聖 書 使徒言行録16章25~34節
説 教 理不尽な境遇で、人はどう生きるか
理不尽とは、道理にかなわないこと、筋が通らないことを意味します。不条理、不合理であるということです。理不尽な境遇とは、いまの境遇において筋が通らない。つまり人として正しくないということです。おかしい。なぜ、こんなことが起こるのか。そういう疑問、投げかけです。そういう理不尽な境遇を経験された方は多いでしょう。
聖書にはヨブという人がいます。みなさん、ご存知でしょう。ヨブは正しい人、非の打ち所がない立派な人、人格者、誰からも尊敬され、愛され、頼られていました。しかも、財産家でした。それは神の祝福の結果なのです。
しかし、そのヨブに一日のうちに、その持てる資産、つまり羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、そしてその動物たちを管理し飼育する使用人のすべて、さらにこどもたち七人の息子と三人の娘の10人全員を失うのです。それに加えて、ヨブ自身が病気に冒されてしますのです。
それでも、ヨブは神様に対する信仰をもち、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1章21節)と悲劇を受け入れるのです。
ヨブの奥さんはその夫をみて、神を呪って死んだほうがましだと夫であるヨブにけしかけます。
ヨブは答えます。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、ヨブは「唇をもって罪を犯すことをしなかった。」(2章10節)のです。
わたしたちの人生において、また信仰をもち、平安と救いを頂いている。そういうなかにあっても、時に理不尽な出来事や境遇に遭うことがあります。思わぬ事故、本人、家族にとっても、病気、などがあります。そして、死という究極的な喪失感を持つことがあるのです。
そのような時、どうしてですか。なぜ、と問いかけます。
信仰者が苦しむ。罪のない人が冤罪に遭う。当事者たち。
東日本大震災では地震と津波で3万人の人が亡くなりました。また、フクシマ原発により家を追われ、故郷をなくしました。ロシアのウクライナ侵攻により、ロシアの兵士が戦闘により10万人以上、ウクライナ市民もまたロケット弾とミサイルで十万人以上、住む家が破壊され、都市が粉砕されました。
イスラエルでは、ガザでイスラエルのロケット弾で数千人が死んでいきます。
戦争と震災、津波。人災、天災による無数の死者と破壊があります。死んでいく人たち、家族、国の統治者たちは理不尽な出来事に苦しみ、嘆き、叫んでいるのです。
ニュースの映像で、ガザの女性が「神様、助けてください。神様、助けてください」と泣き叫んでいます。悲劇と苦しみが襲う。
本日は、創立114周年、復興78年を記念する礼拝です。創立については、週報の裏面に記しています。中田重治牧師が東京で福音伝道館のちにホーリネス教会を立ち上げ、数年後に仙台に福音宣教されます。その時に、今の五橋教会の役員であった伊藤卯三郎兄弟が中田先生に心酔し、仙台に青葉荘教会の前身となる伝道所が創立されたのです。初代牧師は野辺地天馬先生です。1909年です。それから教会は発展していくのですが、戦時下、ホーリネス教会は弾圧されます。時の牧師は第7代牧師の中島代作先生。先ほど証しをされた高橋道子姉のお祖父さんに当たられる先生です。
キリスト教の福音を宣べ伝える。それが教会の役割であります。その教会が国家の政策により軍国主義、戦争遂行のために平和を強調するキリスト教は邪魔なのですね。真っ先に潰されてしまう。その前に、牧師補小山宗祐先生が1941年3月23日に獄中死。拷問死されるのです。
何も罪を犯していない。ただキリスト教の伝道師、牧師であるゆえに、弾圧、迫害されたのです。これも理不尽です。この弾圧により、国家によって殺された牧師は6名いらっしゃいます。中島代作先生もほかのホーリネス教会の牧師と同様、検挙、獄に入れられます。1年半獄に繋がれたのです。牧師が牢獄に入れられる。理不尽です。
しかし、獄にあっても、ヨブのように腐ることなく、神様に悪態をつくこともなく、不信仰になることなく、牢獄の中でも祈り、声を出さなくても、神を賛美されていたのです。
本日の聖書の箇所。使徒言行録16章25節から読んでいただきました。
16章は、パウロが小アジア伝道からはじめてヨーロッパに足を踏み出し、福音を宣べ伝えた地でもあります。フィリピの地で、パウロの伝道は進展し、イエス・キリストを救い主として信じ、洗礼を受ける人たちが現れたのです。そこからフィリピの教会が誕生しました。のちにパウロはフィリピの教会に手紙を書くのですが、それがフィリピの信徒への手紙なのです。
