2024年1月28日 降誕節第5主日礼拝

2024年1月28日 降誕節第5主日礼拝

説教メッセージ


「盲人と口の利けない人のいやし
聖 書  マタイによる福音書9章27~34節

 わたしたちの人生は、時に思うようにならず、動かず、進まないことがあります。いわば、閉塞状態、停滞状態の中にいるようなものです。

日本の経済は、バブル崩壊以来、失われた30年と言われていました。この30年間、デフレ経済で物価も給与もほとんど変わりがなかったのです。

 それは、教会においても同じだと思うのです。こんにち、教会、教団は伝道の停滞と閉塞状態を招いていて、その宣教の働きは進展しません。日本キリスト教団だけでなく、どこの教団も教勢が伸びません。洗礼者が少なく、礼拝出席者も少ない。日本全体でクリスチャンの占める割合は1%も達していない状態です。いろいろ手を打っている。しかし、さほどの効果はない。そういう有様です。少子高齢化の波が教会にも押し寄せており、青年や若者、子どもも少なくなり、教勢が落ち込んでいます。コロナウイルス感染の猛威により、礼拝はじめ、教会の宣教活動ができない状態でもありました。

 

その閉塞状態、停滞から脱却し、成長するための方策があるのだろうか。いろいろ試行錯誤が試みられてきましたが、有効な効き目はありませんでした。しかし、イエス様はすべてのひとたちに福音を宣べ伝えなさいと語れました。福音宣教は、教会の使命ですし、甦られたイエス様の命令でもあるのです。

人間の思考、考えですね、論理ではなく、聖書の中に真理がある。これがわたしたちの信仰です。聖書に立ち返り、聖書を語る。これが一番大切なことだと信じます。礼拝は、神の言葉である聖書を語るのです。人間の感想や哲学、思想ではありません。人間の言葉ではないのです。聖書に忠実であること。これが一番大切なことです。ここに閉塞状態、停滞を脱却していく真理があります。

それを本日は学び、神の言葉として聞きたいと思います。

今日読まれた聖書、マタイによる福音書9章27~34節ですが、ここでは二つの癒しの記事があります。はじめは、二人の盲人が見えるようになる記事(27~31節)、次は、口のきけない人がいやされ、ものを言い始める記事です。イエス様は癒しを行なわれ、奇跡を示されます。

そこには、本来備わっていたもの、見る目、言葉を話す口、聞く耳という人間の器官が機能しない状態であったことを示しています。

目があるのに、見えない。口があるのに、舌があるのに喋れない。耳があるのに、聞こえない。能力のなさ、機能しない。そこには絶望と諦めしかありません。自分の力、努力では如何ともしがたいのです。

 そこにイエス様が通りかかります。盲人たち、口のきけない人はイエス様によっていやされます。機能が回復します。本来あった目、口という器官の機能が働くようになるのです。

このイエス様の癒しの記事から、三つにまとめてお話いたします。

1.イエス・キリストの癒しは、身体と心の機能を回復する

 マタイによる福音書を読む時、明確に意図されたいやしと奇跡の記事が理解されます。つまり、8章から9章にかけて、癒しの記事が3,3,3、と続いているです。8章のはじめは、らい病人のいやし、百人隊長のしもべのいやし、ペトロの姑のいやしの記事です。次に権威をテーマにイエス様はいやしを行なわれます。嵐という自然界への権威と支配、悪霊への権威と支配と奇跡です。そして、9章のはじめは罪を赦す権威と罪への支配です。

そして、9章18節からの癒しの記事が三つです。死んだ会堂長ヤイロの娘、12歳ですの甦りの記事です。先週、マルコによって説教しました。死に打ち勝たれた。12年間、出血が続いた女性を癒されました。本日の盲人と悪霊に取りつかれて口のきけない人をいやされた。それはひとことで言うと、回復ということです。

生命の回復、女性の生殖機能の回復、耳と口の回復。マタイのメッセージは、神の癒しというのは、生きることにある。いのちの機能の充全な働き、動き、再生産され、維持されていくのだということです。 

 

2.イエス・キリストの癒しは、社会を変える

いやされ、回復した人は次のステップに行きます。それだけで終わらないのです。

病院にはリハビリ室というのがあります。リハビリテーションですね。入院し、治療を受けて快方に向かった人が、リハビリ室でさらに機能の順調な回復と社会復帰すなわち退院して、仕事の現場に戻るように訓練を受けます。

それと同じように、イエス様の癒しは、わたしたちの身体と心の回復だけでなく、社会へと復帰するためのいやしでもあります。それは社会そのものの癒しをも意味します。社会を癒し、社会の機能の回復、社会が本来あるものへと働いていく。それは奉仕といってもよいかと思います。なぜなら、社会もまた神の創造の御手によるものだからです。社会も生命体です。イエス様の使命は、社会全体を癒すこと。社会という病気と死の甦り。機能の回復です。

 癒しと回復は、能力の再発見へとつながります。それは、神から与えられた賜物の発見と確認です。ですから次のステップは自信と謙遜さ、感謝と献身が大きなテーマとなります。このテーマは、次の10章になりますが、それは宣教と派遣と言えるでしょう。イエス様の癒しは、宣教のために派遣されることへと導かれるのです。

宣教のためにキリストを見、福音を語る口が与えられる。悪霊に打ち克ち、キリストにあって神の国が到来したことを告げる。神の言葉をわたしたちが語り、宣べ伝えるのです。

ですから、回復は単なる癒しではないのだということです。神の直接的なわたしたち人間への介入、世界への介入です。世を造り変えるために、イエス様は来られました。再創造です。わたしたちは、その神のみわざに参入する栄誉を与えられているのです。

そのための癒し、救い、信仰、生命です。わたしたちを通して、神の御名が崇められる。神の栄光が現される。そういう生き方へと、わたしたちは召されているのです。

3.イエス・キリストの癒しは、神の国の到来を宣言する

 イザヤ35章5節から読んでみたいと思います。

「そのとき、見えない人の目は開き、聞こえない人の耳は開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。」

 本日のマタイ9章のふたつの癒しは、このイザヤの預言の成就を宣言しています。そこに神の国の到来がイエス様によってもたらされた事実を語っています。

 イエス様こそ、罪によって覆われた世界の閉塞状態、空虚さ、闇を打破し、光をもたらし、新しい聖霊の風を吹かされるものであります。

主イエス・キリストこそが、わたしたちのいのちを再創造され、新しい道を開かれるのです。そして、わたしたちの人生を意味あるものとし、社会を変革し、新しい風と命を注がれるお方なのです。それを信じましょう。

神は必ず聖霊を注ぎ、力を与えてくださいます。信仰を強くし、祈り、讃美しましょう。 

神の新しいみわざを期待し、拝しましょう。

 祈ります。