聖 書 エフェソ2章14~22節
説 教 火中に栗を拾う
小説家の大江健三郎氏(今年3月88歳で逝去)がノーベル賞を受賞した時の言葉がとても印象的に残っています。それは、「これからの文学のテーマは、いやしと和解である」。そのように彼は言いました。「いやしと和解」というテーマは本来ですと宗教、とくにキリスト教の専売特許のようなものですが、日本文学のキリスト教への歩み寄りかなと思わされました。もっとも、欧米の文学の本流は昔から、「いやしと和解」というテーマでした。
本日の聖書は、まさしく「いやしと和解」がテーマです。エフェソの信徒への手紙2章
14節以下ですね。
1.いやしと和解
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
イエス様は平和そのもののお方です。そこには敵意、憎しみ、まして殺意はありません。愛そのもののお方です。そして、いのちである方です。キリストの十字架の贖いが、敵意の隔てによって分かたれた二つのものを取り壊し、一つにされるのです。
二つのものとあります。ひとつは文脈的にはイスラエル、ユダヤ人ですね。もうひとつはイスラエル以外の人たち、つまり異邦人です。イスラエルは、神の民とされた民族であり、選ばれた民です。律法という神からの契約の法が与えられた特別の民と自認していました。異邦人は11~12節にある通りです。わたしたち日本人も聖書でいう異邦人です。
これは現代的に解釈すれば、欧米のキリスト教国とそうでない国々の民ということができるでしょう。神に選ばれた民とそうでない民。神を信じ、従う民。一方は、偶像宗教の民。まさしく、神を知らずに生きてきました。
その二つの民を神は、イエス・キリストにおいてひとつにしようとされたのです。すなわち、ガラテヤ人3章28節には、次のように記されています。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
2.救いは十字架のキリストにある
14節 もう一度お読みします。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
14節を分解しますと次のようになります。
1.敵意という隔ての壁を取り壊し、
2.双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて
3.平和を実現し、
4.神と和解させ、
5.十字架によって敵意を滅ぼされました。
現代におけるわたしたちの課題を当て嵌めることができます。
とくに1.敵意という隔ての壁です。
①ベルリンの壁 取り壊された 参考 1
155キロメートルの壁です。1989年崩壊 1990年に東西ドイツは統一。
②イスラエルの中にあるガザ 高い壁を作った 参考 2
ヨルダン川西岸の壁 高さ 6メートル 総延長 500キロ(2012年)
ガザ地区の壁 120キロ
③わたしたちの中にある敵意という隔ての壁
偏見、敵意、差別、憎しみ、嫉み、妬み
こんにち、世界の情勢は混とんとしています。イスラエル、ガザの戦闘、病院が爆撃され、子どもが殺されています。キリスト教の病院です。
また、ウクライナ問題があります。ロシアが依然として侵攻しており、いつ終わるのか分かりません。
さらに、中国共産党が支配している中国が台湾を侵攻しようと見られています。
これからどうなるのか。将来は? 日本は? 世界は? 子どもたちの将来、未来は?
まさに、世界は滅ぶるばかりで、何一つ予見できないことが多いのです。今夏の異常気象、沸騰する地球。犯罪が増えていく日本。正直でまじめな人たちが苦しんでいます。悩み、疲れているのです。本当の平和、真実、喜び、感謝すること。わたしたちはそれを求めています。しかし、どこにそれがあるでしょうか。見出すことができるでしょうか。
キリストの十字架にそれを見るのです。すべてが十字架のキリストにあるのです。それを確信しますし、それ以外に救いはありません。
使徒言行録4章12節 口語訳
「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
ここに真の希望があり、わたしたちの未来があり、真実があります。わたしたちの罪のために十字架に架かられた神の子イエス様。イエス様が十字架でご自身をささげられたこと。ここに真の希望があります。未来があります。
今日は宗教改革記念としました。1517年10月31日 ルターが宗教改革を起こした日とされます。週報のコラムに記しました。あとで読んでいただければと思います。
説教題は「火中の栗を拾う」です。その意味は、自分の利益にならないのに、危険をおかすことのたとえ。また、危険を承知で、あえて問題の処理や責任ある立場を引き受けることのたとえと広辞苑にありました。
ルターが行った宗教改革の運動は、まさに自分の利益ではなく、危険が迫り、死さえも覚悟した改革でした。それが歴史を変えたのです。
ルターは、信仰によってのみ義とされると確信し宗教改革を断行したのです。その根拠は聖書です。宗教改革の3大原理。①信仰のみ ②聖書のみ ③万人祭司
万人祭司とは、ひとことで言えば、和解の使者とされたと言えるでしょう。信仰者は、和解の使者として神と隔ての壁に遮られた相手に対して、和解のメッセージを取り次ぐのです。壁を取り壊すのは、神ご自身です。
これが教会の宣教であり、伝道です。教会員のひとりひとりが和解の使者なのです。証し人です。そこで次のように、わたしたちは、自分自身に問いかける必要があります。
①自分が、新しい人となっているか。罪を悔い改め、十字架の贖いを確信していること。
②自分の中に平和があるか。
③神と和解し、人と和解しているか。
宗教の名で人を審き、攻撃する。自分を神としてはならないのです。十戒の第一戒。
わたしたちが信仰を告白して洗礼を受けるということは、このように新しい人となっていること意味しています。そして、和解の使者としてこの世に福音を宣べ伝えていく使命を与えられたのです。キリストによって新しい人に造り変えられる。これが福音であり、神の愛と恵みなのです。ここに教会が建てられている意味と目的があるのです。
わたしたちは、キリストによって新しくされている。そのことを信じ、喜びと感謝をもってキリストを証ししていきましょう。そして、それができるように、聖霊の助けと力を常に求めて行きましょう。