フィリピの街で、パウロたちはリディアに出会います。ヨーロッパ最初の回心者となりました。
使徒言行録16章12~15節
「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。・・・安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。私たちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けた」
その後、パウロたちは、地元の偶像礼拝者たちとトラブルになり、鞭打たれ、投獄されます。しかし、獄中で彼らは喜びの賛美をするのです。投獄も彼らの熱心を妨げることは出来なかったのです。
23~25節
「何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」。
<聞き入っていた>とあります。
何も悪いことをしていないのに、牢獄につながれる。むしゃくしゃして、理不尽を訴え、叫び、毒づくのが普通です。現代ですと、冤罪として、裁判所は訴えられますね。
キリストのゆえに、不平不満を言わない。悪びれない。静かに落ち着いていて、祈り、神を賛美する。
それを廻りの囚人たちが聞き入っていたというのです。同時に、看守も聞き入っていたでしょう。だから、地震が起こり、パウロたちを縛る鎖も外れても、だれも逃げ出さなかった。脱走するのは当然の時代です。囚人が脱走してしまったと思い、責任を感じて看守は自害しようとします。パウロは、彼を引きとめ、その結果、看守も回心し、家族一同で洗礼を受けます。
26~34節
「大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ『自害してはいけない。私たちは皆ここにいる』。看守は・・・二人を外へ連れ出して言った『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか』。二人は言った『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます』・・・看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」。
救い主イエス様を信じ、共に生きる人にとっては囚われても自由であり、そうでない人には本当の自由はないことを知った看守は、悔い改めて受洗したのです。また一人の回心は家族の救いをももたらします(使徒2:39)。
聖書には、「すべてのこと相働きて益となる」(ローマ8章28節)という言葉があります。たとえ理不尽のようなことに見えても、神はその試練をこえて、さらに大きな恵みと祝福を与えてくださることを言うのです。
そこに神を信じる信仰と祈り、忍耐して神の時を待つ。これがキリスト教の信仰なのです。
復興78年周年のことですが、日本は戦争に敗れ、民主主義国家へと変えられました。教会は復興し、礼拝はじめ集会は再開し、自由に伝道し、福音を宣べ伝えるようになったのです。そして、今の仙台青葉荘教会があります。
教会は空襲に遭い、焼けてしまいました。当時の仙台、日本の多くの都市は空襲にあい、焼け野原となったのですが、不死鳥のように立ち直ったのです。78年前に松下孝三、シンさんご夫妻の好意、松下家のお家で、礼拝が再開されました。この日を復興記念日としたのです。
中島先生は、獄に遭っても、パウロのように、賛美と祈りをされていました。弾圧され、獄に遭った140名のホーリネスの牧師もみな、そのように祈りと賛美にあったのです。
理不尽な中でも、それを克服して信仰を全うされたのです。
仙台青葉荘教会はその伝統を持っていることを確認し、新型コロナウイルス感染の影響で、対面礼拝ができない期間がありました。まさに、戦時下のホーリネス弾圧を想い起します。礼拝は国家の弾圧と迫害でできなかったのですが、いまは伝染病でできない。礼拝できなかった期間は4年余りです。中島先生は獄にありました。中島先生、ご家族、教会員は信仰をもって祈っていました。
コロナでは4年目になっています。コロナ感染が軽くなり、対面できるようになりました。自由に礼拝、祈祷会等も集会ができるようになり、感謝です。
理不尽なことが起こっても、そういう境遇にあっても、神は助けてくださいます。
最後にⅠコリント10章13節をお読みします。
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
逃れる道とは、出口、抜け出る道です。神が用意されるのです。信じ、感謝し、信頼して進みましょう。