごもっともだと思います。その通りなのです。確かに教会は一人のためだけではありません。しかしイエス様はこの「迷い出た羊のたとえ」で99匹の羊を残しておいて、迷い出た羊を捜しに行く、愛と恵みの神を示されています。
「そのように小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」
また「これらの小さな者を一人でも軽んじてはならない」と言われます。
一人を大切にしないで、しかも弱く傷ついた一人を守れないなら、それがどんなに形が整い立派な会堂と大人数を擁する教会であっても、それはイエス様の喜ばれる教会ではないということです。
2.つまずき、失われた人たち
ルカの福音書では、この失われた者として放蕩息子のたとえ話が語られます。一匹の羊を捜し求める神は、放蕩息子の立ち返るのを待ちたもう神であります。そして、失われた者とは、自らの放蕩三昧によって自分自身をも失っていた者であることが分かります。
自分自身を見失った者が、自分自身へと立ち返る。そこに人間としての自立、尊厳、誇りが回復されます。
教会が神に恵みによる共同体として建てられるということは、互いに愛し合い敬い合い、尊重するということです。それは、人間にとって大切な価値観が支えとしてあることを意味します。それは先ほども申しましたように、尊厳、誇り、自己評価を高めることです。
いのちの電話にかかわっていたとき、気づいたことがあります。それは、かかってくる電話の大半で、かけてくる人の自己評価の低さでした。悩み、苦しみはどこから来るかというと、その自己評価の低さによるものが原因だと察せられました。
「自分は駄目だ。」
「自分のような者は生きていく値打ちもない」
「自分は生まれてこなければよかった」
そんな電話が何度も何度も来ました。それはつまりこういうことです。家族の中で、学校のクラスの中で、会社のオフィスの中で、
「お前は駄目だ、無能だ、学力がない、勉強ができない、仕事ができない、くずだ」
「早くやめればいい、どこかへ行って、むかつく」
そんな言葉をいつも聞いていると、自己評価は低くなり、プライドも尊厳もなくなります。パワハラでもあります。自殺する人が増えています。
教会は、そのような失われた人に愛と敬意と暖かさと優しさを分かち合う群でもあります。神の命を分かち合い、回復する。復権ともいえます。そこに教会の使命があります。
わたしたちは、そのことで、点検する必要があります。他者、外国人や貧しい人、弱っている人に対してどう振舞っているか。裁いていないか。批判や非難がましいことを言って、排除していないか。
3.わたしたちが失われた魂であるといいうこと
さて、大なり小なり、程度の違いこそあっても、わたしたちは基本的に神にあって失われた者であります。傲慢不遜の人がいるとすれば、そのゆえにこそ失われた者であり、権力亡者・拝金主義的な人がいるとすれば、それであるゆえに失われた者であります。
取税人マタイやファリサイ派のニコデモ、ザアカイ、律法学者のサウロのちのパウロもまた、イエス様に見出されたものであります。誰一人、神の前で失われた者でない人はいないのです。
自分が罪人であること、失われて、迷い出ている一匹の羊であること。そして神に捜し求められている者であることを知るとき、わたしたちはいのちを見出し、回復へと導かれるのです。
もう一度繰り返しますが、教会の伝道の根拠―見失われた者を捜し求める神にあって、
捜し求められ、見出された者たちの寄り集まったところ、これが教会です。わたしこそが小さい者であった。失われた者であった。本来のものを忘れ、依るべき方から離れていた者でした。そういう者であるわたしたちを、イエス様は捜し求められ、見出し、救いと平安、安全なところへと抱き寄せてくださったのです。感謝。アーメン。
見出された時、わたしたちは告白します。神なしには生きられない者とされた。神の愛と恵みに立ち返ることで、再生した者である、と。そこに復活があったのです。この復活した姿こそが証しであります。
教会は、見失われた者を捜し求める神と共に伝道する教会でもあります。聖霊なる神様の助けと力によって、この時代、宣教のわざを進め、キリストの証し人となりましょう。